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108年・109年、飢饉、羌と匈奴が初めて離反

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

108年春、飢えた民を、荊州と揚州にうつす

孝殤皇帝永初二年(戊申,公元一零八年)
春,正月,鄧騭至漢陽;諸郡兵未至,鐘羌數千人擊敗騭軍於冀西,殺千餘人。梁 慬還,至敦煌,逆詔慬留為諸軍援。慬至張掖,破諸羌萬餘人,其能脫者十二三;進至 姑臧,羌大豪三百余人詣慬降,並慰譬,遣還故地。
御史中丞樊准以郡國連年水旱,民多饑困,上疏:「請令太官、尚方、考功、上林 池御諸官,實減無事之物;五府調省中都官吏、京師作者。又,被災之郡,百姓凋殘, 恐非賑給所能勝贍,雖有其名,終無其實。可依征和元年故事,遣使持節慰安,尤困乏 者徙置荊、揚孰郡。今雖有西屯之役,宜先東州之急。」太后從之。悉以公田賦與貧民, 即擢准與議郎呂倉並守光祿大夫。

108年春正月、鄧騭は漢陽にくる。諸郡の兵がくる前に、鐘羌が冀県の西で、鄧隲の兵を1千余殺した。梁慬は西域から、敦煌にもどる。梁慬を張掖によばれ、羌族を破った。
御史中丞の樊准は、郡國が連年、水旱で民が飢えたから、上疏した。「宮廷のムダをはぶこう。前漢武帝の征和元年の故事にならい、困窮した人を、荊州と揚州のいずれかの郡にうつせ。西方に戦さがあるが、東方の国内のほうが、緊急だ」と。鄧太后は従う。公田を貧民に貸した。樊准と、議郎の呂倉を、光祿大夫とした。
2月乙丑、樊准を冀州に、呂倉を兗州にゆかせ、流民に穀物を貸す。すべて流民は、息を吹きかえす。

ぼくは思う。国内が飢えたから、国外につけこまれたか。国内と同様に、国外も飢えたから、後漢に流れこんできたか。後者のほうが、説得力があるか。西か東、二者択一をせまっている点が、おもしろい。


108年夏秋、洛陽の囚人を、鄧太后が再審

夏,旱。五月,丙寅,皇太后幸洛陽寺及若盧獄錄囚徒。洛陽有囚,實不殺人而 被考自誣,羸困輿見,畏吏不敢言,將去,舉頭若欲自訴。太后察視覺之,即呼還問狀, 具得枉實。即時收洛陽令下獄抵罪。行未還宮,澍雨大降。
六月,京師及郡國四十大水,大風,雨雹。秋,七月,太白入北斗。閏月,辛丑, 廣川王常保薨。無子,國除。 癸未,蜀郡徼外羌舉士內屬。

108年夏、日照。5月丙寅、鄧太后は、洛陽の官舎にゆく。無罪の人を見定め、釈放した。鄧太后は、無罪の人をとらえた洛陽令を、下獄した。時雨がどしゃぶり。

ぼくは思う。鄧太后が賢いのか。牢獄の運営費を、はぶいたか。

6月、京師と郡國40で、大水、大風、雨雹。108年秋7月、太白が北斗に入る。108年閏月辛丑、廣川王の劉常保が薨じた。子なく、国を除く。閏月癸未、蜀郡の徼外にいる羌が、內屬した。

108年冬、河南の龐參が、涼州の放棄をいう

冬,鄧騭使任尚及從事中郎河內司馬鈞率諸郡兵,與滇零等數萬人戰於平襄,尚軍 大敗,死者八千餘人,羌眾遂大盛,朝廷不能制。湟中諸縣,粟石萬錢,百姓死亡不可 勝數,而轉運難劇。故左校令河南龐參先坐法輸作若盧,使其子俊上書曰:「方今西州 流民擾動,而征發不絕,水潦不沐,地力不復,重之以大軍,疲之以遠戍,農功消於轉 運,資財竭於征發,田疇不得墾辟,禾稼不得收入,搏手困窮,無望來秋,百姓力屈, 不復堪命。臣愚以為萬裡運糧,遠就羌戎,不若總兵養眾,以待其疲。車騎將軍騭宜且 振旅,留征西校尉任尚,使督涼州士民轉居三輔,休徭役以助其時,止煩賦以益其財, 令男得耕種,女得織紝,然後畜精銳,乘懈沮,出其不意,攻其不備,則邊民之仇報, 奔北之恥雪矣。」

108年冬、鄧騭は、任尚と從事中郎する河內の司馬鈞に、滇零らと平襄で戦わせた。,後漢が負けて、死者は8千余人。羌族を、後漢は抑えられない。湟中の諸県は、穀物が高騰した。死者は、数えられない。
もと左校令した河南の龐參は、子の龐俊に上書させた。「車騎将軍の鄧隲は、征西校尉の任尚をとどめ、涼州の士民を三輔に移住させよ。涼州を維持できる、財政状況ではない。産業を振興してから、涼州を取りもどそう」と。

書奏,會樊准上疏薦參,太后即擢參於徒中,召拜謁者,使西督三輔 諸軍屯。十一月,辛酉,詔鄧騭還師,留任尚屯漢陽為諸軍節度。遣使迎拜騭為大將軍。 既至,使大鴻臚親迎,中常侍郊勞,王、主以下候望於道,寵靈顯赫,光震都鄙。

龐俊は、父の龐参に代わり、涼州の放棄を上奏した。たまたま樊准は上疏して、龐参を推薦した。鄧太后は、龐参を謁者として、三輔の軍を督させた。
108年11月辛酉、鄧隲をよびもどす。任尚を漢陽にとどめ、節度をまかす。鄧隲を、大將軍とした。鄧隲が京師にくると、大鴻臚はみずから迎えた。みな道にならび、鄧隲は大歓迎された。鄧太后の身内だから、鄧隲の権威は、都鄙をふるわす。

胡三省はいう。鄧隲は、西方で負けた。むしろ罪を願うべきだ。だが鄧太后に寵愛されて、大将軍に昇進した。歓迎を受けた。君子は、鄧隲が言いに死に方をしないと、知る。
ぼくもそう思う。洛陽の人は、西方の危機を、ただしく認識していなかったのではないか。鄧隲の敗戦は、主力が到着する前に、奇襲されたから。鄧隲も、戦さに挑むという姿勢がない。だから、つけこまれる。8千を死なせた。


滇零自稱天子,於北地招集武都參狼、上郡、西河諸雜種羌斷隴道,寇鈔三輔,南 入益州,殺漢中太守董炳。梁慬受詔當屯金城,聞羌寇三輔,即引兵赴擊,轉戰武功、 美陽間,連破走之,羌稍退散。
十二月,廣漢塞外參狼羌降。 是歲,郡國十二地震。

みずから滇零羌は、天子を称した。滇零羌は、武都にいる、參狼という種族をまねく。上郡、西河の羌たちは、隴道を断ち、三輔を寇鈔した。益州に入り、漢中太守の董炳を殺した。梁慬は金城で、三輔が寇されたと聞いた。武功(扶風)と、美陽(扶風)のあいだで、羌族を連破した。

ぼくは思う。羌族の本格な反乱は、今からかな。天子を称してしまった。いままで羌族は、後漢にしたがった。後漢が匈奴と戦うとき、その兵力となっていた。いま、羌族が背いた。
外から順に、皮がはがれていくのである。タマネギの芯が、異民族に攻略されてしまうのが、311年の永嘉の乱だ。

108年12月、廣漢の塞外にいる參狼羌が降った。

胡三省はいう。武都郡にいた、參狼羌とおなじ種族だ。広漢の塞外にも、分かれて住んだ。ぼくは思う。べつに分かれて住んだのではない。たまたま、同じ名前で、史料に記されてしまっただけ。どうせ、羌の種族なんて、管理上の用語である。

この108年、郡國12で地震あり。

109年夏、京師で大飢饉、南単于が反す

孝殤皇帝永初三年(己酉,公元一零九年) 春,正月,庚子,皇帝加元服,赦天下。 遣騎都尉任仁督諸郡屯兵救三輔。仁戰數不利,當煎、勒姐羌攻沒破羌縣,鍾羌攻 沒臨洮縣,執隴西南部都尉。
三月,京師大饑,民相食。壬辰,公卿詣闕謝;詔「務思變復,以助不逮。」 壬寅,司徒魯恭罷。恭再在公位,選辟高第至列卿、郡守者數十人,而門下耆舊或 不蒙薦舉,至有怨望者。恭聞之,曰:「學之不講,是吾憂也,諸生不有鄉舉者乎!」 終無所言,亦不借之議論。學者受業,必窮核問難,道成,然後謝遣之。學者曰:「魯 公謝與議論,不可虛得。」

109年春正月庚子、安帝は元服した。天下を赦した。
騎都尉の任仁に、三輔を救わせたが、勝てず。當煎羌、勒姐羌は、破羌縣(金城)を陥とす。鍾羌は、臨洮縣を攻め、隴西南部都尉を捕えた。

ぼくは思う。破羌県が、羌族に破られていては、世話ない。バカ。

109年3月、京師は大いに飢えた。人は、食べあう。3月壬辰、鄧太后は詔した。「過ちを改め、善に戻せ」と。

ぼくは思う。鄧太后は、打ち手なし!と宣言したのだ。笑

3月壬寅、司徒の魯恭がやめた。魯恭は2回、三公をした。列卿や郡守を、数十人あげた。かつて魯恭に、推薦してもらえない門下が、魯恭を怨んだ。魯恭は「勉強しろ」と励ました。門下は勉強して、魯恭に感謝した。

ぼくは思う。三公に長くいると、門下の裾野が広がる。胡広とか、袁氏とか楊氏とか。

夏,四月,丙寅,以大鴻臚九江夏勤為司徒。 三公以國用未足,奏令吏民入錢谷得為關內侯、虎賁、羽林郎、五官、大夫、官府 吏、緹騎、營士各有差。 甲申,清河愍王虎威薨,無子。五月,丙申,封樂安王寵子延平為清河王,奉孝王 後。 六月,漁陽烏恆與右北平胡千餘寇代郡、上谷。 漢人韓琮隨匈奴南單于入朝,既還,說南單于雲:「關東水潦,人民饑餓死盡,可 擊也。」單于信其言,遂反。

109年夏4月丙寅、大鴻臚する九江の夏勤を、司徒とする。三公は、後漢の歳入が足りないから、官吏から金銭や穀物をあつめた。4月甲申、清河愍王の劉虎威が薨じた。子なし。5月丙申、樂安王・劉寵の子・劉延平を清河王とした。
6月、漁陽の烏恆と、右北平の胡族が、1千余で代郡や上谷を寇した。漢人の韓琮は、南単于をそそのかす。「後漢は、人民が餓死しつくした。南単于は、後漢を撃て」と。南単于は、韓琮の提案を信じて、後漢に反す。

胡三省はいう。漢人と匈奴は、居住地がまざる。だから韓琮は、南単于に従った。ぼくは思う。「漢人は、餓死して全滅」は極端だが、それに近い状況だったのだろう。


109年秋に海賊、冬に南単于の大乱

秋,七月,海賊張伯路等寇濱海九郡,殺二千石、令、長;遣侍御史巴郡龐雄督州 郡兵擊之,伯路等乞降,尋復屯聚。 九月,雁門烏桓率眾王無何允與鮮卑大人丘倫等,及南匈奴骨都侯合七千騎寇五原, 與太守戰於高渠谷,漢兵大敗。
南單于圍中郎將耿種於美稷。冬,十一月,以大司農陳國何熙行車騎將軍事,中郎 將龐雄為副,將五營及邊郡兵二萬餘人,又詔遼東太守耿夔率鮮卑及諸郡兵共擊之。以 梁慬行度遼將軍事。雄、夔擊南匈奴薁鞬日逐王,破之。

109年秋7月、海賊の張伯路らが、濱海の9郡を寇した。太守、県令や県長を殺した。侍御史する巴郡の龐雄は、州郡の兵で、張伯路を降した。海賊を、故郷にもどす。
109年9月、雁門の烏桓と、鮮卑の大人らと、南匈奴は、7千騎で五原を寇した。五原太守は、高渠谷で大敗した。
南單于は、中郎將の耿種を美稷にかこむ。109年冬11月、大司農する陳國の何熙は、車騎将軍事を代行する。中郎將の龐雄は、副将となる。遼東太守の耿夔と合わさり、南匈奴を撃つ。梁慬は、度遼將軍事を代行する。後漢は、南匈奴の薁鞬日逐王を、破った。

ぼくは補う。光武帝に従った南単于は、これで反した。後漢にとって、残念な意味でのエポックメイクな出来事である。後漢の国運は、光武帝から和帝まで登り、安帝で一気におちた!なにがいけないのか。鄧太后に、徳がないのか。傍系の皇子を、ゴリ押しして、皇帝にするから。なんて、言いたくなるほど、不運である。史書は、鄧太后を賢人に仕立てるのに、おかしいなあ。
ちなみに、宮城谷『三国志』では、このあたりの時代が、すべてスッ飛ばされる。だから、『資治通鑑』で初めて知りました。民族の浮沈のほうが、ダイナミックでおもしろいのに。


十二月,辛酉,郡國九地震。 乙亥,有星孛於天苑。 是歲,京師及郡國四十一雨水,並、涼二州大饑,人相食。太后以陰陽不和,軍旅數興,詔歲終饗遣衛士勿設戲作樂,減逐疫侲子之半。

109年12月辛酉、郡國9で地震あり。 12月乙亥、星孛は天苑にあり。
この109年、京師および郡国41で、雨水あり。并州と涼州の2州で、大いに飢えた。人が食べあう。

ぼくは思う。後漢の政争は、静かである。内政だけ見たら、鄧太后のリーダーシップの賜物。周辺を見たら、異民族が暴れまくり、政争どころではないと分かる。
史書を読むとき、「平和な時代」には、二種類ある。ひとつ。君主のリーダーシップがすぐれ、ほんとに平和なとき。ひとつ。飢饉や外憂など、国をあげて対処すべき難問があり、見せかけの団結が生まれるとき。いまは、後者だ。順帝の時代も、後者だ。ぎゃくに、順帝が外交を整えたおかげで、桓帝や霊帝の時代は、政争がさかんになる。イメージを切り替えるべき。記述の多寡に、振り回されてはいけないなあ。

鄧太后は、陰陽が不和で、軍旅がつづくので、作樂をやめた。101228