163-164年、种暠、楊秉、度尚、史弼
『後漢紀』を抄訳します。
163年、洛陽門下吏から、出世した种暠
〔一〕范書作「春二月」。按正月戊寅朔,無戊午,作「二月」是。 〔二〕范書作「衛尉潁川許栩」,并系此事於三月。
延熹六年(163)、春正月戊午〔范曄は2月とする。戊午は2月がただしい〕、司徒の种暠が薨じた。大鴻臚の許栩を、司徒した。〔范曄は「衛尉する潁川の許栩」とする。3月とする〕。
〔一〕按御覽卷四七六引袁宏後漢書曰:「种暠字景伯,父為定陶令,有財三千萬。父卒,暠皆以賑鄉里貧賤者。其進趣名利者,皆不與交通。」與此文異,而與范書本傳同。疑御覽引書有名誤,或系袁山松後漢書亦未可知。
种暠は、あざなを景伯。河南の洛陽の人だ。早くに父が死に、財3千萬があったから、鄉里の貧者にくばった。
このとき豪貴な人のうち、种暠を知らない人はいない。
〔『御覽』卷476は、袁宏『後漢書』をひく。「种暠は、あざなを景伯。父は定陶令となり、財3千萬がある。父が死ぬと、鄉里の貧賤にくばった。進趣、名利する人とは、种暠は交通せず」と。袁宏『後漢紀』と、ことなる。范曄『後漢書』の种暠伝とおなじ。『御覧』が、范曄と袁宏を誤ってひいたか。あるいは、袁山松『後漢書』を誤ってひいたか。わからない〕
〔二〕據陳澧校而改。 〔三〕范書本傳無「功曹」二字。
种暠は44歳のとき、はじめて県に召され、門下吏となる。ときに河南尹の田歆と、外甥の王諶は、名を知られた。田歆は、王諶に言った。「河南は、6人の孝廉をあげる。貴人から、5人の指名をうけた。逆らえない。のこり1名だけは、清名ある人をあげたい。探してくれ」と。王諶はこたえた。「私は、きみ・田歆より、人材を知るわけでない。きみは二千石(河南尹)となり、郡中で賢良をさがした。誰か知らないか」と。田歆はこたえた。「郡中は、凡庸しかいない」と。
翌日、王諶は東に賓客を見送った。太陽郭の裏に、駐車して、种暠に会った。王諶はかえり、田歆に言った。「きみのために、孝廉を見つけた。洛陽門の下吏だ。灯台もと暗しだ」とわらった。田歆は、庭中に种暠を召した。种暠の上司・長吏の仕事について、詰問した。种暠のこたえは、スジがとおった。田歆は种暠を、主簿、功曹とした。孝廉にあげた。种暠は、名を知られた。
〔范曄の种暠伝は、「功曹」の2字がない〕
夏四月辛亥,康陵東署大火。 秋七月甲午,平陵園寢火〔一〕。 〔一〕范書及續漢志均作「甲申」,袁紀誤。
2月戊戌、天下を大赦した。〔范曄のいう3月がただしい〕
夏4月辛亥、康陵の東署が、大きくもえた。
秋7月甲午、平陵園寢がもえた。〔范曄のいう甲申がただしい〕
〔一〕「幸」字據文意補。或當作「上校獵廣城」。又錢大昕廿二史考異曰:「『城』當作『成』,馬融上廣成頌,即此。」 〔二〕據范書改。 〔三〕見書皋陶謨。文曰:「無教逸欲有邦。」乃皋陶將為帝舜謀而先語禹之語。 〔四〕見書無逸,「遊於田」作「於遊田」,袁紀恐誤倒。 〔五〕范書「焦心」下有「毀顏」二字,袁紀恐脫。
10月,桓帝は廣城へ、校獵にゆく。〔銭大昕はいう。広成がただしい〕。
光祿勳の陳蕃は上書して、校猟をいさめた。「校猟して遊んでないで、民をいつくしめ」と。桓帝は、陳蕃をきかず。
164年(1) 太尉の楊秉は、すべてを統御する
三月癸亥,殞石於右扶風〔一〕。 〔一〕殞石於右扶風之鄠縣也。又按三月壬申朔,無癸亥,疑系二月事。范書亦誤。 太常楊秉為太尉〔一〕。 〔一〕按范書桓帝紀,四年三月太尉黃瓊免,四月劉矩為太尉。五年冬楊秉始代劉矩為太尉,與袁紀異。通鑑從范書,是。
延熹七年(164)、春2月、太尉の黃瓊が薨じた。
黄琬は、あざなを世英。江夏の安陸の人だ。三公となるが、廉平で公正だった。桓帝は黄琬をおしみ、車騎將軍、邟鄉侯の印綬を贈った。昭侯〔范曄では、忠侯〕をおくった。孫は、黄琬である。
3月癸亥、右扶風に殞石がおちた。〔右扶風の鄠縣におちた。3月ついたちは、壬申だ。3月に、癸亥がない。2月だろう。范曄も、3月だと誤る〕
太常の楊秉を、太尉とする。
〔范曄の桓帝紀をみると。延熹四年3月、太尉の黃瓊を免じた。4月、劉矩を、太尉とした。延熹五年(162)冬、はじめて楊秉は、劉矩にかわって太尉となる。袁宏とことなる。『資治通鑑』は、范曄にしたがう。范曄がただしい〕
〔一〕黃本作「掾」,蔣本改作「秉」,皆不當省,今并存之。 〔二〕據范書改。即使掾復對尚書。 〔三〕僖公二十四年左傳中晉寺人披之言。楊伯峻曰:「此猶竭盡己力而為。」 〔四〕事見漢書申屠嘉傳。 〔五〕惠棟曰:「袁宏紀:何敞謂宗由曰『春秋稱三公為宰者,言無所不統也』。漢書翟方進云『春秋之義,尊上公謂之宰,海內無不統也』。又百官公卿表曰『三公參天子,坐而議政,無不總統,故不以一職為官名』。」 〔六〕范書楊秉傳作「延熹八年」事。
このとき中常侍の侯覧、貝瑗は、おごる。人材採用は誠実でなく、政治は賄賂でまわす。楊秉は、侯覧のわるさを上奏した。尚書は、楊秉の掾属をなじった。「楊秉は、三公の担当外に口をだす。なにを根拠に、楊秉は口をだすのか」と。楊秉は、文書で尚書にこたえた。「君主のそばから、悪をのぞく。前漢の文帝の故事〔『漢書』申屠嘉伝にある〕にてらすと、三公が担当しないことはない」と。尚書は、もう楊秉をなじれない。やむをえず桓帝は、侯覧と具瑗を、免じた。
〔恵棟はいう。袁宏はいう。「何敞は宗由に言った。『春秋』によると、三公は宰相であり、統御しないところはないと。『漢書』翟方進伝はいう。『春秋』の義によると、上公をとうとび、宰相という。海内に、統御しないものはない」と。また『百官公卿表』はいう。「三公は天子に参じ、議政に参じる。總統しないものはない。ゆえに三公は、1つの官名というだけでない」と〕
三公を例えるなら、親会社の言うことを聞かなくなった、おおきな子会社である。はじめは、親会社に供給するための部品をつくっていた。次第に、商品競争力がついてきて、親会社の競合企業とまで、取引をはじめた。資本関係は、まちがいなく「子会社」なのだが、ふるまいは「合弁会社」ないしは、独立企業。子会社の発言力は、およばないところはない。
子会社の社長には、親会社の役員が「あまくだる」のだ。親会社のなかで出世した人が、子会社の社長となり、親会社に対して「営業」や「牽制」をかけるようになる。三公とおなじ。
責任や権限がおおきいが、任期がたった数年なのも、おなじ。
後漢の国家制度を、「裾野がひろい、ひとつの大企業」として見ると、おおくのことに、気づくかも知れない。三国鼎立にいたるプロセスまで、説明がつきそう。なぜ、これをやるか。平日の昼間に、身をもって見聞していることに照らすと、リアルに発想できる。
〔范曄の楊秉伝は、この記事を、延熹八年(165)とする〕
〔一〕范書皇后紀「庾」作「秉」,乃鄧皇后兄鄧演之子,鄧統之弟。
夏4月乙丑、皇后の弟・鄧庾を、育陽侯にふうじた。
〔范曄の皇后紀は、鄧庾でなく、鄧秉とする。鄧秉は、鄧皇后の兄・鄧演の子であり、鄧統の弟である〕
164年(2) 荊州刺史の度尚が、蛮夷をやぶる
164年、秋9月、武陵の蠻夷が叛いた。數郡を寇掠した。荊州刺史の度尚は、戦おうというとき、治中別駕に言った。「蛮夷は、強くておおい。どうしたらよいか」と。従事たちは、アイディアがない。度尚は、ひろく言った。「私たちは、兵がすくない。諸郡から兵がとどくまで、休息せよ。射獵してよい」と。軍中は喜踊して、出ていった。度尚は、ひそかに親燔する人たちを呼びもどした。呼びもどされた人は、みな涕泣した。度尚は、彼らを慰労した。「蛮夷は、財宝がおおい。数世、遊んでくらせる財宝だ。死ぬ気でがんばれ」と。
翌朝、度尚は蛮夷の城屯にゆく。賊が見るに、度尚は晏然とし、はからずも吏士は憤激している。ついに蛮夷をやぶった。
度尚は右鄉侯に封じられた。1子を郎とした。
〔一〕按謝承書、范書等「俊」皆作「」,亦作「雋」。然其本字作「俊」。 〔二〕水經注漸江水曰:「上虞縣東有龍頭山,南帶長江,東連上陂,江之道南有曹峨碑。縣令度尚使外甥邯鄲子禮為碑文,以彰孝烈。」
度尚は、あざなを博平。山陽の湖陸の人だ。はじめ上虞長となり、姦伏を糾摘した。縣中で、神明だと言われた。門下書佐の朱俊〔朱儁〕を抜擢した。のちに朱儁は有名となったが、度尚の言いつけをまもった。上虞県に、曹娥という14歳の孝女がいた。父の曹旴は、長江でおぼれ、死体があがらず。曹娥は、父をおって、長江に飛びこんで死んだ。墓碑を立てて、これを顕彰した。〔『水経注』は、この碑をしるす〕
縣民に、もと洛陽市長の淳于翼がいた。學問が淵深で、旧名ある大儒でも、田里にもぐってしまう。度尚は、淳于翼に礼儀をつくした。主簿が帰ろうと言っても、帰らず。淳于翼は、度尚に会ってくれた。度尚が、賢を優び、善を表するのは、こんな感じだ。
〔一〕所臨之水,乃漢水也,袁紀恐脫「漢」字。又十月戊戌朔,無戊辰。或系十一月之事。 〔二〕據范書補。又此句之首,恐脫「還幸新野」四字。
冬10月、章陵にゆき、舊宅をまつる。陵廟をまいる。10月戊辰、雲夢にゆき、桓帝は、漢水にのぞむ。〔袁宏は「漢」の字を脱した。十月ついたちは、戊戌。10月に戊辰はない。11月のこととすべきだ〕
湖陽、新野公主をまつる。〔壽〕張敬侯、魯哀公の廟をまつる
〔范曄によると、この文のあたまに、「新野にもどり」がぬけている〕
164(3) 史弼が、渤海王・劉悝や、侯覧と対立
〔一〕僖公二十四年左傳曰:「初,甘昭公有寵於惠后,惠后將立之,未及而卒。昭公奔齊,王復之,又通於隗氏。王替隗氏。頹叔、桃子曰:『我實使狄,狄其怨我。』遂奉大叔以狄師攻王。」又曰:「天子無出,書曰,『天王出居于鄭』避母弟之難也。」楊伯峻曰:「甘昭公即惠王子、襄王弟王子帶,封於甘,昭,其謚。」大叔,即王子帶也。「王復之」,僖公二十二年,襄王迎其弟于齊,遂有此變。 〔二〕梁王,竇后少子,賜天子旌旗,出警入蹕。太后欲景帝傳位于孝王,袁盎諫,梁王遂令人刺殺盎。事見漢書文三王傳。 〔三〕羊勝,梁孝王謀主:伍被,勸淮南王反者。 〔四〕見尚書君陳。友于兄弟之意。
このとき勃海王の劉悝は、驕慢で僭侈であり、法度をまもらない。桓帝は、子がない。ひそかに劉悝は、つぎの皇帝をねらう。北軍中候の史弼は、上疏した。「渤海王の劉悝は、桓帝の親戚ですが、あまやかしてはいけない。公卿たちに、示しがつかない」と。桓帝は、劉悝が弟だから、不問にした。
史弼は、あざなを公謙。陳留の考城の人。歷職して忠謇し、傾撓しない。尚書から、平原太守となる。〔范曄は「平原相」とする。范曄がただしい。范曄の蔡邕伝にひく謝承『後漢書』はいう。「史弼は、山陽太守にうつる。妻は、鉅野の薛氏だ。三互のルールに反するから、みずから申請して、平原相に転じた〕
桓帝は詔書して、諸郡の党人をあげさせた。太守たちはおそれ、数千人〔范曄は、数百人とする〕があがる。
なぜ桓帝は、おおくの野党をつくったか。ひきつづき、考えたい問題。
袁宏は「数千人」といい、范曄は「数百人」という。たしかに「数千人」というのは、現実的でない。ぼくが范曄なら、「数千人」として、士人がこうむった危害を強調したいけどなあ。袁宏も范曄も、「すごくたくさん」という意味しか、ないのだろう。
史弼だけは、党人をあげない。從事主は、史弼をせめた。「うち平原国だけ、党人がいないというのは、おかしい」と。それでも史弼は、党人をあげない。從事は大怒して、史弼の罪を上奏した。史弼は免じられた。
〔従事とは、州刺史の官属だ。刺史が従事をおくり、属郡に督促して、党人をあげさせた。ゆえに従事主という〕?
〔四〕沈欽韓曰:「河東有兩鹽池,則後漢仍榷其稅。」
史弼は、河東太守にうつる。史弼が河東にくると、門下に命じて、文書をとりつがせない。常侍の侯覽は、諸生に文書をもたせ、河東の塩税をくれと言った。〔沈欽韓はいう。河東には、2つの塩池がある。後漢は塩池から、税をとった〕
門長は、侯覧の文書をとりつがない。諸生がウソをついて、史弼に会った。史弼は、その日のうちに諸生を殺した。侯覧は、史弼をそしり、廷尉にわたした。史弼を棄市とした。平原の吏民がかけつけ、史弼を弁護した。死一等を減じられ、刑をおえて田里にかえる。のちに公卿におされ、彭城相となる。豪族をくじき、小民をたすけた。
つづきます。桓帝、そろそろ死ぬのかな。110603