侯覧と対決した、平原相、河東太守・史弼
吉川版で、史弼伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
桓帝の弟・渤海王を警告する
史弼は、あざなを公謙という。陳留の考城の人。父の史敞は、順帝のとき、佞辯によって、尚書、郡守となる。史弼は篤學で、数百人があつまる。州郡につかえ、三公府に辟された。北軍中候となる。
このとき、桓帝の弟・渤海王の劉悝は、不法がおおい。史弼は、劉悝が乱を起こさぬよう、密封して上書した。
帝以至親,不忍下其事。後悝竟坐逆謀,貶為B07E陶王。
「周の襄王は、弟の甘昭公をあばれさせた。前漢の景帝は、梁王をあばれさせた。結末は、わるかった。渤海王の劉悝も、謀反につながる。劉悝をおさえよ」と。
桓帝は、史弼を聞かず。桓帝は、劉悝をかわいがった。罰さない。のちに劉悝は、謀反にかつがれた。劉悝を、エイ陶王におとした。
青州のうち、平原だけ党人をチクらない
史弼は、尚書、平原相となる。桓帝は詔書して「党人をチクれ」と命じた。郡国は、数百をあげた。史弼だけ、あげない。桓帝は、州郡を取り締まり、掾史を髡笞の刑にした。従事は、史弼を責めた。「青州6郡のうち、この平原1郡だけ党人をあげない。こんなリクツは、とおらない」と。
史弼は言った。「先王は行政区分を区切った。川の流れや地勢は、土地を分断する。郡がちがえば、風土はちがう。もし平原で、善人を罪人に仕立ててチクるなら、平原の人は、すべての家から罪人が出る。私は、死ぬしかない」と。
従事は怒り、史弼をとらえて送獄した。たまたま党錮が解けたので、史弼は金を払って、釈放された。史弼は、1千余人を助けた。
侯覧にワイロして、死罪をのがれる
史弼は、強きをくじく。小民に罪があっても、ゆるした。河東太守となる。桓帝は詔書した。着任1年未満でも、孝廉をあげよと。史弼は、権貴な人が、身内を孝廉にあげてほしがっていると知った。権貴な人からの、口聞きをことわった。
中常侍の侯覧は、書生をおくり、「孝廉にあげてくれ」と、史弼に頼んだ。侯覧は、「河東の塩税をまわせ」とも言った。史弼は、侯覧を無視った。書生は、口実をつくり、史弼にあう。侯覧からのメッセージを示した。史弼は、怒った。「私は河東太守として、いそがしい。口実をつくり、侯覧のメッセージなど届けるな」と。
書生を笞で、数百回うった。府の丞や掾がとめる。史弼は、書生を殺した。侯覧は怒り、司隷校尉をうごかし、史弼をとらえたい。
史弼は、廷尉に下獄された。平原の吏人が、弁護した。同郡の人が、侯覧に金をはらった。史弼は死罪を許された。輸左校で、労務刑をした。ある人が言った。「史弼は、ワイロで許された。恥にならないか」と。陶丘洪は言った。
ぼくは思う。陶丘洪、『三国志』にも出てきますね。
「周の文王だって、金でゆるされた。史弼は、恥にならない」と。
刑がおわり、故郷にかえる。病を称して、出ず。しばしば、公卿に勧められた。議郎の何休は言った。「史弼を、三公や宰相にすべきだ」と。史弼は、議郎となる。侯覧は、史弼の復帰をにくむ。光和中(178-184)、彭城相となる。病死する。
史弼は、とことん、桓帝-侯覧と対決した人でした。つぎ、盧植伝。つづく。