表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝54、史弼、盧植、趙岐伝を抄訳し、『三国志』を補う

侯覧と対決した、平原相、河東太守・史弼

吉川版で、史弼伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


桓帝の弟・渤海王を警告する

史弼字公謙,陳留考城人也。父敞,順帝時以佞辯至尚書、郡守。弼少篤學,聚徒數百。仕州郡,辟公府,遷北軍中候。

史弼は、あざなを公謙という。陳留の考城の人。父の史敞は、順帝のとき、佞辯によって、尚書、郡守となる。史弼は篤學で、数百人があつまる。州郡につかえ、三公府に辟された。北軍中候となる。

なぜ、父の経歴に、ケチをつけたのだろう。


是時,桓帝弟渤海王悝素行險辟,僭傲多不法。弼懼其驕悖為亂,乃上封事曰:

このとき、桓帝の弟・渤海王の劉悝は、不法がおおい。史弼は、劉悝が乱を起こさぬよう、密封して上書した。

臣聞帝王之于親戚,愛雖隆,必示之以威;體雖貴,必禁之以度。如是,和睦之道興,骨肉之恩遂。昔周襄王恣甘昭公,孝景皇帝驕梁孝王,而二弟階寵,終用慢,卒周有播蕩之禍,漢有爰盎之變。竊聞渤海王悝,憑至親之屬,恃偏私之愛,失奉上之節,有僭慢之心,外聚剽輕不逞之徒,內荒酒樂,出入無常,所與群居,皆有口無行,或家之棄子,或朝之斥臣,必有羊勝、伍被之變。州司不敢彈糾,傅相不能匡輔。陛下隆于友于,不忍遏絕。恐遂滋蔓,為害彌大。乞露臣奏,宣示百僚,使臣得於清朝明言其失,然後詔公卿平處其法。法決罪定,乃下不忍之詔。臣下固執,然後少有所許。如是,則聖朝無傷親之譏,勃海有享國之慶。不然,懼大獄將興,使者相望于路矣。臣職典禁兵,備禦非常,而妄知籓國,干犯至戚,罪不容誅。不勝憤懣,謹冒死以聞。
帝以至親,不忍下其事。後悝竟坐逆謀,貶為B07E陶王。

「周の襄王は、弟の甘昭公をあばれさせた。前漢の景帝は、梁王をあばれさせた。結末は、わるかった。渤海王の劉悝も、謀反につながる。劉悝をおさえよ」と。
桓帝は、史弼を聞かず。桓帝は、劉悝をかわいがった。罰さない。のちに劉悝は、謀反にかつがれた。劉悝を、エイ陶王におとした。
  

青州のうち、平原だけ党人をチクらない

弼遷尚書,出為平原相。時詔書下舉鉤党,郡國所奏相連及者多至數百,唯弼獨無所上。詔書前後切卻州郡,髡笞掾史。從事坐傳責曰:「詔書疾惡黨人,旨意懇惻。青州六郡,其五有党,近國甘陵,亦考南北部,平原何理而得獨無?」

史弼は、尚書、平原相となる。桓帝は詔書して「党人をチクれ」と命じた。郡国は、数百をあげた。史弼だけ、あげない。桓帝は、州郡を取り締まり、掾史を髡笞の刑にした。従事は、史弼を責めた。「青州6郡のうち、この平原1郡だけ党人をあげない。こんなリクツは、とおらない」と。

弼曰:「先王疆理天下,畫界分境,水土異齊,風俗不同。它郡自有,平原自無,胡可相比?若承望上司,誣諂良善,淫刑濫罰,以逞非理,則平原之人,戶可為黨。相有死而已,所不能也。」從事大怒,即收郡僚職送獄,遂舉奏弼。會黨禁中解,弼以俸贖罪得免,濟活者千餘人。

史弼は言った。「先王は行政区分を区切った。川の流れや地勢は、土地を分断する。郡がちがえば、風土はちがう。もし平原で、善人を罪人に仕立ててチクるなら、平原の人は、すべての家から罪人が出る。私は、死ぬしかない」と。
従事は怒り、史弼をとらえて送獄した。たまたま党錮が解けたので、史弼は金を払って、釈放された。史弼は、1千余人を助けた。

『資治通鑑』にある:167年、李膺を釈放し、桓帝が死ぬ


侯覧にワイロして、死罪をのがれる

弼為政特挫抑強豪,其小民有罪,多所容貸。遷河東太守,被一切詔書當舉孝廉。弼知多權貴請托,乃豫敕斷絕書屬。中常侍侯覽果遣諸生齎書請之,並求假鹽稅,積日不得通。生乃說以它事謁弼,而因達覽書。弼大怒曰:「太守忝荷重任,當選士報國,爾何人而偽詐無狀!」命左右引出,楚捶數百,府丞、掾史十餘人皆諫人廷,弼不對。遂付安邑獄,即日考殺之。侯覽大怨,遂詐作飛章下司隸,誣弼誹謗,檻車征。

史弼は、強きをくじく。小民に罪があっても、ゆるした。河東太守となる。桓帝は詔書した。着任1年未満でも、孝廉をあげよと。史弼は、権貴な人が、身内を孝廉にあげてほしがっていると知った。権貴な人からの、口聞きをことわった。
中常侍の侯覧は、書生をおくり、「孝廉にあげてくれ」と、史弼に頼んだ。侯覧は、「河東の塩税をまわせ」とも言った。史弼は、侯覧を無視った。書生は、口実をつくり、史弼にあう。侯覧からのメッセージを示した。史弼は、怒った。「私は河東太守として、いそがしい。口実をつくり、侯覧のメッセージなど届けるな」と。
書生を笞で、数百回うった。府の丞や掾がとめる。史弼は、書生を殺した。侯覧は怒り、司隷校尉をうごかし、史弼をとらえたい。

吏人莫敢近者,唯前孝廉裴瑜送到崤澠之間,大言於道傍曰:「明府摧折虐臣,選德報國,如其獲罪,足以垂名竹帛,願不憂不懼。」弼曰:「'誰謂荼苦,其甘如薺。'昔人刎頸,九死不恨。」及下廷尉詔獄,平原吏人奔走詣闕訟之。又前孝廉魏劭毀變形服,詐為家僮,瞻護於弼。弼遂受誣,事當棄市。劭與同郡人賣郡邸,行賂于侯覽,得減死罪一等,論輸左校。時人或譏曰:「平原行貨以免君,無乃蚩乎!」陶丘洪曰:「昔文王牖裏,閎、散懷金。史弼遭患,義夫獻寶。亦何疑焉!」

史弼は、廷尉に下獄された。平原の吏人が、弁護した。同郡の人が、侯覧に金をはらった。史弼は死罪を許された。輸左校で、労務刑をした。ある人が言った。「史弼は、ワイロで許された。恥にならないか」と。陶丘洪は言った。

李賢はいう。『青州先賢伝』はいう。陶丘洪は、あざなを子林という。平原の人。清達で、博弁。文は同時代でトップ。孝廉にあげられたが、ゆかず。太尉府に辟された。30歳で死んだ。
ぼくは思う。陶丘洪、『三国志』にも出てきますね。

「周の文王だって、金でゆるされた。史弼は、恥にならない」と。

於是議者乃息。刑竟歸田裏,稱病閉門不出。數為公卿所薦,議郎何休又訟弼有幹國之器,宜登臺相,征拜議郎。侯覽等惡之。光和中,出為彭城相,會病卒。裴瑜位至尚書。

刑がおわり、故郷にかえる。病を称して、出ず。しばしば、公卿に勧められた。議郎の何休は言った。「史弼を、三公や宰相にすべきだ」と。史弼は、議郎となる。侯覧は、史弼の復帰をにくむ。光和中(178-184)、彭城相となる。病死する。

史弼は、とことん、桓帝-侯覧と対決した人でした。つぎ、盧植伝。つづく。