167年、李膺を釈放し、桓帝が死ぬ
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
167年春、夫餘王を、公孫域が破る
春,正月,東羌先零圍示殳祤,掠雲陽,當煎諸種復反。段熲擊之於鸞鳥,大破之, 西羌遂定。 夫餘王夫台寇玄菟;玄菟太守公孫域擊破之。
夏,四月,先零羌寇三輔,攻沒兩營,殺千餘人。 五月,壬子晦,日有食之。
167年春正月、東羌と先零羌は、エキ祤をかこんだ。羌族は、雲陽をかすめた。
當煎羌ら、諸種がふたたび反した。段熲は、鸞鳥で羌族を破った。西羌は定まる。夫餘王の夫台は、玄菟を寇した。玄菟太守の公孫域は、夫餘王を撃破した。
166年夏4月、先零羌は三輔を寇した。2つに軍営が陥ちた。1千余人が死んだ。
5月壬子みそか、日食した。
167年夏、賈彪がたすけ、竇武と霍諝が上疏
陳蕃が免じられ、だれも党錮について言わない。賈彪が言った。「私が西にゆかねば、党錮の大禍は、解けない」と。賈彪は洛陽に入った。賈彪は、城門校尉の竇武、尚書する魏郡の霍諝らに、作文させた。
竇武は、上疏した。「桓帝が即位してから、宦官がむさぼる。秦の趙高とおなじだ。司隷校尉の李膺を捕えて、天下はがっかりした。尚書の硃寓、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳らは、みな国家の貞士で、朝廷の良佐だ。尚書郎の張陵、媯皓、
苑康、楊喬、邊韶、戴恢らは、文章が彬彬とし、國典に明達する。彼らを公職から外すのは、天意に逆らうことだ」
ぼくは補う。ながい上疏のうち、固有名詞の出てくる、重要なところだけ、抜きました。あとの趣旨は、桓帝と宦官を批判するもの。
竇武は、病を理由に、城門校尉と槐裡侯の印綬を、返却した。
霍諝も、上表した。
167年夏、李膺や范滂らを釈放する
桓帝は、党錮の意思がゆるむ。中常侍の王甫に、范滂らをひかせた。范滂らは、みな頭・手・足に、木製のカセをつけて、桓帝の前にでた。
王甫は、范滂に聞いた。「お前ら太学派は、おたがいに評価しあったくせに、捕えられた。気分はどうだ」と。范滂は答えた。「私たちは、善いものを清め、汚いものを悪んだ。私党をくんだのではない。死んでも、伯夷と叔斉にすら愧じない」と。王甫は、范滂らのカセをはずした。李膺は、宦官の子弟を、おおく罰した。だから宦官は、李膺を懼れた。宦官は桓帝に願った。「天のときに合わせ、党人を赦せ」と。
6月庚申、天下を赦し、改元した。党人200余人は、田里に帰った。だが当時は、三公のブラックリストに記名され、死ぬまで就職できない。
ぼくは思う。ごくアタリマエのことだ。獄に入るときと、出るときと、どちらも記録しないと、管理にならない。前者がなければ、誰が獄にいるか分からん。後者がなければ、獄の名簿は、無限に増えつづける。食事は、何人分、用意すればいいのか。
范滂は、霍諝に会ったが、謝さない。范滂は言った。「むかし叔向は、自分を救った祁奚に、会わず。なぜ私は、霍諝に礼を言うものか」と。
范滂は、汝南に帰る。汝南の士大夫は、車数千両で、范滂を迎えた。郷人の殷陶と黃穆は、侍衛に范滂を迎えにいかせた。殷陶らは、范滂を賓客に迎えたい。范滂は、殷陶を拒否した。「いまあなたに甘えれば、私は禍いを重ねる」と。范滂は、逃げるように郷里に帰った。
史弼は党人をあげず、楊喬は桓帝に仕えず
はじめ桓帝が、郡国に党人をリストアップせよと、命じたとき。郡国によっては、100人をあげた。だが平原相の史弼だけは、1人もあげず。桓帝は州郡に「党人をあげねば、掾史を髡笞にする」と迫った。従事は、史弼に言った。「青州には6郡ある。うちの平原だけ、どうして党人が1人もいないのか」と。
ぼくは思う。掾史が、青州のほかの郡と、横ならびで論じていることが、面白い。やっぱり、類似した横の部署が、気になるのだ。「となりと同じなら、内容はともかく、それでいい」と。組織人の宿命だ。まあ掾史は、青州の役人だから、こういう視点を持つのだろうが。
史弼は答えた。「平原は、もと斉の文化圏とは、水土がちがい、風俗もちがう。どうしてほかの郡と比べるか」と。従事は怒り、史弼を獄におくった、たまたま李膺らが出獄したので、史弼は罰金ですんだ。
竇武は、以下の人材を推薦した。沛人の硃寓、勃海の苑康、会稽の楊喬、陳留の邊韶。
楊喬は、容儀偉麗で、しばしば政事を上言した。桓帝は、楊喬の才貌を愛して、公主の婿にしたい。楊喬はかたく辞退し、絶食して7日で死んだ。
167年秋、巴郡に黄龍が現れる
六月大水,勃海海溢。
167年秋8月、巴郡で黄龍があらわれた。はじめ巴郡の人は、池が濁っているのを見て、「黄龍だ」と恐れた。うわさになった。太守は、美談だと思って、桓帝に報告した。郡吏が、太守を諌めた。「ウソじゃん」と。太守はきかず、桓帝に報告した。
167年6月、渤海郡で、海水があふれた。
167年冬、張奐が弘農に移住し、桓帝が死ぬ
167年冬10月、先零羌が三輔を寇した。張奐は、司馬の尹端と董卓に、先零羌を破らせた。酋豪を斬り、1万余人を斬獲した。三州は清定した。
張奐は、宦官に迎合しない。恩賞が少ない。錢20萬をもらい、親族1人を郎にするだけ。張奐は恩賞を受けず、弘農への移住をねがった。旧制では、辺境の人は、内地に移れない。だが特別に許された。董卓は、郎中になった。董卓は、隴西の人だ。性質は、粗猛有謀だから、羌胡は董卓を畏れた。
丁丑,帝崩於德陽前殿。戊寅,尊皇後曰皇太后。太后臨朝。初,竇後既立,御見 甚稀,唯采女田聖等有寵。後素忌忍,帝梓宮尚在前殿,遂殺田聖。城門校尉竇武議立 嗣,召侍御史河間劉鰷,問以國中宗室之賢者,鯈稱解瀆亭侯宏。宏者,河間孝王之曾 孫也,祖淑,父萇,世封解瀆亭侯。武乃入白太后,定策禁中,以鯈守光祿大夫,與中 常侍曹節並持節將中黃門、虎賁、羽林千人,奉迎宏,時年十二。
167年12月壬申、癭陶王の劉悝を、勃海王とした。
12月丁丑、桓帝は德陽前殿で崩じた。
晩年は、太学派と、もめた。明確な決着はないが、太学派の勝ちだろう。桓帝が李膺を釈放した。桓帝が死んで退場した。この2つの理由による。むしろ桓帝は、李膺らにストレスをかけられて、若死にしたという気もする。それなら、桓帝の敗北はゆるがない。
12月戊寅、皇后を皇太后とした。竇太后が臨朝した。もとから寵愛した田聖とばかり、桓帝は会った。皇后は、田聖を殺した。城門校尉の竇武は、つぎの皇帝を議した。侍御史する河間の劉鯈に、宗室の賢者を聞いた。劉鰷は、解瀆亭侯の劉宏をほめた。劉宏は、河間孝王の曾
孫だ。祖父は劉淑、父は劉萇だ。みな解瀆亭侯をついできた。
竇武は竇太后に、劉宏を報告した。劉鯈に光祿大夫を守させ、中常侍の曹節と持節した。劉鯈は、中黃門、虎賁、羽林1千人をひきい、劉宏を迎えた。劉宏は12歳。霊帝だ。101208