表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝54、史弼、盧植、趙岐伝を抄訳し、『三国志』を補う

馬融の弟子、鄭玄の同学、蔡邕の友人・盧植

吉川版で、盧植伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


外戚の馬融と同学、竇武にケチつける

盧植字子F8B5,涿郡涿人也。身長八尺二寸,音聲如鐘。少與鄭玄俱事馬融,能通古今學,好研精而不守章句。融外戚豪家,多列女倡歌舞於前。植侍講積年,未嘗轉眄,融以是敬之。學終辭歸,闔門教授。性剛毅有大節,常懷濟世志,不好辭賦,能飲酒一石。
時,皇太后父大將軍竇武援立靈帝,初秉機政,朝議欲加封爵。植雖布衣,以武素有名譽,乃獻書以規之曰:

盧植は、あざなを子幹という。涿郡の涿県の人だ。8尺2寸、声は鐘のよう。鄭玄とともに、馬融に師事した。古今學に通じた。意味にこだわり、字句にこだわらない。馬融は、外戚の豪家だ。女倡をならべて、盧植の前で、歌舞させた。盧植は、女倡にふりむかない。馬融は、盧植をうやまう。
性質は剛毅で、大節がある。つねに世をすくう志をもつ。辭賦(『楚辞』)を好まない。1石の酒をのむ。

人柄の描写は、『後漢書』編者の、盧植への愛を感じますね。

ときに竇武は、霊帝を立てた。竇武に、封爵をくわえた。盧植は、布衣(無官)だが、竇武の封爵に反対した。

植聞嫠有不恤緯之事,漆室有倚楹之戚,憂深思遠,君子之情。夫士立爭友,義貴切磋。《書》陳「謀及庶人」,《詩》詠'詢於芻蕘'。植誦先王之書久矣,敢愛其EEAD言哉!今足下之于漢朝,猶旦、B247之在周室,建立聖主,四海有系。論者以為吾子之功,于斯為重。天下聚目而視,攢耳而聽,謂准之前事,將有景風之祚。尋《春秋》之義,王后無嗣,擇立親長,年均以德,德均則決之蔔筮。今同宗相後,披圖案牒,以次建之,何勳之有?豈橫叨天功以為已力乎!宜辭大賞,以全身名。又比世祚不競,仍外求嗣,可謂危矣。而四方未甯,盜賊伺隙,恒嶽、勃碣,特多奸盜,將有楚人脅比,尹氏立朝之變。宜依古禮,置諸子之官,征王侯愛子,宗室賢才,外崇訓道之義,內息貪利之心,簡其良能,隨用爵之,強幹弱枝之道也。

「たしかに竇武は、霊帝を即位させた功績がある。だが、桓帝と同系から、連れてきただけだ。竇武は、封爵を辞退せよ」と。

武並不能用。州郡數命,植皆不就。建甯中,征為博士,乃始起焉。熹平四年,九江蠻反,四府選植才兼文武,拜九江太守,蠻寇賓服。以疾去官。

竇武は、盧植を用いない。
しばしば州郡は、盧植をめす。みな就かず。建寧中(168-172)、博士となる。はじめて就職した。熹平四年(175)、九江の蛮がそむいた。四府(三公+大将軍)は、盧植が武もできるから、九江太守とした。蛮を服従させた。病気で、官位を去る。

文書の校訂を後回しに、廬江太守となる

作《尚書章句》、《三禮解詁》。時,始立太學《石經》,以正《五經》文字,植乃上書曰:
臣少從通儒故南郡太守馬融受古學,頗知今之《禮記》特多回冗。臣前以《周禮》諸經,發起秕謬,敢率愚淺,為之解詁,而家乏,無力供繕寫上。原得將能書生二人,共詣東觀,就官財糧,專心研精,合《尚書》章句,考《禮記》失得,庶裁定聖典,刊正碑文。古文科鬥,近於為實,而厭抑流俗,降在小學,中興以來,通儒達士班固、賈逵、鄭興父子,並敦悅之。今《毛詩》、《左氏》、《周禮》各有傳記,其與《春秋》共相表裏,宜置博士,為立學官,以助後來,以廣聖意。

盧植は、『尚書章句』『三禮解詁』を著した。ときに太学に『石經』をたて、『五經』の公式見解をしめした。盧植は上書した。
「私は、もと南郡太守の馬融に、古学をならう。いまある『礼記』の欠陥を、『尚書』でおぎないたい。東観で、私が研究したい。学官を置いてくれ」と。

會南夷反叛,以植嘗在九江有恩信,拜為廬江太守。植深達政宜,務存清靜,弘大體而已。

たまたま南夷が、ふたたび反す。盧植は、九江の実績がある。廬江太守となる。盧植の政治は清く、おおきな方針を示すだけ。

学官になりたいのに、廬江で討伐。かわいそうに。笑


歲餘,複征拜議郎,與諫議大夫馬日磾、議郎蔡邕、楊彪、韓說等並在東觀,校中書《五經》記傳,補續《漢記》。帝以非急務,轉為侍中,遷尚書。

1年余、ふたたび議郎となる。諌議大夫の馬日磾、議郎の蔡邕、楊彪、韓説らとともに、東観で『五経』、歴史書を校訂した。急ぐべき仕事でないので、侍中、尚書にうつされた。

なかなか、好きな仕事が、できないなあ。


学者として冴えず、黄巾の乱で活躍

光和元年,有日食之異,植上封事諫曰:
臣聞《五行傳》「日晦而月見謂之朓,王侯其舒」。此謂君政舒緩,故日食晦也。《春秋傳》曰「天子避位移時」,言其相掩不過移時。而間者日食自巳過午,既食之後,雲霧晻曖。比年地震,彗孛互見。臣聞漢以火德,化當寬明。近色信讒,忌之甚者,如火畏水故也。案今年之變,皆陽失陰侵,消禦災凶,宜有其道。謹略陳八事:一曰用良,二曰原禁,三曰禦癘,四曰備寇,五曰修禮,六曰遵堯,七曰禦下,八曰散利。用良者,宜使州郡核舉賢良,隨方委用,責求選舉。原禁者,凡諸黨錮,多非其罪,可加赦恕,申宥回枉。禦癘者,宋後家屬,並以無辜委骸橫屍,不得收葬,疫癘之來,皆由於此。宜敕收拾,以安遊魂。備寇者,侯王之家,賦稅減削,愁窮思亂,必致非常,宜使給足,以防未然。修禮者,應徵有道之人,若鄭玄之徒,陳明《洪範》,攘服災咎。遵堯者,今郡守刺史一月數遷,宜依黜陟,以章能否,縱不九載,可滿三歲。禦下者,請謁希爵,一宜禁塞,遷舉之事,責成主者。散利者,天子之體,理無私積,宜弘大務,蠲略細微。
帝不省。

光和元年(178)、日食がある。盧植は、上封した。「賢良を用いよ。党錮をゆるせ。宋皇后を葬れ。鄭玄をもちいよ」と。霊帝は、かえりみず。

盧植の発言の根拠は、劉向『五行伝』、『春秋伝』。後漢が、これらの知識を活用してくれないから、なかば拗ねつつ、引用したのかも。無視られたけど。
黄巾の乱までの盧植は、学者としては、二流か。名門の弟子にちがいないが、国家を代表するほど、優秀でない。志は高いが、カラまわり。だから、武官の仕事にまわされる。なにをしたいかでなく、なにができるか、だ。使用者から見ればね。


中平元年,黃巾賊起,四府舉植,拜比中郎將,持節,以護烏桓中郎將宗員副,將北軍五校士,發天下諸郡兵征之。連戰破賊帥張角,斬獲萬餘人。角等走保廣宗,植築圍鑿塹,造作雲梯,垂當拔之。帝遣小黃門左豐詣軍觀賊形勢,或勸植以賂送豐,植不肯。豐還言於帝曰:「廣宗賊易破耳。盧中郎固壘息軍,以待天誅。」帝怒,遂檻車征植,減死罪一等。及車騎將軍皇甫嵩討平黃巾,盛稱植行師方略,嵩皆資用規謀,濟成其功。以其年複為尚書。

中平元年(184)、黄巾の乱。四府は、盧植を北中郎將、持節とする。護烏桓中郎將の宗員を、盧植の副官とする。北軍の五校の兵士をひきいる。しきりに張角をやぶり、1万余を斬獲した。
張角はにげ、廣宗にこもる。盧植は、雲梯でせめる。霊帝は、小黃門の左豐を見にいかせた。ワイロをわたさず。左豊は言った。「広宗で、盧植はさぼっている」と。盧植は檻車で送られた。死罪を減じられる。
車騎將軍の皇甫嵩は、黄巾を平定した。皇甫嵩は言った。「私は、盧植の方略をつかっただけ」と。その歳のうち、盧植は尚書にもどる。

董卓の廃立に反対し、袁紹をたよる

帝崩,大將軍何進謀誅中官,乃召並州牧董卓,以懼太后。植知卓兇悍難制,必生後患,固止之。進不從。及卓至,果陵虐朝廷,乃大會百官於朝堂,議欲廢立。群僚無敢言,植獨抗議不同。卓怒罷會,將誅植,語在《卓傳》。植素善蔡邕,邕前徙朔方,植獨上書請之。邕時見親于卓,故往請植事。又議郎彭伯諫卓曰:「盧尚書海內大儒,人之望也。今先害之,天下震怖。」卓乃止,但免植官而已。

盧植は、董卓が兇悍で、制しがたいと知る。何進に「董卓を呼ぶな」と言った。何進はきかず。董卓は、廃立を議した。盧植だけ、廃立に抗議した。董卓は怒り、散会した。董卓は、盧植を殺したい。董卓伝にある。
盧植は、蔡邕と仲がよい。さきに蔡邕は、朔方にうつされた。盧植だけ、蔡邕の呼びもどしを上書した。蔡邕は、董卓に親しまれた。蔡邕は、盧植を口ぞえした。議郎の彭伯を、董卓を諌めた。「尚書の盧植は、海内の大儒だ。人望がある。盧植を殺せば、天下は震怖する」と。董卓は、盧植を殺さず、免官しただけ。

植以老病求歸,懼不免禍,乃詭道從B139轅出。卓果使人追之,到懷,不及。遂隱于上穀,不交人事。冀州牧袁紹請為軍師。初平三年卒。臨困,敕其子儉葬於土穴,不用棺槨,附體單帛而已。所著碑、誄、表、記凡六篇。

盧植は、老齢を口実に、帰りたい。禍いを避けたい。カン轅から、長安を脱出した。董卓が追わせるが、懷県でもつかまらない。上穀にかくれた。冀州牧の袁紹は、盧植を軍師にこう。

袁紹は、同学の鄭玄もまねいた。根こそぎだなあ。洛陽の学者を、河北に囲い込みたかったらしい。べつに袁紹は、鄭玄その人だけを、重んじたのでないとわかる。

初平三年(192)、盧植は死んだ。棺にいれず、布にくるんで葬らせた。盧植は、碑、誄、表を、6つ著した。

建安中,曹操北討柳城,過涿郡,告守令曰:「故北中郎將盧植,名著海內,學為儒宗,士之楷模,國之楨幹也。昔武王入殷,封商容之閭;鄭喪子產,仲尼隕涕。孤到此州,嘉其餘風。《春秋》之義,賢者之後,宜有殊禮。亟遣丞掾除其墳墓,存其子孫,並致薄DD3C,以彰厥德。」子毓,知名。

曹操が、柳城を討ったとき、涿郡をとおる。守令に命じた。「盧植の墓をなおし、盧植の子孫をもちいよ」と。子の盧毓は、『三国志』に列伝がある。

つぎは、趙岐。なぜこの組み合わせなんだろう。つづく。