表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝54、史弼、盧植、趙岐伝を抄訳し、『三国志』を補う

袁紹に違約され、劉表に洛陽を修理させる趙岐

吉川版で、趙岐伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


外戚の馬融、宦官の左悺をきらう

趙岐字邠卿,京兆長陵人也。初名嘉,生於禦史台,因字台卿,後避難,故自改名字,示不忘本土也。岐少明經,有才藝,娶扶風馬融兄女。融外戚豪家,岐常鄙之,不與融相見,仕州郡,以廉直疾惡見憚。年三十餘,有重疾,臥蓐七年,自慮奄忽,乃為遺令敕兄子曰:「大丈夫生世,遁無箕山之操,仕無伊、呂之勳,天不我與,複何言哉!可立一員石於吾墓前,刻之曰:'漢有逸人,姓趙名嘉。有志無時,命也奈何!'」其後疾瘳。

趙岐は、あざなを邠卿という。京兆の長陵の人だ。はじめ、趙嘉といった。父が御史なので、禦史台で生まれた。ゆえに、あざなを台卿とした。のちに難を避け、名とあざなを改めた。故郷を忘れないように、名を決めた。

吉川注はいう。周王朝にゆかりある岐山と邠は、趙岐の故郷・長陵にちかい。

經にあかるく、才藝ある。扶風の馬融の兄の娘をめとる。馬融は、外戚の豪家だ。ゆえに趙岐は外戚をいやしみ、馬融と会わない。

ひとつ前の盧植伝と、馬融をへて、つながった。

州郡につかえた。廉直で、悪をにくむから、趙岐ははばかられた。30余歳で、重病。7年、寝こむ。遺書をつくり、兄の子に与えた。「周室をささえた、伊尹や呂尚になりたかった。私の墓前に、まるい石をおいてくれ。漢に逸民がいた。趙嘉といった。志はあったが、寿命がつきた」と。のちに重病は、いえた。

カラ回りが、たのしい。志ある人が、活躍できない時代墓碑銘は、周室を意識した「趙岐」でなく、本名の趙嘉なのですね。


永興二年,辟司空掾。議二千石得去官為親行服,朝廷從之。其後為大將軍梁冀所辟,為陳損益求賢之策,冀不納。舉理劇,為皮氏長。會河東太守劉祜去郡,而中常侍左悺兄勝代之,岐恥疾宦官,即日西歸。京兆尹延篤複以為功曹。

永興二年(154)、司空の掾。趙岐は「二千石は、親のために服喪せよ」と議した。採用された。のち、大将軍の梁冀に辟された。趙岐は、賢者の採用を提案したが、梁冀は納れず。
理劇(治政が激務の地方官)の科目にあげられ、皮氏(河東)の県長となる。たまたま河東太守の劉祜が、河東を去り、中常侍の左悺の兄・左勝に代わる。趙岐は、宦官をきらう。趙岐は、左勝が赴任した日に、故郷にかえった。

外戚も、宦官もきらい。『後漢書』が大好きな人物だ。梁冀と交渉してるから、かなり生年が早い人物だ。袁紹と公孫瓚を停戦させるとき、80余歳になる計算。

京兆尹の延篤は、趙岐を功曹とした。

延篤は、おなじ巻に列伝あり。はぶいちゃ、マズかったか。


中常侍の唐衡ににらまれ、20年、壁中にいる

先是中常侍唐衡兄BC62為京兆虎牙都尉,郡人以BC62進不由德,皆輕侮之。岐及從兄襲又數為貶議,BC62深毒恨。延熹元年,BC62為京兆尹,岐懼禍及,乃與從子戩逃避之。BC62果收岐家屬宗親,陷以重法,盡殺之。岐遂逃難四方,江、淮、海、岱,靡所不曆。自匿姓名,賣餅北海市中。

これより先。中常侍の唐衡は、兄を唐ゲンという。京兆の虎牙都尉だ。郡人は、みな唐ゲンをあなどる。趙岐と、從兄の趙襲も、唐ゲンをけなす。唐ゲンは、趙岐らを、ふかく怨む。
延熹元年(158)、唐ゲンは京兆尹となる。趙岐らは、禍いをおそれて逃げた。唐ゲンは、趙岐の家属や宗親を、みな殺した。趙岐は、四方をにげまわる。江、淮、海、岱をめぐる。北海の市中にもぐる。

唐ゲンの名は、[王玄]です。
李賢は『三輔決録注』に、趙岐の2人の兄、親族を記す。はぶく。


時安丘孫嵩年二十余,遊市見岐,察非常人,停車呼與共載。岐懼失色,嵩乃下帷,令騎屏行人。密問岐曰:「視子非賣餅者,又相問而色動,不有重怨,即亡命乎?我北海孫賓石,闔門百口,勢能相濟。」岐素聞嵩名,即以實告之,遂以俱歸。嵩先入白母曰:「出行,乃得死友。」迎入上堂,饗之極歡。藏岐複壁中數年,岐作《厄屯歌》二十三章。

安丘の孫嵩は、20歳余だが、趙岐を知っていた。趙岐を、壁中にかくまった。趙岐は、『厄屯歌』23章をつくる。

後諸唐死滅,因赦乃出。三府聞之,同時並辟。九年,乃應司徒胡廣之命。會南匈奴、烏桓、鮮卑反叛,公卿舉岐,擢拜並州刺史。岐欲奏守邊之策,未及上,會坐黨事免,因撰次以為《禦寇論》。

のちに唐衡の一族は死滅した。趙岐は、世間に出られた。三公府は、みな同時に、趙岐を辟した。延熹九年(166)、司徒の胡広に辟された。たまたま、匈奴、烏桓、鮮卑が反した。公卿は、趙岐を并州刺史とした。趙岐は、辺境の防衛について、上書しようとしたが、党錮で、上書しそこねた。『禦寇論』をつくる。

李賢は『三輔決録注』をひく。趙岐は『禦寇論』40章をつくり、上程した。霊帝は、手元にとどめて、趙岐の文書を活用しなかった。


張温の長史、何進の敦煌太守となる

靈帝初,複遭黨錮十餘歲。中平元年,四方兵起,詔選故刺史、二千石有文武才用者,征岐拜議郎。車騎將軍張溫西征關中,請補長史,別屯安定。

霊帝初から、趙岐は10余年、党錮にあう。184年の黄巾で、もと刺史や太守のうち、文武の才能がある人が、採用された。趙岐は、議郎となる。車騎将軍の張温が、関中を征した。張温は、趙岐を長史として、安定におく

大將軍何進舉為敦煌太守,行至襄武,岐與新除諸郡太守數人俱為賊邊章等所執。賊欲脅以為帥,岐詭辭得免,輾轉還長安。

大将軍の何進は、趙岐を敦煌太守とする。趙岐は、襄武にゆく。趙岐と、新たに任じられた太守ら数人は、辺章にとらわれた。賊は、趙岐を帥(大将)としたい。趙岐は、言葉をごまかし、長安ににげた。

李賢は『三輔決録注』をひく。趙岐は、ふたたび陳倉で、兵乱にあう。裸身でのがれた。草中で、12日も食べず。
ぼくは思う。趙岐は、つくづく冒険するなあ。張温や何進など、三公レベルが、文武ができる人材を、競って属官にしたがったのが、わかる。盧植も趙岐も、武官ができる人として、太守を務めた。べつに橋玄だけが、文武をこなすのでない。
いま辺章は、趙岐を「帥」にしたがった。韓遂とか、王国とか、漢人の政治家は、賊軍からリーダーに招かれることがおおい。たいてい、必死で辞退するが。このことから、賊の性格がわかるかも。後漢から、完全に独立して指揮するには、心もとない組織なのかな。


馬日磾の副官として、袁紹を洛陽に誘導

及獻帝西都,複拜議郎,稍遷太僕。及李C765專政,使太傅馬日磾撫慰天下,以岐為副。日磾行至洛陽,表別遣岐宣揚國命,所到郡縣,百姓皆喜曰:「今日乃複見使者車騎。」

献帝が長安にきた。議郎、太僕となる。李傕が専制した。太傅の馬日磾に、天下を慰撫させた。趙岐は、馬日磾の副官。馬日磾は、洛陽につき、上表した。「趙岐を別行動として、国命を宣揚したい」と。

馬日磾が、副官の趙岐を切り離した。知らなかった。
馬日磾は、淮南の袁術に行った。後漢の回復には、袁術を使おうとした。しかし、袁術だけじゃ足りないと思ったのか、趙岐を袁紹のもとにやった。これはすべて、馬日磾の意思。馬日磾は、二袁がカギだと、認識してたね。


是時,袁紹、曹操與公孫瓚爭冀州,紹及操聞岐至,皆自將兵數百里奉迎,岐深陳天子恩德,宜罷兵安人之道,又移書公孫瓚,為言利害。紹等各引兵去,皆與岐期會洛陽,奉迎車駕。岐南到陳留,得篤疾,經涉二年,期者遂不至。

このとき、袁紹と曹操は、公孫瓚と冀州をあらそう。袁紹は、趙岐が到ると聞き、みずから兵をひきい、数百里を迎えた。趙岐は、天子の恩徳を、ふかぶか陳べた。公孫瓚に、文書をまわし、利害を説いた。

袁紹には「人の道」を説き、公孫瓚には「利害」を説く。相手を見てるなあ。笑

袁紹と公孫瓚らは、おのおの兵をひく。袁紹は、趙岐とともに洛陽にゆき、献帝の車駕を奉迎すると約束した。趙岐は陳留にとどまる。病気がおもい。

陳留には、張邈がいる。袁紹が、べつの皇統を立てることに、張邈は反対する。趙岐を、そりゃ、保護するよなあ。
袁紹は、洛陽に行くと約束したのに、動かない。盧植をまねくが、すぐ死なす。趙岐との約束を、守らない。鄭玄に、拒否られる。袁紹は、後漢の高官と、どうも折り合わない。袁紹は、根っから野党の気質だから。

袁紹は約束をやぶった。2年たっても、献帝の奉迎にこない。

劉表に洛陽を修理させ、曹操の太常となる

興平元年,詔書征岐,會帝當還洛陽,先遣衛將軍董承修理宮室。岐謂承曰:「今海內分崩,唯有荊州境廣地勝,西通巴蜀,南當交址,年穀獨登,兵人差全。岐雖迫大命,猶志報國家,欲自乘牛車,南說劉表,可使其身自將兵來衛朝廷,與將軍並心同力,共獎王室。此安上救人之策也。」承即表遣岐使荊州,督租糧。

興平元年(194)、詔書にて、趙岐を洛陽にもどす。たまたま献帝は、洛陽にくる。衛將軍の董承を、先にゆかせ、宮室を修理した。趙岐は、董承に行った。「海内は、分崩した。荊州だけは、巴蜀や交趾につうじ、物資も兵力もある。牛車にのり、献帝のために、劉表を説得してこよう」と。董承は上表して、趙岐を荊州にゆかせた。劉表に、物資を出させた。

岐至,劉表即遣兵詣洛陽助修宮室,軍資委輸,前後不絕。時,孫嵩亦寓於表,表不為禮,岐乃稱嵩素行篤烈,因共上為青州刺史。岐以老病,遂留荊州。

趙岐がくると、劉表は兵をやり、洛陽の宮室の、修繕を助けた。ずらずら物資を送り、前後は絶えない。ときに孫嵩もまた、劉表をたよるが、劉表は孫嵩を礼遇しない。趙岐は、孫嵩の素行が篤烈だと知る。

孫嵩は、上で出てきた。中常侍の唐衡ににらまれたとき、趙岐を壁中にかくまった人。

趙岐は孫嵩をたてまつり、青州刺史とする。趙岐は老病なので、荊州にのこる。

青州刺史は、のちに劉琮がつく。劉表がつめたくしていた、孫嵩の後任とは。へんな感じ。


曹操時為司空,舉以自代。光祿勳桓典、少府孔融上書薦之,於是就拜岐為太常。年九十余,建安六年卒。先自為壽藏,圖季劄、子產、晏嬰、叔向四像居賓位,又自畫其像居主位,皆為讚頌。敕其子曰:「我死之日,墓中聚沙為床,布簟白衣,散發其上,覆以單被,即日便下,下訖便掩。」岐多所述作,著《孟子章句》、《三輔決錄》傳于時。

曹操は司空だ。趙岐を、つぎの司空にしたい。光祿勳の桓典、少府の孔融も、趙岐を司空にすすめた。趙岐は、太常となる。趙岐は、90余歳で、建安六年(201)に死んだ。
趙岐は、生前に墓をつくった。季札、子産、晏嬰、叔向の4像を、賓客の場所におく。趙岐じしんの像を、主人の場所におく。子に、葬りかたを命じた。趙岐は、『孟子章句』『三輔決錄』を書いた。伝わった。

周室になぞらえ、名を変えたことに始まり。生前墓まで、凝りまくっている。趙岐ほどの、たかい理想がないと、長生きできない。趙岐は、袁紹に対して、メチャメチャ怒っただろう。袁紹は、趙岐の理想を踏みにじった。まして、いちど約束して、やぶるなんてね。
このあたり、劉表の対応は、大人でした。劉表は、献帝を尊ぶ。軍事的に袁紹と同盟しても、献帝に対する態度まで、袁紹と共通するわけでない。


おわりです。『三国志』を補完する列伝でした。100423