袁紹に違約され、劉表に洛陽を修理させる趙岐
吉川版で、趙岐伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
外戚の馬融、宦官の左悺をきらう
趙岐は、あざなを邠卿という。京兆の長陵の人だ。はじめ、趙嘉といった。父が御史なので、禦史台で生まれた。ゆえに、あざなを台卿とした。のちに難を避け、名とあざなを改めた。故郷を忘れないように、名を決めた。
經にあかるく、才藝ある。扶風の馬融の兄の娘をめとる。馬融は、外戚の豪家だ。ゆえに趙岐は外戚をいやしみ、馬融と会わない。
州郡につかえた。廉直で、悪をにくむから、趙岐ははばかられた。30余歳で、重病。7年、寝こむ。遺書をつくり、兄の子に与えた。「周室をささえた、伊尹や呂尚になりたかった。私の墓前に、まるい石をおいてくれ。漢に逸民がいた。趙嘉といった。志はあったが、寿命がつきた」と。のちに重病は、いえた。
永興二年(154)、司空の掾。趙岐は「二千石は、親のために服喪せよ」と議した。採用された。のち、大将軍の梁冀に辟された。趙岐は、賢者の採用を提案したが、梁冀は納れず。
理劇(治政が激務の地方官)の科目にあげられ、皮氏(河東)の県長となる。たまたま河東太守の劉祜が、河東を去り、中常侍の左悺の兄・左勝に代わる。趙岐は、宦官をきらう。趙岐は、左勝が赴任した日に、故郷にかえった。
京兆尹の延篤は、趙岐を功曹とした。
中常侍の唐衡ににらまれ、20年、壁中にいる
これより先。中常侍の唐衡は、兄を唐ゲンという。京兆の虎牙都尉だ。郡人は、みな唐ゲンをあなどる。趙岐と、從兄の趙襲も、唐ゲンをけなす。唐ゲンは、趙岐らを、ふかく怨む。
延熹元年(158)、唐ゲンは京兆尹となる。趙岐らは、禍いをおそれて逃げた。唐ゲンは、趙岐の家属や宗親を、みな殺した。趙岐は、四方をにげまわる。江、淮、海、岱をめぐる。北海の市中にもぐる。
李賢は『三輔決録注』に、趙岐の2人の兄、親族を記す。はぶく。
安丘の孫嵩は、20歳余だが、趙岐を知っていた。趙岐を、壁中にかくまった。趙岐は、『厄屯歌』23章をつくる。
のちに唐衡の一族は死滅した。趙岐は、世間に出られた。三公府は、みな同時に、趙岐を辟した。延熹九年(166)、司徒の胡広に辟された。たまたま、匈奴、烏桓、鮮卑が反した。公卿は、趙岐を并州刺史とした。趙岐は、辺境の防衛について、上書しようとしたが、党錮で、上書しそこねた。『禦寇論』をつくる。
張温の長史、何進の敦煌太守となる
霊帝初から、趙岐は10余年、党錮にあう。184年の黄巾で、もと刺史や太守のうち、文武の才能がある人が、採用された。趙岐は、議郎となる。車騎将軍の張温が、関中を征した。張温は、趙岐を長史として、安定におく。
大将軍の何進は、趙岐を敦煌太守とする。趙岐は、襄武にゆく。趙岐と、新たに任じられた太守ら数人は、辺章にとらわれた。賊は、趙岐を帥(大将)としたい。趙岐は、言葉をごまかし、長安ににげた。
ぼくは思う。趙岐は、つくづく冒険するなあ。張温や何進など、三公レベルが、文武ができる人材を、競って属官にしたがったのが、わかる。盧植も趙岐も、武官ができる人として、太守を務めた。べつに橋玄だけが、文武をこなすのでない。
いま辺章は、趙岐を「帥」にしたがった。韓遂とか、王国とか、漢人の政治家は、賊軍からリーダーに招かれることがおおい。たいてい、必死で辞退するが。このことから、賊の性格がわかるかも。後漢から、完全に独立して指揮するには、心もとない組織なのかな。
馬日磾の副官として、袁紹を洛陽に誘導
献帝が長安にきた。議郎、太僕となる。李傕が専制した。太傅の馬日磾に、天下を慰撫させた。趙岐は、馬日磾の副官。馬日磾は、洛陽につき、上表した。「趙岐を別行動として、国命を宣揚したい」と。
馬日磾は、淮南の袁術に行った。後漢の回復には、袁術を使おうとした。しかし、袁術だけじゃ足りないと思ったのか、趙岐を袁紹のもとにやった。これはすべて、馬日磾の意思。馬日磾は、二袁がカギだと、認識してたね。
このとき、袁紹と曹操は、公孫瓚と冀州をあらそう。袁紹は、趙岐が到ると聞き、みずから兵をひきい、数百里を迎えた。趙岐は、天子の恩徳を、ふかぶか陳べた。公孫瓚に、文書をまわし、利害を説いた。
袁紹と公孫瓚らは、おのおの兵をひく。袁紹は、趙岐とともに洛陽にゆき、献帝の車駕を奉迎すると約束した。趙岐は陳留にとどまる。病気がおもい。
袁紹は、洛陽に行くと約束したのに、動かない。盧植をまねくが、すぐ死なす。趙岐との約束を、守らない。鄭玄に、拒否られる。袁紹は、後漢の高官と、どうも折り合わない。袁紹は、根っから野党の気質だから。
袁紹は約束をやぶった。2年たっても、献帝の奉迎にこない。
劉表に洛陽を修理させ、曹操の太常となる
興平元年(194)、詔書にて、趙岐を洛陽にもどす。たまたま献帝は、洛陽にくる。衛將軍の董承を、先にゆかせ、宮室を修理した。趙岐は、董承に行った。「海内は、分崩した。荊州だけは、巴蜀や交趾につうじ、物資も兵力もある。牛車にのり、献帝のために、劉表を説得してこよう」と。董承は上表して、趙岐を荊州にゆかせた。劉表に、物資を出させた。
趙岐がくると、劉表は兵をやり、洛陽の宮室の、修繕を助けた。ずらずら物資を送り、前後は絶えない。ときに孫嵩もまた、劉表をたよるが、劉表は孫嵩を礼遇しない。趙岐は、孫嵩の素行が篤烈だと知る。
趙岐は孫嵩をたてまつり、青州刺史とする。趙岐は老病なので、荊州にのこる。
曹操は司空だ。趙岐を、つぎの司空にしたい。光祿勳の桓典、少府の孔融も、趙岐を司空にすすめた。趙岐は、太常となる。趙岐は、90余歳で、建安六年(201)に死んだ。
趙岐は、生前に墓をつくった。季札、子産、晏嬰、叔向の4像を、賓客の場所におく。趙岐じしんの像を、主人の場所におく。子に、葬りかたを命じた。趙岐は、『孟子章句』『三輔決錄』を書いた。伝わった。
このあたり、劉表の対応は、大人でした。劉表は、献帝を尊ぶ。軍事的に袁紹と同盟しても、献帝に対する態度まで、袁紹と共通するわけでない。
おわりです。『三国志』を補完する列伝でした。100423