120年、班超の子・班勇が、敦煌に兵をおく
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
120年春、班勇が強弁し、敦煌に兵をおく
春,三月,丁酉,濟北惠王壽薨。 北匈奴率車師後王軍就共殺後部司馬及敦煌長史索班等,遂擊走其前王,略有北道。 鄯善逼急,求救於曹宗,宗因此請出兵五千人擊匈奴,以報索班之恥,因復取西域;公 卿多以為宜閉玉門關,絕西域。太后聞軍司馬班勇有父風,召詣朝堂問之。為上議曰:
120年春3月丁酉、濟北惠王の劉壽が薨じた。
北匈奴が車師後王軍をひきい、後部司馬および、敦煌長史の索班らを殺した。北匈奴は、車師前王と追い、鄯善にせまる。鄯善は、曹宗に救いを求めた。
後漢の公卿は、玉門關を閉じ、西域への道を絶てという。太后は、軍司馬の班勇が、父の班超に似ると聞き、朝堂で班勇に問うた。班勇は、上議した。
班勇は言う。「西域を放棄してはいけない。敦煌郡に營兵3百人を、ふたたび置け。護西域副校尉を、永元(089-105年)の前例のように置け。西域長史に5百人をつけ、西域の国を周らせよ」
ふたたび尚書は、班勇に問う。「利害はどのようか」と。班勇は答えた。「いま鄯善王は、漢人の外孫だ。北匈奴が強まれば、鄯善王はこまる。鄯善王は、鳥獣と同じだが、北匈奴を恐れる。敦煌に兵力を置けば、鄯善王は、心を寄せるはずだ」と。
長樂衛尉の鐔顯と、廷尉の綦毋參と、司隸校尉の崔據は、班勇を批難した。「すでに車師も鄯善も、北匈奴に負けた。今から兵を出しても、手遅れだ」と。班勇は答えた。「西域をあきらめたら、侵食され、河西の城門を閉ざすハメになる。防衛の費用は、かえって増大する」と。
太尉屬の毛軫は、班勇を批難した。「いま敦煌に校尉を置けば、西域との連絡に、コストがかかる。匈奴に迫られるたび、コストが増えるのは良くない」と。班勇は答えた。「西域からの援軍を断れば、并州や涼州が寇される。コストは、10億をこえる。敦煌に兵を置くほうが、まだ安い」と。
班勇の意見が、採用された。ふたたび敦煌郡に營兵3百人をおき、西域副校尉居を敦煌におく。西域は靡いたが、敦煌の兵は出撃まではできない。
ぼくは思う。和帝と班固が例外である。敦煌に少数の兵がいて、ビクビクしているのが、漢室のスタンダードなんだ。スタンダードを、維持できたのだから、充分じゃないか。
のちに北匈奴は、車師をひきいて、河西を寇鈔した。大きな被害あり。沈氐羌は、張掖を寇した。
120年秋、馬賢が羌族に、モグラ叩きをする
120年夏4月丙寅、皇子の劉保(のちの順帝)を、皇太子とした。永寧と改元し、天下を赦した。
4月己巳、陳敬王の子・劉崇に、陳王を嗣がす。濟北惠王の子・劉萇を、樂成王とする。河間孝王の子・劉翼を、平原王とする。
120年6月、護羌校尉の馬賢は、沈氐羌を張掖で破る。馬賢があけた金城を、當煎種の羌族が攻める。馬賢があけた張掖を、燒何種の羌族が攻め、長吏を殺す。
ぼくは思う。羌族の制圧がうまい指揮官は、金品でカケヒキし、戦さを最小限にする。皇甫規とか、董卓とか。馬賢は下手。
120年秋7月乙酉ついたち、日食あり。
120年冬、鄧康が、鄧氏の栄えすぎを諌める
120年冬10月己巳、司空の李郃を免じた。10月癸酉、衛尉する廬江の陳褒を、司空とした。
京師および郡國33で大水あり。
12月、永昌の徼外にいる撣國王が、ローマのマジシャンを献じた。
12月戊辰、司徒の劉愷の引退を許した。1千石を、老後に支給する。
遼西の鮮卑が、度遼將軍の鄧遵に降る。12月癸酉、太常の楊震を、司徒とした。
初,當煎種饑五同種大豪盧匆心、忍良等千餘戶別留允街,而首施兩端。
この120年、郡國23で地震あり。
鄧太后の從弟は、越騎校尉の鄧康だ。鄧康は言う。「鄧太后は、臨朝して久しい。鄧氏の宗門は盛滿した。劉氏の公室を崇び、鄧氏の私權を損ぜよ」と。鄧康がキツく言うが、鄧太后は従わず。鄧康は、病気だと言って、朝廷にこず。
鄧太后は、女官に鄧康を訪問させた。鄧康は、鄧太后を罵った。鄧太后は鄧康に怒り、免官して歸國させた。鄧康を、鄧氏の屬籍から切った。
當煎種の羌族は、1千戸ずつ、2つのリーダーに分裂した。101229