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115年、武都太守の虞詡が、羌族を鎮定

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

115年夏、鄧太后の親族、閻皇后がたつ

孝殤皇帝元初二年(乙卯,公元一一五年)
春,護羌校尉龐參以恩信招誘諸羌,號多等帥眾降;參遣詣闕,賜號多侯印,遣之。 參始還治令居,通河西道。 零昌分兵寇益州,遣中郎將尹就討之。

115年春、護羌校尉の龐參は、恩信で諸羌をさそう。號多らが降る。龐参は、號多に侯印を与えた。龐参は、郡治の令居(張掖)にもどる。河西道をとおる。

ぼくは思う。龐参は『後漢書』に列伝ある。列伝41を読もう。龐参は、涼州を放棄しろとか言いつつ、羌族を戦わずに降した。どういう方針の人なんだろう。

零昌羌は、兵を分けて益州を寇す。中郎將の尹就は、零昌羌を討つ。

夏,四月,丙午,立貴人滎陽閻氏為皇後。 後性妒忌,後宮李氏生皇子保,後鴆殺李氏。
五月,京師旱,河南及郡國十九蝗。 六月,丙戌,太尉司馬苞薨。

115年夏4月丙午、貴人する滎陽の閻氏を、皇后とした。

胡三省はいう。閻皇后の母は、鄧弘の妻と、母がおなじ。ゆえに、閻皇后が立てられた。

閻皇后は、性質が妒忌だ。後宮の李氏が、皇子・劉保(順帝)を生んだ。のちに閻皇后は、李氏を鴆殺した。

ぼくは思う。いつも皇后が、皇子の生母をしいたげる。これは「嫉妬ぶかい」という、個人の性格で説明してはいけない。建国の功臣は外戚となり、一族を保全するために、ライバルを殺す。子のない皇后が、ながく権力を持つには、これしか方法がない。社会制度や、権力の仕組の問題である。

115年5月、京師で日照。河南および郡國19でイナゴ。6月丙戌、太尉の司馬苞が薨じた。

115年秋、龐参、司馬鈞が、羌族に敗れる

秋,七月,辛巳,以太僕泰山馬英為太尉。 八月,遼東鮮卑圍無慮;九月,又攻夫犁營,殺縣令。 壬午晦,日有食之。 尹就擊羌黨呂叔都等,蜀人陳省、羅橫應募刺殺叔都,皆封侯,賜錢。
詔屯騎校尉班雄屯三輔。雄,超之子也。以左馮翊司馬鈞行征西將軍,督關中諸郡 兵八千餘人。龐參將羌、胡兵七千餘人,與鈞分道並擊零昌。參兵至勇士東,為杜季貢 所敗,引退。鈞等獨進,攻拔丁奚城,杜季貢率眾偽逃。鈞令右扶風仲光等收羌禾稼, 光等違鈞節度,散兵深入,羌乃設伏要擊之,鈞在城中,怒而不救。

115年秋7月辛巳、太僕する泰山の馬英を、太尉とする。 8月、遼東の鮮卑は、無慮(遼東)を囲む。9月、鮮卑は夫犁(遼東属国)の県令を殺す。 8月壬午みそか、日食した。尹就は、羌黨の呂叔都らを討つ。蜀人の陳省、羅橫は、尹就に呼応して、呂叔都を刺殺した。陳省と羅橫は、侯に封じられた。
屯騎校尉の班雄を、三輔におく。班雄は、班超の子だ左馮翊の司馬鈞を、行征西將軍とし、関中の諸郡8千余をつける。龐参は、司馬鈞とべつの道から、零昌羌を撃つ。右扶風の仲光は、司馬鈞の命令にたがい、深入りして羌族に敗れた。司馬鈞は、怒って仲光を救わず。

胡三省はいう。『考異』はいう。袁宏は、仲光を「種暠」とするが、范曄に従う。


115年冬、武都太守の虞詡が、うまく治める

冬,十月,乙未, 光等兵敗,並沒,死者三千餘人,鈞乃遁還。龐參既失期,稱病引還。皆坐征,下獄, 鈞自殺。時度遼將軍梁慬亦坐事抵罪。校書郎中扶風馬融上書稱參、慬智能,宜宥過責 效。詔赦參等,以馬賢代參領護羌校尉,復以任尚為中郎將,代班雄屯三輔。

115年冬10月乙未、仲光は3千余人を殺した。龐参と司馬鈞は、勝たないので、下獄された。司馬鈞は自殺した。ときに度遼將軍の梁慬も、罪をうけた。郎中する扶風の馬融は、龐参と梁慬が智能だから、弁護した。龐参と梁慬は、許された。

『考異』はいう。梁慬伝は、梁慬が度遼将軍になった年代がズレる。

龐参に代え、馬賢を領護羌校尉とした。ふたたび任尚を、中郎將とした。班雄に代え、任尚を三輔におく。

懷令虞詡說尚曰:「兵法:弱不攻強,走不逐飛,自然之勢也。今虜皆馬騎,日行 數百裡,來如風雨,去如絕弦,以步追之,勢不相及,所以雖屯兵二十餘萬,曠日而無 功也。為使君計,莫如罷諸郡兵,各令出錢數千,二十人共市一馬,以萬騎之眾,逐數 千之虜,追尾掩截,其道自究。便民利事,大功立矣。」尚即上言,用其計,遣輕騎擊 杜季貢於丁奚城,破之。

懷県令の虞詡は、任尚に攻めどきだと説いた。任尚は、杜季貢を丁奚城で破った。

ぼくは補う。杜季貢は、天子を称した滇零と、そのの子についた漢人。羌族に丁奚城をわり振られて、そこで自立していた。


太后聞虞詡有將帥之略,以為武都太守,羌眾數千遮詡於陳倉崤谷,詡即停軍不進, 而宣言:「上書請兵,須到當發。」羌聞之,乃分鈔傍縣。詡因其兵散,日夜進道,兼 行百餘里,令吏士各作兩灶,日增倍之,羌不敢逼。或問曰:「孫臏減灶而君增之,兵 法日行不過三十裡,以戒不虞,而今日且二百裡,何也?」詡曰:「虜眾多,吾兵少, 徐行則易為所及,速進則彼所不測。虜見吾灶日增,必謂郡兵來迎,眾多行速,必憚追 我。孫臏見弱,吾今示強,勢有不同故也。」既到郡,兵不滿三千,而羌眾萬餘,攻圍 赤亭數十日。詡乃令軍中,強弩勿發,而潛發小弩;羌以為矢力弱,不能至,並兵急攻。 詡於是使二十強弩共射一人,發無不中,羌大震,退。詡因出城奮擊,多所傷殺。明日, 悉陳其兵眾,令從東郭門出,北郭門入,貿易衣服,回轉數周;羌不知其數,更相恐動。 詡計賊當退,乃潛遣五百餘人於淺水設伏,候其走路;虜果大奔,因掩擊,大破之,斬 獲甚眾。賊由是敗散。詡乃占相地勢,築營壁百八十所,招還流亡,假賑貧民,開通水 運。
詡始到郡,谷石千,鹽石八千,見戶萬三千;視事三年,米石八十,鹽石四百,民 增至四萬餘戶,人足家給,一郡遂安。

鄧太后は、虞詡に將帥之略があるから、武都太守とした。虞詡は、羌族を討った。

『考異』はいう。虞詡伝と本紀と西羌伝で、年代がズレる。いま西羌伝に従う。ぼくは、虞詡と羌族のかけひきを、ザックリ削りました。

虞詡が武都に来たとき、物価が高い。穀物は1石あたり1千銭、塩1石あたりは8千銭だ。戸数は1万3千だった。虞詡3年治めると、物価が下がった。穀物は1石あたり80銭、塩は1石あたり4百だ。戸数は4万余に増えた。武都は、よく治まった。

115年冬、袁安の子・袁敞が司空となる

十一月,庚申,郡國十地震。 十二月,武陵澧中蠻反,州郡討平之。 己酉,司徒夏勤罷,庚戌,以司空劉愷為司徒,光祿勳袁敞為司空。敞,安之子也。

115年11月庚申、郡國10で地震あり。 12月、武陵の澧中蠻が反したが、平定した。12月 己酉、司徒の夏勤をやめた。12月庚戌、司空の劉愷を司徒とした。光祿勳の袁敞を、司空とした。袁敞は、袁安の子だ。

ぼくは思う。いま鄧太后が執政だが。鄧太后が、まだ和帝の貴人だったころ、袁安は死んだ。鄧太后は貴人として、つつしみ深く振舞っただけで、政治に関与してない。つまり、鄧太后と袁安の接点はない。愛も憎もなく、フラットである。
袁敞は、三公の子というアドバンテイジはあるが、地道に職務をこなして、出世したようだ。袁敞は、飢饉&外乱の時代に、こつこつと知識をたくわえ、実務をし続けたのだろう。いまいち、盛り上がらない展開だ。笑


前虎賁中郎將鄧弘卒。弘性儉素,治歐陽《尚書》,授帝禁中。有司奏贈弘驃騎將 軍,位特進,封西平侯。太后追弘雅意,不加贈位、衣服,但賜錢千萬,布萬匹;兄騭 等復辭不受。詔封弘子廣德為西平侯。將葬,有司復奏發五營輕車騎士,禮儀如霍光故 事。太后皆不聽,但白蓋雙騎,門生輓送。後以帝師之重,分西平之都鄉,封廣德弟甫 德為都鄉侯。

さきの虎賁中郎將・鄧弘が死んだ。鄧弘は、性質が儉素だ。鄧弘は、歐陽《尚書》を治めて、安帝に教授した。有司は、鄧弘を驃騎將軍、特進とし、西平侯に封じよと言った。鄧太后は、官位を送らず、銭と布だけを追贈する。兄の鄧隲は、銭と布すら断った。鄧弘の子・鄧廣德を、西平侯に封じた。
有司は上奏した。「前漢の霍光とおなじく、五營の輕車と騎士を発して、葬ろう」と。鄧太后は許さず。のちに安帝は、教師だった鄧弘を重んじ、西平の都鄉を分けて、鄧廣德の弟・鄧甫德を、都鄉侯とした。101229

ぼくは補う。鄧弘の2人の子が、侯となった。安帝は、鄧氏に好意的だったようだ。まあ、安帝を即位させたのが、鄧氏だから、頭は上がらないが。
いまのエピソードでも、鄧氏は、例によって、つつしみ深い。なぜか。羌族に軍費がかかるからだ。もし、羌族が暴れなければ、鄧氏も、ほかの外戚とおなじように、金銭を費やしただろう。人格が云々でなく、権力にはお金が集まるものだ。