115年、武都太守の虞詡が、羌族を鎮定
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
115年夏、鄧太后の親族、閻皇后がたつ
春,護羌校尉龐參以恩信招誘諸羌,號多等帥眾降;參遣詣闕,賜號多侯印,遣之。 參始還治令居,通河西道。 零昌分兵寇益州,遣中郎將尹就討之。
115年春、護羌校尉の龐參は、恩信で諸羌をさそう。號多らが降る。龐参は、號多に侯印を与えた。龐参は、郡治の令居(張掖)にもどる。河西道をとおる。
零昌羌は、兵を分けて益州を寇す。中郎將の尹就は、零昌羌を討つ。
五月,京師旱,河南及郡國十九蝗。 六月,丙戌,太尉司馬苞薨。
115年夏4月丙午、貴人する滎陽の閻氏を、皇后とした。
閻皇后は、性質が妒忌だ。後宮の李氏が、皇子・劉保(順帝)を生んだ。のちに閻皇后は、李氏を鴆殺した。
115年5月、京師で日照。河南および郡國19でイナゴ。6月丙戌、太尉の司馬苞が薨じた。
115年秋、龐参、司馬鈞が、羌族に敗れる
詔屯騎校尉班雄屯三輔。雄,超之子也。以左馮翊司馬鈞行征西將軍,督關中諸郡 兵八千餘人。龐參將羌、胡兵七千餘人,與鈞分道並擊零昌。參兵至勇士東,為杜季貢 所敗,引退。鈞等獨進,攻拔丁奚城,杜季貢率眾偽逃。鈞令右扶風仲光等收羌禾稼, 光等違鈞節度,散兵深入,羌乃設伏要擊之,鈞在城中,怒而不救。
115年秋7月辛巳、太僕する泰山の馬英を、太尉とする。
8月、遼東の鮮卑は、無慮(遼東)を囲む。9月、鮮卑は夫犁(遼東属国)の県令を殺す。
8月壬午みそか、日食した。尹就は、羌黨の呂叔都らを討つ。蜀人の陳省、羅橫は、尹就に呼応して、呂叔都を刺殺した。陳省と羅橫は、侯に封じられた。
屯騎校尉の班雄を、三輔におく。班雄は、班超の子だ。左馮翊の司馬鈞を、行征西將軍とし、関中の諸郡8千余をつける。龐参は、司馬鈞とべつの道から、零昌羌を撃つ。右扶風の仲光は、司馬鈞の命令にたがい、深入りして羌族に敗れた。司馬鈞は、怒って仲光を救わず。
115年冬、武都太守の虞詡が、うまく治める
115年冬10月乙未、仲光は3千余人を殺した。龐参と司馬鈞は、勝たないので、下獄された。司馬鈞は自殺した。ときに度遼將軍の梁慬も、罪をうけた。郎中する扶風の馬融は、龐参と梁慬が智能だから、弁護した。龐参と梁慬は、許された。
龐参に代え、馬賢を領護羌校尉とした。ふたたび任尚を、中郎將とした。班雄に代え、任尚を三輔におく。
懷県令の虞詡は、任尚に攻めどきだと説いた。任尚は、杜季貢を丁奚城で破った。
詡始到郡,谷石千,鹽石八千,見戶萬三千;視事三年,米石八十,鹽石四百,民 增至四萬餘戶,人足家給,一郡遂安。
鄧太后は、虞詡に將帥之略があるから、武都太守とした。虞詡は、羌族を討った。
虞詡が武都に来たとき、物価が高い。穀物は1石あたり1千銭、塩1石あたりは8千銭だ。戸数は1万3千だった。虞詡3年治めると、物価が下がった。穀物は1石あたり80銭、塩は1石あたり4百だ。戸数は4万余に増えた。武都は、よく治まった。
115年冬、袁安の子・袁敞が司空となる
115年11月庚申、郡國10で地震あり。
12月、武陵の澧中蠻が反したが、平定した。12月
己酉、司徒の夏勤をやめた。12月庚戌、司空の劉愷を司徒とした。光祿勳の袁敞を、司空とした。袁敞は、袁安の子だ。
袁敞は、三公の子というアドバンテイジはあるが、地道に職務をこなして、出世したようだ。袁敞は、飢饉&外乱の時代に、こつこつと知識をたくわえ、実務をし続けたのだろう。いまいち、盛り上がらない展開だ。笑
さきの虎賁中郎將・鄧弘が死んだ。鄧弘は、性質が儉素だ。鄧弘は、歐陽《尚書》を治めて、安帝に教授した。有司は、鄧弘を驃騎將軍、特進とし、西平侯に封じよと言った。鄧太后は、官位を送らず、銭と布だけを追贈する。兄の鄧隲は、銭と布すら断った。鄧弘の子・鄧廣德を、西平侯に封じた。
有司は上奏した。「前漢の霍光とおなじく、五營の輕車と騎士を発して、葬ろう」と。鄧太后は許さず。のちに安帝は、教師だった鄧弘を重んじ、西平の都鄉を分けて、鄧廣德の弟・鄧甫德を、都鄉侯とした。101229
いまのエピソードでも、鄧氏は、例によって、つつしみ深い。なぜか。羌族に軍費がかかるからだ。もし、羌族が暴れなければ、鄧氏も、ほかの外戚とおなじように、金銭を費やしただろう。人格が云々でなく、権力にはお金が集まるものだ。