178年、官位を売り、桓帝の赤字解消
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
178年春、鴻都門学をおき、袁滂が司徒に
春,正月,合浦、交趾烏滸蠻反,招引九真、日南民攻沒郡縣。 太尉孟彧罷。
二月,辛亥朔,日有食之。 癸丑,以光祿勳陳國袁滂為司徒。 己未,地震。 置鴻都門學,其諸生皆敕州郡、三公舉用辟召,或出為刺史、太守,入為尚書、侍 中,有封侯、賜爵者;士君子皆恥與為列焉。
三月,辛丑,赦天下,改元。 以太常常山張顥為太尉。顥,中常侍奉之弟也。
178年春正月、合浦と交趾で、烏滸蠻が反した。九真と日南の民を招きいれ、郡縣を攻め落とした。太尉の孟彧をやめた。
2月辛亥ついたち、日食した。2月癸丑、光祿勳する陳國の袁滂を、司徒とした。
袁滂が、どういう血縁の人か、知っておかねば。袁渙の父である。なぜ今日まで、列伝を読まずに放置したか、ぎゃくにナゾ。近日、読みます。
2月己未、地震した。霊帝は、鴻都門學をおいた。鴻都門学の学生は、みな州郡や三公に、あつめさせた人材。鴻都門生は、地方で、刺史や太守となった。中央で、尚書や侍
中となった。侯に封じられ、爵を賜った。みな士君子は、鴻都門生とならぶのを、恥とした。
ぼくは思う。鴻都門生は、ぼくが名づけるならば、霊帝派である。『資治通鑑』を読むと、おおくの派閥が、興亡してきた。梁冀派、桓帝派(桓帝の宦官)、太学派(陳蕃ら)、曹節派(霊帝の宦官)だ。これらにつづき、あたらしい霊帝派が登場しました!
霊帝派に並ぶのを恥としたのは、太学派(陳蕃派)の残党である。儒教者。
177年3月辛丑、天下を赦して、光和と改元した。太常する常山の張顥を、太尉とした。張顥は、中常侍する張奉の弟だ。
178年秋、鶏の性転換、黒い龍の気
秋,七月,壬子,青虹見玉堂後殿庭中。詔召光祿大夫楊賜等詣金商門,問以災異 及消復之術。
178年夏4月丙辰、地震した。侍中の府で、雌ドリが雄ドリに化けた。司空の陳耽をやめた。太常の來艷を、司空とした。6月丁丑、黑氣が、霊帝のいる溫德殿の東庭におちた。長さは10余丈だ。龍に似た。
178年秋7月壬子、青虹が、玉堂後殿の庭中に見えた。光祿大夫の楊賜らを、金商門に集めた。霊帝は、災異を消す方法を問うた。
楊賜は答えた。「女官と宦官が、政治をもっぱらにするのが、いけない。鴻都門生が、賦說をつくって遊ぶのが、いけない。鴻都門の人材のうち、樂松は常伯(侍中)となり、任芝は納言(尚書)となった。これは、いけない。霊帝は、儒教を身につけた士人を用いよ。災異はきえる」と。
178年秋、蔡邕が災異に答え、朔北へ流さる
災異を消す方法について、議郎の蔡邕は答えた。「雌鶏は、婦人が政治に干渉することを表す。乳母の趙嬈、永樂門史(董太后の官)霍玉、程大人らが、原因だ。いま太尉の張顥は、霍玉が推薦した人だ。光祿勳の偉璋は、貪濁だ。長水校尉の趙玹と、屯騎校尉の蓋升は、榮富した。小人が官位にあるのが、よくない」と。
蔡邕は続ける。「私が推薦する人材は、以下のとおり。廷尉の郭禧は、純厚して老成した。光祿大夫の橋玄は、聰達で方直だ。もと太尉の劉寵は、忠實で守正する。儒教をそなえた人材を用いよ。災異はおさまる」と。
霊帝は、蔡邕の文書を見て、嘆息した。霊帝はトイレに立った。そのすきに、曹節が盗み見た。曹節は、蔡邕の意見をひろめた。蔡邕に批判された人は、目くばせした。「いつか蔡邕に、報復する」と。
もともと蔡邕は、大鴻臚の劉郃と、仲がわるい。劉郃の叔父は、衛尉の劉質だ。劉質は、
將作大匠の陽球と、仲がわるい。陽球は、中常侍の程璜の娘婿だ。程璜は、ウワサを流した。「蔡邕と劉質は、劉郃に私事をたのむ。劉郃がきかない。蔡邕は、霊帝への謀反をたくらむようだ」と。蔡邕は上書した。「私は46歳で、忠臣ひとすじ。霊帝は、あらぬウワサを聞くな」と。
蔡邕は不敬だから、洛陽獄にくだされた。中常侍する河南の呂強が、蔡邕を弁護した。霊帝は蔡邕をゆるし、朔方に流すことにした。陽球は、蔡邕に刺客を送った。刺客は、蔡邕の義を感じて、蔡邕を殺さず。陽球は、州牧や太守に金をわたし、蔡邕を殺したい。州牧も太守も、蔡邕を殺せず。蔡邕は、死なずにすんだ。
178年冬、王甫が宋后を殺し、盧植が任期に苦情
冬,十月,以屯騎校尉袁逢為司空。 宋皇後無寵,後宮幸姬眾共譖毀。渤海王悝妃宋氏,即後之姑也,中常侍王甫恐後 怨之,因譖後挾左道祝詛;帝信之,遂策收璽綬。後自致暴室,以憂死。父不其鄉侯酆 及兄弟並被誅。
178年8月、天市に彗星あり。9月、太尉の張顥をやめた。太常の陳球を太尉とした。
司空の來艷が、薨じた。
178年冬10月、屯騎校尉の袁逢を、司空とした。
ぼくは思う。袁逢は、屯騎校尉をしていた。三公になるのは知っているが、前の官位も、よく調べて列挙したい。
宋皇后に、霊帝の寵愛がない。後宮に人たちは、宋皇后をそしった。渤海王・劉悝は、妃が宋氏だった。渤海王妃は、宋皇后のおばだ。中常侍の王甫は、かつて劉悝を殺した(熹平元年)。王甫は、宋皇后に怨まれるのを恐れた。王甫は霊帝に言った。「宋皇后が、左道して、祝詛した」と。霊帝はこれを信じ、宋皇后を憂死させた。宋皇后の父兄も、殺された。
十一月,太尉陳球免。 十二月,丁巳,以光祿大夫橋玄為太尉。 鮮卑寇酒泉;種眾日多,緣邊莫不被毒。
10月丙子みそか、日食した。尚書の盧植は、上言した。
「党錮も、宋皇后の家も、無罪で殺された。太守や刺史は、1ヶ月で転任するから、能力の有無がわからない。『書経』がいう9年はムリでも、せめて3年は、職務を続けさせよう」と。霊帝は、盧植を用いず。
178年11月、太尉の陳球をやめた。12月丁巳、光祿大夫の橋玄を、太尉とした。 鮮卑が、酒泉を寇した。辺境は、ますます被害をうけた。
178年冬、霊帝が官位を売り、桓帝の赤字を解消
中尚方に詔した。鴻都文學の樂松や江覽ら32人に、絵を描かせ、贊を立てた。霊帝は、学問を薦めた。
ぼくは思う。「象」は、エレファントじゃなくて、かたちの意味の「像」だと思いましたが。なお、よく分かっていません。
尚書令の陽球は、霊帝を諌めた。「樂松や江覽は、微蔑の出身だ。書道や作文がうまいだけの人を、用いてはいけない。鴻都門学でなく、太学や東観の人材を、用いよ」と。霊帝は、陽球をかえりみず。
帝嘗問 侍中楊奇曰:「朕何如桓帝?」對曰:「陛下之於桓帝,亦猶虞舜比德唐堯。」帝不悅 曰:「卿強項,真楊震子孫,死後必復致大鳥矣。」奇,震之曾孫也。
南匈奴屠特若屍逐就單于死,子呼征立。
この歳はじめて、西邸で官位を販売した。霊帝は実家が貧しかった。また桓帝が、公庫をカラにした。だから霊帝は、金儲けをした。
かつて霊帝は、侍中の楊奇に聞いた。「私は、桓帝と比べて、どうか」と。楊奇は答えた。「桓帝と霊帝をくらべるのは、虞舜と唐堯をくらべるようなもの」と。霊帝は、悦ばず。霊帝は、楊奇に言った。「さすが楊奇は、楊震の孫だ。お世辞を言わない。死後に、鳳凰となるだろう」と。101214
楊震は、生前はパッとしない時代が続いた。死後、その姿勢をほめられた。霊帝は、楊奇にムカついて、皮肉したのだろう。霊帝の自己認識では、桓帝より上である。なぜなら霊帝は、財政難を立て直したから。いくら堯舜に例えられても、同レベルと言われては、ムカつく。