123年、楊震が、順帝の取りまきと対決
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
123年夏、班超の子を、を西域長史とする
夏,四月,戊子,爵乳母王聖為野王君。
123年春正月、旄牛(蜀郡)の夷が反した。益州刺史の張喬が擊破した。
夏4月戊子、安帝の乳母・王聖を、野王君に封じた。
北匈奴と車師は、河西を寇す。玉門と陽關を閉じよと議された。
敦煌太守の張璫は、上疏した。「西域を棄てたら、河西も危うい。西域への対処に、3つに作戦があります。上策は、。中策は、。下策は、交河城を棄て、鄯善らを塞内に入れることだ」と。朝廷は、下策をもちいた。
陳忠は上疏した。「いま消極策を打てば、漢室の弱さを異民族に見せることになる。河西が危うい。以前のように、敦煌に校尉を置き、4郡に兵を増やせ。西域の諸国を撫せ」と。順帝は、陳忠をいれた。班勇(班超の子)を西域長史とし、5百をつけて、柳中におく。
123年冬、楊震が、乳母と宦官を責める
冬,十月,辛未,太尉劉愷罷;甲戌,以司徒楊震為太尉,光祿勳東萊劉熹為司徒。 大鴻臚耿寶自候震,薦中常侍李閏兄於震曰:「李常侍國家所重,欲令公辟其兄;寶唯 傳上意耳。」震曰:「如朝廷欲令三府辟召,故宜有尚書敕。」寶大恨而去。執金吾閻 顯亦薦所親於震,震又不從。司空劉授聞之,即辟此二人;由是震益見怨。時詔遣使者 大為王聖修第;中常侍樊豐及侍中周廣、謝惲等更相扇動,傾搖朝廷。由是震益見怨。
123年秋7月、丹楊山が崩れた。
9月、郡國5で、雨水あり。
123年冬10月辛未、太尉の劉愷をやめた。10月甲戌、司徒の楊震を、太尉とした。光祿勳する東萊の劉熹を、司徒とした。
大鴻臚の耿寶は、楊震をたずねた。耿寶は楊震に、中常侍・李閏の兄を薦めた。「李閏は、安帝に重んじられる。李閏の兄を、楊震の太尉府に辟せ」と。楊震は、ことわった。耿寶は、楊震を恨んで去った。執金吾の閻顯(皇后の兄)は、親しい人を楊震に薦めた。楊震は、ことわった。司空の劉授が、楊震がことわった2人を辟した。
順帝の乳母が、宮殿をつくる。順帝の宦官が、朝廷を傾搖する。中常侍の樊豐、および侍中の周廣、謝惲らである。楊震は、順帝を諌めた。順帝は、楊震をきかず。
陳忠薦汝南周燮、南陽馮良學行深純,隱居不仕,名重於世;帝以玄纁羔幣聘之; 燮宗族更勸之曰:「夫修德立行,所以為國,君獨何為守東岡之陂乎?」燮曰:「夫修 道者度其時而動,動而不時,焉得亨乎!」與良皆自載至近縣,稱病而還。
鮮卑は、南匈奴を曼柏に攻めた。南単于の薁鞬日逐王が戦死した。123年12月戊辰、京師および郡國3で、地震あり。
陳忠は、汝南の周燮、南陽の馮良を薦めた。學行は深純、隱居して仕えず、名は世に重んじられた。安帝は、玄纁羔幣をプレゼントした。周燮の宗族は、仕官を薦めた。だが周燮は、「動く時期ではない」と言い、馮良とともに引き返した。101230