162年、刺史が逃げた荊州、馮緄が平定
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
162年春、皇甫規が個人的に羌族を平定
三月,沈氐羌寇張掖、酒泉。皇甫規發先零諸種羌,共討隴右,而道路隔絕,軍中 大疫,死者十三四。規親入庵廬,巡視將士,三軍感悅。東羌遂遣使乞降,涼州復通。
162年春正月壬午、南宮の丙署で出火。
3月、沈氐羌は、張掖と酒泉を寇した。皇甫規は、道路が隔絕した。軍中が大疫した。皇甫規の軍は、3割や4割が死んだ。皇甫規は、みずから將士を見まわる。三軍は感悅した。東羌が降ったので、涼州への道がもどった。
皇甫規は、涼州方面の腐った役人を、免じたり殺したりした。皇甫規が罰したのは、以下の人。安定太守の孫俊は、狼藉する。屬國都尉の李翕、督軍御史の張稟は、降った羌族をおおく殺す。涼州刺史の郭閎と、漢陽太守の趙熹は、老弱で任務にたえない。そのくせ、權貴にたのみ、法度に遵わない。
羌族は、皇甫規の裁きを聞き、後漢についた。沈氐の大豪である、滇昌や饑恬らは、10餘萬口をひきい、皇甫規にくだる。
皇甫規の手腕を見て、再確信した。個人、点や線の支配で、捉えなきゃと。
162年夏、出火は後漢を転覆させる陰謀?
162年夏4月、長沙の賊が、桂陽と蒼梧を寇した。
4月乙丑、恭陵(安帝陵)の闕が出火。4月戊辰、虎賁の掖門が出火。5月、康陵(殤帝陵)園寢が出火。
胡三省の陵墓の注釈は、文中に埋めました。
長沙と零陵の賊が、桂陽、蒼梧、南海に入った。交趾刺史および蒼梧太守は、逃げた。御史中丞の盛修に、州郡の兵を募らせた。盛修は敗れた。
5月乙亥、京師は地震した。5月甲申、中藏府の丞祿署が出火。
162年秋、洛陽も荊州南部も、大火事
鳥吾羌寇漢陽,隴西、金城諸郡兵討破之。
艾縣賊攻長沙郡縣,殺益陽令,眾至萬餘人;謁者馬睦督荊州刺史劉度擊之,軍敗, 睦、度奔走。零陵蠻亦反。冬,十月,武陵蠻反,寇江陵,南郡太守李肅奔走,主簿胡 爽扣馬首諫曰:「蠻夷見郡無儆備,故敢乘間而進。明府為國大臣,連城千里,舉旗鳴 鼓,應聲十萬,奈何委符守之重,而為逋逃之人乎!」肅拔刃向爽曰:「掾促去!太守 今急,何暇此計!」爽抱馬固諫,肅遂殺爽而走。帝聞之,征肅,棄市;度、睦減死一 等;復爽門閭,拜家一人為郎。
162年秋7月己未、南宮の承善闥が出火。
鳥吾羌が、漢陽、隴西、金城を寇した。郡兵が破った。
艾縣の賊は、長沙の郡縣を攻めた。
ぼくは思う。どうでもいいことを、長々と引用してしまった。
艾縣の賊は、益陽令を殺した。艾縣の賊は、1万余人にふくらむ。謁者の馬睦は、荊州刺史の劉度を督したが、艾縣の賊に敗れた。謁者の馬睦と、荊州刺史の劉度は逃げた。零陵の蠻も、また反した。
162年冬、車騎の馮緄が、荊州を平定
162年冬10月、武陵の蠻が、江陵を寇した。南郡太守の李肅は、逃げた。主簿の胡爽は、馬の首をつかまえて、諌めた。「蠻夷を見て逃げ出してはいけない」と。南郡太守の李肅は、刀を胡爽にむけて言う。「はなせー」と。李肅は、胡爽を斬ってにげた。
桓帝はこれを聞き、李粛を棄市した。逃げた劉度と陸睦は、死一等を減じる。太守をとめた胡爽の一族から、1人を郎とした。
劉度は、209年に劉備に敗れた零陵太守と、同姓同名。まさか同一人物?笑
尚書の硃穆は、右校令する山陽の度尚を、荊州刺史とした。
10月辛丑、太常の馮緄を、車騎將軍とした。10余万をひきい、武陵蛮を討つ。
ぼくは思う。范曄も袁紀がおおい。皇帝の記録は、意外とザツ?
ぼくは思う。曹操が荊州に南下したとき、兵はどれだけいたか。公称は80万だが、20万だっけ?それは小説か? ともあれ、今回の出兵は、これに近い。
これより先。遠征した将帥は、宦官に「軍資を浪費した」と言って、罪を着せられた。馮緄は、中常侍に軍資の管理を任せたい。尚書の朱穆は、上奏した。「馮緄は軍資のことで、大臣の節度を失った」と。桓帝は、馮緄を罰しない。
馮緄は、さきの武陵太守の應奉をつれ、從事中郎とした。
ぼくは思う。馮緄は応挙に、道案内をしてもらったのか。武陵太守としては、政治に失敗しているけど、地理には詳しかろう。
滇那羌寇武威、張掖、酒泉。 太尉劉矩免,以太常楊秉為太尉。
162年11月、馮緄は長沙にきた。賊はこれを聞き、馮緄の軍営に降った。武陵の蠻夷に進撃し、四
千餘級を斬首した。十餘萬人を受降した。荊州は平定した。桓帝は馮緄に、錢一億を賜る。馮緄は受けず。馮緄は、應奉の軍功をたたえ、司隸校尉に薦めた。馮緄は引退したいが、桓帝はゆるさず。
滇那羌が、武威、張掖、酒泉を寇した。
太尉の劉矩をやめ、太常の楊秉を太尉とした。
162年、皇甫規のコストメリット
皇甫規は持節すれば、将軍となる。郷里に戻れば、私恵しない。上奏がおおい。宦官を悪み、交際しない。皇甫規は、内外に怨まれた。内外の人は、皇甫規の罪を偽造した。「皇甫規は羌族にワイロを送った。ワイロの見返りに、羌族から、皇甫規に降ったと、ウソの文書を作ってもらった」と。桓帝は、これを信じる。皇甫規は、上書して弁明した。
「去年(161年)の秋、長安が羌族に震えた。私が羌族を平定して、1億以上の費用が浮いた。前漢の元帝は匈奴に、武帝は烏孫に、公主を嫁がせた。私が、1千万を費やすだけで、公主を嫁がさなくてよい。永初年間(107-113)以来、軍費がかさむ。後漢は5回も大敗した。私を評価すべきだ」と。
ぼくは思う。馬賢は、羌族にワイロしたことを、否定していない。金品の授受はあったかも知れないが(っていうかあった)軍費に比べたら、はるかに安上がりでしょ!と。皇女より、安上がりでしょ!と。1千万というのは、羌族へのプレゼントだ。
桓帝は皇甫規をもどし、議郎とした。功績を評価した。中常侍の徐璜と左悺は、皇甫規に財貨をもとめた。皇甫規は、無視した。
宦官は、恒常的に、生活が苦しかったのでは?いまは栄えているが。だから、フェアな市場原理から見たら、「歪んだ」価値観が形成されたのかも。この宦官を叱っていいのは、インドネシアで、巻き上げをすべて断った人だけ。笑
徐璜は怒り、さきの罪をぶり返して、皇甫規を下獄した。廷尉につなぎ、左校にうつす。諸公および太學生の張鳳ら3三百餘は、皇甫規の釈放を訴えた。家に帰れた。101204