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161-162年、陳蕃の推挙、朱穆の憤死

『後漢紀』を抄訳します。

161年、皇甫規は、陳蕃、楊秉、李膺、張奐の師

四年(辛丑、一六一) 春正月辛丑,南宮嘉德殿火〔一〕。 〔一〕范書及續漢志均作「辛酉」。按是月庚申朔,無辛丑日,袁紀誤。
二月壬申,武庫火〔一〕。 〔一〕二月庚寅朔,無壬申日。范書及續漢志作「壬辰」,是。

延熹四年(161)、春正月辛丑、南宮の嘉德殿がもえた。
〔范曄と司馬彪は、「辛丑」でなく「辛酉」とする。この月のついたちは、庚申である。辛丑はない。袁宏の誤りである〕
2月壬申、武庫がもえた。 〔范曄と司馬彪は、「壬辰」とする。袁宏の誤り〕

夏四月甲寅,河間孝王開子博為任城王。 五月,有星孛于大辰〔一〕。 〔一〕范書及續漢志均作辛酉日事。大辰即心星,故范書、續漢志均作「心」。
丁卯,原陵長壽門火〔一〕。 〔一〕原陵,即光武陵。

夏4月甲寅、河間孝王・劉開の子・劉博が、任城王となる。5月、星孛が大辰にあらわれる。〔范曄と司馬彪は、「辛酉」のこととする。大辰とは、心星である。ゆえに范曄と司馬彪は、「心」としるす〕
5月丁卯、原陵の長壽門がもえた。〔原陵とは、光武帝の陵墓だ〕

六月,羌寇金城、安定、漢陽、武威,殺吏民。中郎將皇甫規討羌,大破之。
先是敘州刺史郭宏、漢陽太守趙喜、安定太守孫俊皆不任職,倚恃貴戚,有司不敢糾。規悉條奏其罪,羌人聞之,翕然乃喜,一時降者二十餘萬口。徵拜議郎。論功未畢,常侍左悺私求於規,規執正不許,悺遂以餘寇不絕,收規下獄。學生張鳳等三百餘人守闕訟規,終不省,規竟坐論。會赦,復徵為尚書。頃之,復為中郎將。討敘、益叛羌有功,封喜城侯,固讓不受。
規字威明,安定朝那人。初,譏切梁氏,謝病歸,教授十餘年。冀既誅,旬月之間,禮辟五至皆不就。公車徵,乃起為太山太守。規好推賢達士,太傅陳蕃、太尉楊秉、長樂少府李膺、太守張奐皆規所教授,致顯名於世。

6月、羌族が金城、安定、漢陽、武威を寇して、吏民をころした。中郎將の皇甫規は、羌族をおおいに破った。
これよりさき、涼州刺史の郭宏、漢陽太守の趙喜、安定太守の孫俊は、みな職務しないが、貴戚にちかいので、有司にとがめられず。皇甫規は、3人の罪を上奏した。羌族はこれを聞き、20余万口がくだった。

ぼくは思う。3人の地方官は、梁冀に近かったのだろうか。梁冀がほろびたので、わざわざ皇甫規がテコいれしなくても、3人は失脚する運命だったと思う。

皇甫規は、議郎となる。論功がおわるまえに、常侍の左悺は、わたくしに皇甫規に便宜をはかったが、皇甫規がゆるさず。左悺は「まだ羌族が寇している」と言い、皇甫規を下獄した。学生の張鳳ら3百余人が、皇甫規を弁護したが、みとめられず。たまたま恩赦があり、皇甫規は尚書となる。
このころ皇甫規は、ふたたび中郎將となる。涼州と益州で、羌族の平定に功績があり、皇甫規は喜城侯となる。固辞して、うけず。
皇甫規は、あざなを威明。安定の朝那の人。はじめ梁冀をそしった。病だとして故郷に帰り、10余年、教授した。梁冀がころされると、旬月の間に、5府から辟されたが、就かず。公車が徵し、泰山太守となる。皇甫規は、太傅の陳蕃、太尉の楊秉、長樂少府の李膺、太守の張奐に、教授した。みな名を知られた。

ぼくは思う。陳蕃、楊秉、李膺、張奐が、みな皇甫規の学生として、つながるとは。いろんな機会に、つかえそう。『後漢書』で、ここまでカンタンにまとめてあったっけ。すくなくとも『後漢書』皇甫規伝には、なかった。


秋八月,關內侯以……〔一〕
〔一〕袁紀此文必有脫文,范書作「占賣關內侯、虎賁、羽林、緹騎營士、五大夫錢各有差」,則袁紀此句恐當作「占賣關內侯以下錢各有差」。

秋8月、関内侯は、、〔袁宏に脱文がある。范曄は「関内侯、虎賁、羽林、緹騎の營士、五大夫の官位を、販売した」とする。おそらく袁紀は「関内侯より以下を、販売した」とつづくのだろう〕

162年(1) 陳蕃が推挙した、徐稚のエピソード

〔五年〕(壬寅、一六二)〔一〕 〔一〕據通鑑補。 張掖、酒泉〔一〕…… 〔一〕此句亦有脫誤。范書作「三月,沈氏羌寇張掖、酒泉」。

延熹五年(162)、、〔『資治通鑑』でおぎなうと、「張掖と酒泉、、」となる。ここにも脱文がある。『後漢書』は、「3月、沈氏羌が、張掖、酒泉を寇した」とする〕

中華書局版だと、したの「夏四月」までを、161年の記事とする。


尚書令陳蕃薦五處士曰〔一〕:「臣聞善人者,天地之紀,治之所由也〔二〕。詩云:『思皇多士,生此王國。』〔三〕天誕俊乂,為陛下出,當輔明時,左右大業者也。處士豫章徐稚、彭城姜肱、汝南袁閎、京兆韋著、潁川李曇德行純備,著于民聽,宜登論道,協亮天工,終能翼宣威德,增光日月者也。」詔公車備禮徵〔四〕,皆辭疾不至。
〔一〕通鑑考異曰:「范書徐稚傳云:『延熹二年,尚書令陳蕃、僕射胡廣等上書薦稚。』袁紀:『五年,尚書令陳蕃薦五處士。』按二年,胡廣已為太尉;五年,蕃已為光祿勳。今置在二年,從范書;去廣名,從袁紀。」 〔二〕成公十五年左傳曰:「晉三卻害伯宗,譖而殺之,及欒弗忌。伯州奔楚。韓獻子曰:『卻氏其不免乎!善人,天地之紀也,而驟絕之,不亡何待?』」 〔三〕見詩大雅文王。 〔四〕楊樹達曰:「抱朴子逸民篇云:『桓帝以玄纁玉帛聘韋休明。』」休明,韋著之字也。

尚書令の陳蕃は、5人の處士をすすめた。
〔『通鑑考異』はいう。范曄の徐稚伝はいう。「延熹二年、尚書令の陳蕃、僕射の胡広らは、上書して、徐稚をすすめた」と。袁宏はいう。「延熹五年、尚書令の陳蕃は、5人の処士をすすめた」と。延熹二年、胡広は太尉である。延熹五年、陳蕃は光禄勲である。いま私・司馬光は、延熹二年が正しいと考え、范曄にしたがって『資治通鑑』の延熹二年をしるす。袁宏にしたがい、胡広の名をのぞく」と〕
陳蕃は言った。「處士する豫章の徐稚、彭城の姜肱、汝南の袁閎、京兆の韋著、潁川の李曇は、いい人材だ」と。桓帝は、公車で5人を禮徵したが、みな疾病だと言って、官位につかず。

稚字孺子,豫章南昌人也。家貧嘗自耕稼,非其衣不服,非其力不食,恭儉義讓,非禮不言。所居服其德化,道不拾遺。陳蕃嘗為豫章太守,以禮請署功曹。稚為之起,既謁而退,蕃饋之粟,受而分諸鄰里。舉有道,起家拜太原太守,皆不就。諸公所辟,雖不就,其有死喪者,負笈徒步,千里赴弔,斗酒隻雞,藉以白茅,酹畢便退,喪主不得知也〔一〕。
〔一〕謝承書曰:「常於家豫炙雞一隻,以一兩綿絮漬酒中,暴乾以裹雞,徑到所起冢隧外,以水漬綿使有酒氣,斗米飯,白茅為藉,以雞置前,醊酒畢,留謁則去,不見喪主。」

徐稚は、あざなを孺子という。豫章の南昌の人。貧しく、身のたけを知る。かつて陳蕃は豫章太守となり、徐稚を郡の功曹とした。陳蕃に粟をふるまわれ、徐稚は鄰里にくばった。有道の科目にあがり、太原太守となるが、就かず。三公たちが辟したが、就かず。だが徐稚の葬儀には、千里の遠さから、人が集まった。喪主は、集まった人のことを把握できない。〔謝承『後漢書』は、葬儀のにぎわいを伝える〕

初,稚少年,遊國學中〔一〕,江夏黃瓊教授於家,故稚從之,諮訪大義。瓊後仕進,位至三司,稚絕不復交。及瓊薨,當葬,稚乃往赴弔,進酹哀哭而去,人莫知者。時天下名士,四方遠近,無不會者,各言:「聞豫章徐孺子來,何不相見?」推問喪宰曰:「頃寧有書生來邪?」對曰:「先時有一書生來,衣麤薄而哭之哀,不記姓字。」僉曰:「必孺子也。」
〔一〕疑國學二字誤倒。

はじめ徐稚がわかいとき、國學のなかで遊んだ。〔国のなかに遊学した〕
江夏の黃瓊が、家で教授しており、徐稚は黄瓊に学んだ。のちに黄瓊が三公になると、徐稚は黄瓊と絶交した。黄瓊が薨ずると、徐稚は弔問した。葬列した、天下の名士たちは、徐稚を知らない。「豫章の徐孺子が来ているらしいが、見あたらない」と言いあった。喪主は「さっきの書生は、衣服がボロく、記名しなかった」と言った。みな「徐稚だ」と言った。

袁紹の例にあるように、葬儀は、士大夫が人脈を確かめあう場所だ。宦官の張譲だって、葬儀に来る、来ないで、恨みをもった。


於是推選能言語者陳留茅季偉候與相見,〔二〕酤酒市肉,稚為飲食。季偉請國家之事,稚不答;更問稼穡之事,稚乃答之。季偉還為諸君說之,或曰:「孔子云:『可與言而不與言,失人。』〔三〕稚其失人乎?」郭林宗曰:「不如君言也。孺子之為人也,清潔高廉,饑不可得食,寒不可得衣,而為季偉飲酒食肉,此為已知季偉之賢故也。所以不答國事者,是其智可及,其愚不可及也〔四〕,何不知之乎?」
〔二〕茅季偉,即茅容。風俗通義愆禮篇「偉」作「瑋」。 〔三〕見論語衛靈公。 〔四〕論語公冶長曰:「子曰:『甯武子邦有道則知,邦無道則愚,其知可及也,其愚不可及也。』」注曰:「佯愚似實,故曰不可及。」寧武子,衛國賢大夫也,名俞,武乃其謚也。

ここにおいて、言語がうまい人は、推選された。陳留の茅季偉〔もしくは季瑋、茅容のこと〕は、徐稚と会った。徐稚に酒肉をふるまった。茅容は、国家のことを聞いたが、徐稚はこたえず。商売のことを聞いたら、徐稚がこたえた。茅容は言った。「孔子は、言うべきことを言わないのは、失人であるとした。徐稚は、失人にあたるか」と。郭泰は言った。「茅容の発言は、ちがう。徐稚は、清潔で高廉な人だ。飢えても食わず、寒くても着ない。酒肉をふるまった茅容に、徐稚はレベルを合わせただけだ」と。

是時宦豎專政,漢室寢亂,林宗周旋京師,誨誘不息。稚以書誡之曰:「大木將顛,非一繩所維,何為棲棲不遑寧處?」〔一〕林宗感悟曰:「謹拜斯言。」以為師表。
〔一〕范書徐稚傳此語,乃稚與茅容臨別時所託轉之語,與袁紀作「以書」異。

宦官が専政し、漢室はみだれた。郭泰は京師をめぐり、やすまらない。徐稚は文書をかき、郭泰をいましめた。「大木が倒れようとする。1本の縄で、ささえられない」と。
〔范曄の徐稚伝は、このセリフを、茅容との別れ際にのせる。袁紀『後漢紀』で徐稚は、文書で郭泰につたえた。范曄とちがう〕
郭泰は感悟した。「徐稚のアドバイスを、つつしんで聞きます」と。郭泰は、徐稚の文書を、座右の銘とした。

ぼくは思う。時系列や伝達の手段は、このようにアイマイになるのだなあ。「文書を、いつも大切に持っておく」という映像的な演出ができるから、袁紀のほうが優れている。笑
袁宏は、162年に推挙されたが、就職しなかった人の話を、ながながとひいてる。袁宏の時代・東晋のとき、仕官しなかったビッグ・ネームは、どんな人がいたのだろう。


162年(2) 姜肱、袁閎、韋著、李曇のエピソード

姜肱字伯淮,彭城廣戚人。隱居靜處,非義不行,敬奉舊老,訓導後進。常與小弟季江俱行,為盜所劫,欲殺其弟。肱曰:「弟年稚弱,父母所矜,又未聘娶,願自殺以濟家。」弟季江復言曰:「兄年德在前,家之英俊,何可害之,不如殺我。我頑闇,生無益於物,沒不損於數,乞自受戮,以代兄命。」二人各爭死於路,盜戢刃曰:「 二君所謂義士。」棄物而去。肱車中尚有數千錢在席下,盜不見也,使從者追以與之。賊感之,亦復不取。肱以物己歷盜手,因以付亭長委去。舉有道、方正,皆不就。

姜肱は、あざなを伯淮。彭城の廣戚の人。隱居して、後進を訓導した。つねに小弟の季江とともにいた。盗賊に弟が殺されそうになった。姜肱は言った。「弟は幼く、父母に誇られるが、結婚の前だ。私・姜肱が死ぬから、弟をたすけろ」と。弟も、兄・姜肱をかばった。盗賊は、去った。有道、方正の科目にあげられたが、どちらも就かず。

袁閎字夏甫,太傳安之玄孫。自安至閎,四世三公,貴傾天下。閎玄靜履貞,不慕榮宦,身安茅茨,妻子御糟糠。父為彭城太守〔一〕,喪官,閎兄弟五人常步行隨柩車,號泣晝夜。從叔逢、槐並為公輔,前後贈遺,一無所受,二公忿之。至於州府辟召,州郡禮命,皆不就。
〔一〕范書作「彭城相」,是。

袁宏は、あざなを夏甫。太傳・袁安の玄孫だ。袁安から袁閎まで、四世三公、貴は天下を傾けた。袁閎は、玄靜で履貞、榮宦をしたわず、身は茅茨に安らげ、妻子は糟糠を御した。父は彭城太守〔范曄は「彭城相」とする。范曄がただしい〕となる。
父が死ぬと、袁閎は官位をすてた。袁閎の兄弟5人は、つねに徒歩で、柩車にしたがう。昼夜、號泣した。從叔の袁逢、袁隗は、どちらも三公となった。前後に袁閎へ贈遺したが、ひとつも受けとらず。袁逢と袁隗は、怒った。州府に辟召され、州郡に禮命されたが、袁閎は就かず。

韋著字休明,京兆杜陵人。隱居講授,不修世務〔一〕。
〔一〕范書韋著傳注引謝承書曰:「為三輔冠族。著少修節操,持京氏易、韓詩,博通術藝。」

韋著は、あざなを休明。京兆の杜陵の人。隱居して講授し、世務を修めず。
〔范曄の韋著伝にひく謝承『後漢書』はいう。「韋著は、三輔の冠族である。遺著は、わかくして節操を修め、『京氏易』、『韓詩』をまなび、術藝に博通した」と〕

李曇字子雲,潁川陽翟人。少喪父,事繼母。繼母酷烈,曇奉逾謹,率妻子執勤苦,不以為怨。曇身耕農,以奉供養,得四時珍玩,未嘗不先拜而後進母。鄉里有父母者,宗其孝行,以為法度。徵聘不應,唯以奉親為歡。

李曇は、あざなを子雲という。潁川の陽翟の人。おさなくして父をうしない、繼母につかえた。繼母は酷烈だが、李曇はつつましく仕えた。鄉里で、父母がいる人は、李曇を模範とした。徵聘されたが応じない。継母につかえることだけを、よろこびとした。

ぼくは思う。これはこれで、気持ちわるい。
桓帝につかえなかった人たちに、共通の性質を見つけられたら、時代の理解に役立ちそう。みんな、きょくたんに儒教の徳目を実践しているような気がする。後漢の国教は儒教なのだが、、どこでくいちがい、「儒教をおもんじるが、後漢に仕えない」という選択肢が生まれたのか。もしくは、「後漢に仕えないという処世をたもつには、儒教の実践しかない。ほかの宗教や学問をやれば、後漢にひきずりこまれるか、大逆をうたがわれるかだ」 という事情があったのかも知れない。おおきすぎるテーマだなあ。


162年(3) 馮緄が宦官と武陵討伐、朱穆が反対

夏四月戊辰〔一〕,虎賁掖門火。 〔一〕四月癸未朔,無戊辰,疑有訛。
五月,康陵園火。

夏4月戊辰〔4月ついたちは癸未だから、戊辰は誤り〕、虎賁掖門がもえた。
5月、康陵園がもえた。

武陵蠻夷反〔一〕,車騎將軍馮緄討之。緄上書曰:「夫勢得容姦,伯夷可疑;不得容姦,盜跖可信〔二〕。樂羊伐中山,反而語功,文侯示以謗書一篋〔三〕。願請中常侍一人監軍財費。」尚書朱穆奏曰:「臣聞出郊之事,將軍制之,所以崇威信合事宜也。即緄有嫌,不當荷任;即緄無嫌,義不見疑。樂羊戰國陪臣,猶賴見信之主,以全其功,況唐虞之朝,而有猜嫌之事哉!緄設虛端,以自阻衛,為臣不忠。」帝寢其奏。
〔一〕「武陵」原誤作「武陽」,逕改之。 〔二〕沈欽韓言此語出商君書畫策篇。其文曰:「勢不能為奸,雖跖可信也。勢得為奸,雖伯夷可疑也。」 〔三〕事見戰國策秦策甘茂語。

武陵の蠻夷が反した。車騎將軍の馮緄が討つ。馮緄は上書した。「姦を容れるなら、伯夷でも疑うべきだ。姦を容れなければ、盜跖でも信じるべきだ。樂羊は中山を討つ功績があったが、文書ひとつにそしられた。私・馮緄には、中常侍を1人つけてくれ。中常侍に、軍事と財務を監督させてくれ」と。

桓帝のそばに、宦官がいるせいで、安心して出撃できない。宦官を、出撃の当事者にまきこみ、馮緄は自分の立場をまもろうとした?
桓帝としても、おいしい話。成功したら、宦官の功績がふえる。

尚書の朱穆は上奏して、馮緄に反対した。「出征するのは、将軍の仕事である。もし馮緄が将軍の仕事をきらうなら、適任でない。もし馮緄が将軍の仕事をきらわないなら、失敗の予防線を張っているだけだ」と。桓帝は、朱穆の文書をもちいず。

ぼくは思う。馮緄の話は、「宦官はセコくて、手ごわい。だから馮緄は、奇策を編み出さざるをえなかった」というメッセージになりがち。だが、袁宏はそんなニュアンスで、史料をひかない。朱穆は、「外征は、宦官の仕事でない。宦官を連れてゆくという、馮緄のほうが、誤っている」と言った。朱穆が気にしているのは、職務の範囲である。宦官の善悪でない。


穆又上書曰:「漢故事,中常侍或用士人。建武已來,乃悉用宦者,延平已來〔一〕,寢益貴盛,假貂璫之飾〔二〕,任常伯之職。〔三〕天朝政事,一更其手,權傾天下,寵逼人主。子弟親戚,并荷職任,放濫驕逸,莫能禁禦。無行之徒,媚求官爵,恃勢驕寵,漁食百姓。臣以為可皆遣罷,率由舊章,博選天下清純之士,達國體者,以補其虛。即陛下可為堯舜之君,眾僚皆為稷耇之臣矣〔四〕。」上不從。穆後復見,口陳奏,上不悅,穆伏不起,左右叱穆出。於是宦官更共稱詔以詰讓,穆憤激發疽而卒。公卿以穆「立節忠清,守死善道,宜蒙旌寵,以勸忠勤」,乃追贈益州刺史。
〔一〕延平,漢殤帝年號。時鄧太后臨朝,委用宦官。 〔二〕李賢引漢官儀曰:「中常侍,秦官也。漢興或用士人,銀璫左貂。光武以後,專任宦者,右貂金璫。」又曰:「璫,以金為之,當冠前,附以金貂也。」 〔三〕常伯,侍中也。惠棟引漢官儀曰:「侍中,周官也。成王時號曰常伯,選于侯伯,轉補羇闕,言其道德可常尊也。」 〔四〕司馬相如子虛賦曰:「禹不能名,耇不能計。」張揖注曰:「耇為堯司徒,敷五教,率萬事。」又應劭曰:「契,善計也。」耇,音屑,亦作契。

朱穆はふたたび上書した。「前漢では、中常侍には士人がついた。光武帝のとき、宦官がつくようになった。殤帝のとき、鄧太后が宦官をもちい、宦官は盛んになった。宦官を高位から、やめさせろ」と。桓帝は、朱穆をきかず。のちに朱穆は桓帝に、口頭で「宦官をやめさせろ」と言った。桓帝はよろこばず。朱穆が伏して動かない。朱穆は、病気になった。公卿らがうったえて、朱穆に益州刺史を追贈させた。

朱穆は、宦官が職務の範囲を越えているから、怒った。
ぼくは思う。組織のルールが通用せず、トップが公認してルールをやぶるのは、組織の非常時だ。たとえば、草創期とか、存亡の危機とか。桓帝のとき、宦官が職権をこえたのは、後漢が危機だからだろう。桓帝は、梁冀を片づいた。梁冀の派閥の穴埋めは、存亡をかけた大事業だったのかも知れない(大げさか)。官位に空席がおおかったから、宦官の身内で、とりあえず補修した。。もしくは、周辺の異民族の問題か。


穆字公叔,南陽宛人。初為冀州刺史,始濟河,長史解印去者四十餘人。中常侍趙忠喪父,歛為璵璠玉匣〔一〕。穆下郡考正,乃至發墓視尸。其家稱冤自訴,穆坐徵詣廷尉,髡輸左校。後得原歸家。頃之,朝臣多為穆冤,由是徵命議郎、尚書。
〔一〕歛通殮。趙忠僭越,以天子之制葬父,故穆考之。
十一月,武陵蠻夷降。

朱穆は、あざなを公叔。南陽の宛の人だ。はじめ冀州刺史となり、黄河をわたった。冀州の長史のうち、解印して去った人は40余人。中常侍の趙忠は、父が死ぬと、天子の父とおなじ埋葬をした。朱穆は、郡の考正にくだし、趙忠の父の陵墓をあばいた。趙忠にうったえられ、朱穆は廷尉にゆき、髡輸左校。のちにゆるされ、家に帰った。おおくの朝臣が、朱穆の無罪をうったえた。朱穆は、議郎、尚書となった。
11月、武陵の蠻夷が、桓帝に降った。

ぼくは思う。するどい、しめくくりの1文。馮緄が成功したことを、端的にあらわした。戦闘の経緯なんて、袁宏の主張に関係ないのだ。主張に関係ないところを、スパッと切り捨てる。この執筆態度、好きです。