191年春夏:孫堅が董卓を、洛陽から追う
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
191年春:孫堅が洛陽をうばう
初平二年、春正月辛丑、大赦した。
関東の諸侯は、劉虞を皇帝にしようと議した。曹操が云った。
「私たちが挙兵したのは、幼い劉協を助けるためだ。諸侯の皆さんが北面しても、私は西をむく」
韓馥と袁紹は、袁術に書をおくった。
「劉協は、霊帝の子ではない。大司馬の劉虞がふさわしい」
袁術は、不臣の心があったので、袁紹と韓馥に反対した。
「董卓が殺すことが目的であり、皇帝は劉協でよろしい」
韓馥と袁紹は、楽浪太守の張岐を劉虞におくった。劉虞は、張岐を叱った。袁紹は、劉虞に録尚書事をすすめたが、袁紹は許さなかった。匈奴に逃げると劉虞が云うから、袁紹はあきらめた。
2月丁丑、董卓は太師となる。位は諸侯王の上。
孫堅は梁東にうつり、董卓の部将・徐栄に敗れた。孫堅は、陽人にうつった。東郡太守の胡軫は、歩騎5000をひきい、呂布を騎督とした。胡軫と呂布が対立し、華雄が孫堅に斬られた。
ある人が、袁術に云った。
「孫堅が董卓を倒しても、狼を除いて虎を得るようなものだ」
袁術は、兵糧をとめた。孫堅は地図を描き、袁術を責めた。
「上は後漢のため、下は袁隗のかたき討ち。私は董卓に私怨はありませんが、戦っているのです。兵糧をください」
袁術は、兵糧を送った。
李傕は、孫堅に和親を説いた。
「孫堅の子弟を、刺史や郡太守にするから、味方せよ」
孫堅は、断った。孫堅は、洛陽から90里の大谷にきた。董卓は破れた。新安のメン池にうつった。孫堅は、後漢の皇帝陵のあいだで戦った。孫堅は洛陽で、呂布を破った。皇帝陵を復旧し、伝国璽を得た。
董卓の長史の劉ガイが云った。
「関東の諸侯は負けっぱなし。しかし孫堅だけが、少し強い。私はむかし、周慎とともに西をせめ、金城の韓遂を叩きました」
劉ガイは云った。
「孫堅は、とくに理由なく、諸袁児(袁術と袁紹)に従っています。そのうち孫堅は死ぬでしょう。東中郎将の董越をメン池におき、中郎将の段ワイを華陰におき、中郎将の牛輔を安邑におき、山東の諸侯を防ぎましょう」
牛輔は、董卓の婿である。
董卓は長安にひいた。孫堅は陵墓をなおし、魯陽にかえった。
191年夏:董卓が長安に逃げ、尚父になりたい
夏4月、董卓は長安で車にのり、公卿と会った。董卓は、御史中丞の皇甫嵩に云った。
「義真さん、恐れ入ったかね」
董卓は、太公望と自分をくらべ、尚父と呼ばれたいと、蔡邕に聞いた。蔡邕は、まだ早いと反対した。
「関東の諸侯を平定し、洛陽に戻ってからですね」
司隷校尉の劉ゴウは、不孝・不忠・不清・不順な人から、財産を没収せよと云った。死者は1000人を数え、互いを見張ってビクビクした。
6月丙戌、地震した。
191年秋につづきます。