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191年冬:二袁と劉表、劉焉

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

191年冬:袁紹と袁術の対立がはじまる

冬10月壬戌、衛尉の張温が、市場でムチで殺された。

袁術に通じたとは、ウソ。大臣が死ねば、誰でもよかった。ただこの時点で、袁紹は冀州に移ったが、袁術が董卓を狙っていることが分かる。


青州の黄巾30万が、渤海をせめた。黄巾は、黒山と合わさろうとした。公孫瓚は、歩騎2万をひきい、東光県の南で黄巾を破った。首3万を斬った。黄巾は荷物をすて、黄河を渡った。半分渡ったところで、公孫瓚は攻撃した。死者は数万、黄河は赤く染まった。公孫瓚は7万余を生け捕りにし、数え切れない車、防具、財物をえた。
劉虞の子の劉和は、侍中となった。献帝は、洛陽に戻りたい。劉和は長安を抜け、武関を出た。劉和は、劉虞を関中に迎えようとした。
劉和は南陽で、袁術にとめられた。袁術は、劉虞を助けたい。劉和は、劉虞に「数千騎を、南陽に送ってくれ」と書を送った。公孫瓚は、従弟の公孫越を袁術に送った。

『三国志』公孫瓚伝と同じだから、省きます。このあたり、公孫瓚と袁術の意図が、よく分かりません。以前に公孫瓚伝に注釈をつけました(PDF)


袁紹は孫堅が董卓をせめる間に、会稽の周昂を豫州刺史とし、孫堅の陽城を襲った。

周昂の豫州攻撃は、このタイミングだったのか!

袁術は、公孫越に孫堅を救わせ、周昂を攻めた。公孫越は、流れ矢で死んだ。公孫瓚は怒り、袁紹を攻めるべく、磐河に出陣した。袁紹は、渤海太守の印綬を、公孫瓚の従弟の公孫範にわたした。だが公孫範は、袁紹に叛き、渤海の兵をひきいて公孫瓚をたすけた。

袁紹は公孫瓚を宥めるためではない。公孫範を、独立に味方につけようとした。公孫瓚は、従兄弟すら、完全に統制下に置いていない?

公孫瓚は、厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史とした。それぞれ、郡太守や県令をおいた。
涿郡の劉備は、公孫瓚の同窓である。劉備は田楷にしたがい、青州で功績があった。平原相になった。関羽と張飛と趙雲がしたがう。

『資治通鑑』で、劉備が初登場しました。
劉備を平原相にしたのは、公孫瓚だったのか!


袁術は、南陽100万戸を食いつぶした。袁術は公孫瓚とむすび、袁紹は劉表とむすんだ。袁術は、怒った。
「袁紹は家奴のくせに、豪族を味方につけるとは!」
袁術は、孫堅に劉表を討たせた。

袁術が、袁紹の人集めに焦った。だから孫堅を劉表にぶつけた。この流れを『資治通鑑』は描いてる。

孫堅は死んだ。孫堅の孝廉で、長沙の桓階は、孫堅の喪を発した。孫賁が豫州刺史となった。袁術は、劉表に勝てなかった。

董卓が長安に行ったとき、朱儁を洛陽に残した。朱儁は、山東の諸侯と通じた。朱儁は董卓にバレるのを懼れ、荊州に出た。董卓は、弘農の揚懿を河南尹にした。朱儁はもどり、楊懿を洛陽から出した。朱儁は、洛陽は補給できないので、中牟にいた。朱儁は、董卓を討つ人を募った。徐州刺史の陶謙は上表し、朱儁に車騎将軍をかねさせた。

自称の車騎将軍とは、袁紹と同じだ。
陶謙は朱儁を、袁紹のような盟主にしたかった?

陶謙は、丹楊兵3000で朱儁を助けた。朝廷は、徐州の黄巾がひどいから、陶謙を徐州刺史としていたのだ。

劉焉は、益州にいる。沛国の張魯は、祖父の張陵から、五斗米道をやる。張魯の母は、劉焉の家を往来した。張魯は、督義司馬になった。漢中太守の蘇固を殺し、斜谷関を絶った。劉焉は、益州の豪族を倒し、天子の装飾をした。劉表は、劉焉をチクッた。
劉焉の子である劉範は、左中郎将だ。劉誕は、治書御史だ。劉璋は、奉射都尉だ。みな長安にいる。別部司馬の劉ボウは、幼いから益州にいる。劉璋が益州にいき、劉焉は劉璋を長安に返さなかった。

公孫度は、避難民を吸収した。北海の管寧、ヘイ原、王烈が遼東にいる。

「魏志」十一にある、北方の名士について、省略します。


192年につづきます。董卓が死にます。100513