191年秋:冀州牧、袁紹
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
191年秋:韓馥が、冀州を袁紹にゆずる
秋7月、司空のチュウ払をやめ、光禄大夫をつとめる済南の淳于嘉を司空にした。司空の趙謙をやめ、太常の馬日磾を太尉とした。
かつて何進は、雲中の張楊を并州に送り、兵を募らせた。何進が死に、張楊は数千人をひきい、上党にいた。張楊は、南単于の於夫羅とともに、河内にいる袁紹に合わさった。張楊と於夫羅は、ショウ水に屯した。
韓馥は、袁紹に人気があるから、袁紹の兵糧を止めた。韓馥は、袁紹の兵が、散らばるのを狙った。たまたま韓馥の部将の麹義が謀反した。韓馥は、麹義に負けた。麹義と袁紹は、結んだ。
袁紹の食客の逢紀は、袁紹に云った。
「袁紹さまは、他人に補給に頼っている。大きな事業ができない。冀州の兵は強くても、韓馥はバカだ。公孫瓚と示し合わせ、冀州を攻めましょう」
袁紹は、董卓を討つことを名目に軍を動かし、延津にもどった。
袁紹の外甥である陳留の高幹は、韓馥にかわいがられた。潁川の辛評、荀諶、郭図らは、韓馥に云った。
「公孫瓚は、燕の兵を使うから強い。袁紹は(董卓と反対の)東に向かったが、意図が分からない。韓馥さまのために、心配いたします」
韓馥「どうしたらいいか」
荀諶が云った。
「袁紹に冀州を与えましょう。袁紹は、一時の傑です。韓馥さまは、袁紹に及びません。冀州は、天下の重資です。もし公孫瓚と袁紹が攻めこめば、韓馥さまは命が危ない」
韓馥はビビりなので、荀諶をいれた。韓馥の長史の耿武と、別駕のビン純、治中の李歴らは、韓馥をいさめた。
「冀州は100万の兵、10年の穀物があります。袁紹は本拠がなく、虫の息。赤子同然。どうして袁紹なんかに、冀州をあげるのですか」
「私は袁氏の故吏だからね」
これより先、韓馥の従事の趙浮、程カンらは、弩兵10000をひきい、孟津にいた。袁紹は、朝歌の清水にいた。趙浮らは、数百の船で、袁紹の陣を夜におどした。趙浮は、韓馥に云った。
「袁紹は、張楊と於夫羅を従えましたが、日が浅くて、役に立たない。旬日のあいだに、袁紹は崩れるでしょう。韓馥さまは、袁紹の自滅を待てばいい」
だが韓遂は、宦官の趙忠の屋敷に入り、子を送って、袁紹に印綬をわたした。耿武とビン純だけは、袁紹を拒んだ。袁紹は、2人を殺した。
袁紹は、冀州牧となった。
広平の沮授を、奮武将軍に。魏郡の審配を、治中に。鉅鹿の田豊を、別駕に。南陽の許攸、逢紀、荀諶を、軍師とした。
河内の朱漢は、都官従事になった。はじめ朱漢は、韓馥と不仲で、袁紹を迎えたいと思った。朱漢は、韓馥の弟を殺した。韓馥の子を殺し、両足を折った。袁紹が冀州に立つと、朱漢を殺した。だが韓馥の怖れはやまず、袁紹から去った。
韓馥は、張邈によった。袁紹の使者がきた。韓馥は、使者が殺しに来たと思いこみ、トイレで自殺した。
鮑信は、曹操に云った。
「袁紹は、冀州をだまし取った。もう1人の董卓だ。袁紹を野放しにしたら、大変なことになる」
たまたま黒山の于毒、白ニョウ、眭固ら10余万が、東郡を襲った。東郡太守の王肱では、防げない。曹操が東郡に入り、于毒たちを濮陽城でやぶった。袁紹は上表し、曹操を東郡太守とした。曹操は、東武陽で東郡を治めた。
南単于が張楊をおそい、袁紹に叛いた。南単于は、黎陽にいる。董卓は、張楊を建義将軍、河内太守とした。
天文読みが、大臣が死ぬと予言した。董卓は、衛尉の張温が袁術に通じたと、デッチあげた。
191年冬につづきます。