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『晋書』列伝68、王敦伝 1)蜂の目、豹の声
ひさびさに大物の列伝を翻訳します。揚州に逃れた司馬睿は、どんな苦労をして、旧孫呉の地に建国したんだろうか。そういう興味に基づいて、王敦伝を読みます。

王敦,字處仲,司徒導之從父兄也。父基,治書侍御史。敦少有奇人之目,尚武帝女襄城公主,拜駙馬都尉,除太子舍人。

王敦は、あざなを處仲という。司徒の王導の從父兄である。
父の王基は、治書侍御史だった。
王敦は、若くして奇人之目があり、武帝の娘である襄城公主を尚んだ。王敦は駙馬都尉を拝し、太子舍人となった。
〈訳注〉「奇人之目」を無理に訳すなら、「奇特で、尋常ならぬものを内に秘めた目つき」かなあ。

時王愷、石崇以豪侈相尚,愷嘗置酒,敦與導俱在坐,有女伎吹笛小失聲韻,愷便驅殺之,一坐改容,敦神色自若。他日,又造愷,愷使美人行酒,以客飲不盡,輒殺之。酒至敦、導所,敦故不肯持,美人悲懼失色,而敦傲然不視。導素不能飲,恐行酒者得罪,遂勉強盡觴。導還,歎曰:「處仲若當世,心懷剛忍,非令終也。」

ときに王愷と石崇は、豪侈を競って楽しんでいた。王愷が酒宴を開き、王敦と王導は招かれた。女伎が、笛の演奏を少しミスった。王愷は女伎に駆け寄り、その場で殺した。
「なんてこと、、」
一同は顔色を変えた。だが王敦は神色自若、平然としていた。
他日、また王愷が酒宴を開いた。王愷は侍女に酒を注がせた。客が全てを飲み干さないと、王愷は侍女を殺した。王敦と王導のところに、酒が回ってきた。
「私は酒はいらん」
王敦が拒んだので、侍女は死を覚悟して悲懼し、顔色を失った。だが王敦は傲然として、侍女に目もくれなかった。
対して王導は、ふだんは酒を飲めないのだが、侍女が殺されるのを恐れた。王導は無理して酒を飲み干し、侍女を助けた。王導は帰宅すると、嘆じて言った。
「處仲(王敦)がもし世に出たら、心懐が剛忍で思いやりがないから、天寿を全うできないだろう」

洗馬潘滔見敦而目之曰:「處仲蜂目已露,但豺聲未振,若不噬人,亦當為人所噬。」

洗馬の潘滔が王敦に会い、目を見て言った。
「處仲(王敦)は、すでに蜂目をしているが、まだ豺聲を振るわない。もし人を噛まなければ、人に噛まれるだろう」
〈訳注〉ハチの眼は、疑い深く相手を見る。ヒョウの声は、敵を脅して追い払う。前者は敵を作り、後者は敵を破る。もし王敦が後者を獲得しなければ、世間で潰されるだろう、という指摘だ。「噬」は、かみつくこと。

及太子遷許昌,詔東宮官屬不得送。敦及洗馬江統、潘滔,舍人杜蕤、魯瑤等,冒禁于路側望拜流涕,時論稱之。遷給事黃門侍郎。

299年、太子(司馬遹)が許昌に遷された。
「東宮の役人は、(主君の司馬遹を)見送ってはいけない」
と詔が出た。
しかし王敦と、洗馬の江統と潘滔、舍人の杜蕤と魯瑤らは、詔を破り、道路の側で司馬遹に望拜して流涕した。世論は、彼らの行いを称えた。
王敦は、給事黄門侍郎に遷った。

趙王倫篡位,敦叔父彥為兗州刺史,倫遣敦慰勞之。會諸王起義兵;彥被齊王冏檄,懼倫兵強,不敢應命,敦勸彥起兵應諸王,故彥遂立勳績。惠帝反正,敦遷散騎常侍、左衛將軍、大鴻臚、侍中,出除廣武將軍、青州刺史。

301年、趙王の司馬倫は、恵帝から帝位を簒奪した。
王敦の叔父の王彦は、兗州刺史となった。
「兗州に行って、叔父を慰労せよ」
と、司馬倫は王敦に命じた。王敦は、兗州に行った。
このとき諸王は、司馬倫を倒すために起義して挙兵した。
「兗州刺史の王彦も、ともに司馬倫を討とう」
斉王の司馬頴から、檄が届いた。王彦は司馬倫の軍兵が強いことを懼れて、命令に応じなかった。
「叔父上、ビビらずに司馬倫を倒すべきです」
王敦が背中を押したから、王彦は諸王に呼応した。王敦は、ついに勳績を立てた。
惠帝が復位すると、王敦は散騎常侍に遷り、左衛將軍、大鴻臚、侍中となった。やがて 洛陽を出でて、廣武將軍、青州刺史となった。

永嘉初,征為中書監。于時天下大亂,敦悉以公主時侍婢百餘人配給將士,金銀寶物散之於眾,單車還洛。

永嘉初(307)、王敦は中書監になった。このとき天下は、異民族が侵入して大いに乱れた。
王敦は、公主(皇族の女性)に命じた。
「あなたがたは、侍婢を百人余り抱えている。全て將士に下げ渡しなさい。金銀や寶物も、兵たちに分けなさい
公主たちは、1台の車だけ使い、身ひとつで長安から洛陽に戻った。

東海王越自滎陽來朝,敦謂所親曰:「今威權悉在太傅,而選用表情,尚書猶以舊制裁之,太傅今至,必有誅罰。」俄而越收中書令繆播等十餘人殺之。越以敦為揚州刺史,潘滔說越曰:「今樹處仲于江外,使其肆豪強之心,是見賊也。」越不從。

東海王の司馬越が、滎陽から洛陽に來朝した。司馬越は自ら、王敦に言った。
「現行の制度では、威権は全て太傅に属し、太傅は人事権を行使できる。だが(王敦が管轄する)尚書は、旧来の制度のように、勝手に人事権を行使していた。ルール違反である。いま太傅である私(司馬越)が洛陽に来た。必ずお前らに誅罰を加えてやる」
にわかに司馬越は、中書令の繆播ら10余人を、捕らえて殺した。司馬越は、王敦を揚州刺史にした。
〈訳注〉司馬越は、中書の勢力を削ぐため、王敦を左遷した。王敦の揚州行きが、東晋成立の大きな影響を与えるとも知らず。
潘滔は、司馬越に説いた。
「いま處仲(王敦)に長江を渡らせ、拠点を与えてはダメです。豪強之心をほしいままにし、賊と結託するでしょう」
司馬越はこの忠告を聞かず、王敦を揚州に行かせた。
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝68、王敦伝
1)蜂の目、豹の声
2)曹操の楽府を熱唱
3)瑯邪に帰らせて下さい