表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

209年、周瑜が江陵をとる

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

209年春、合肥で張紘がいさめる

春,三月,曹操軍至譙。
孫權圍合肥,久不下。權率輕騎欲身往突敵,長史張紘諫曰:「夫兵者兇器,戰者 危事也。今麾下恃盛壯之氣,忽強暴之虜,三軍之眾,莫不寒心。雖斬將搴旗,威震敵 場,此乃偏將之任,非主將之宜也。願抑賁、育之勇,懷霸王之計。」權乃止。
曹操遣 將軍張喜將兵解圍,久而未至。揚州別駕楚國蔣濟密白刺史,偽得喜書,雲步騎四萬已 到雩婁,遣主簿迎喜。三部使□書語城中守將,一部得入城,二部為權兵所得。權信之, 遽燒圍走。

209年春3月、曹操の軍は譙にきた。
孫権が、合肥をかこんだ。なかなか合肥が落ちない。孫権は、みずから軽騎を率いて、合肥に突っこもうとした。長史の張紘が、孫権をいさめた。
「みずから、孫権さんが突っこんではいけない」
孫権は、突撃をやめた。

張紘伝で、読んだばかり。司馬光にとって、209年・合肥の戦で、もっとも重要なイベントは、張紘が孫権をいさめたこと。
ぼくは張紘伝を読み、張紘の思惑を想像しました。孫権を曹操と戦わせたくなかった。孫権には、後漢にしたがってほしかった。
孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝


209年秋冬、赤壁のあとの荊州始末

秋,七月,曹操引水軍自渦入淮,出肥水,軍合肥,開芍陂屯田。
冬,十月,荊州地震。
十二月,操軍還譙。
廬江人陳蘭、梅成據灊、六叛,操遣蕩寇將軍張遼討斬之;因使遼與樂進、李典等 將七千餘人屯合肥。

209年秋7月、曹操は淮水にはいり、肥水にでた。合肥にきた。芍陂をひらき、屯田した。

曹操と孫権が、はじめて戦います。

209年冬10月、荊州が地震した。

これから、曹操、劉備、孫権が、荊州をとりあう。この地震は、その前ぶれだ。荊州の地震がレアなのか、わざわざ司馬光が強調したか。どっちだろう。

209年12月、曹操は譙にかえった。
廬江の人・陳蘭と梅成が、灊と六によって、曹操にそむいた。蕩寇將軍の張遼が、これを斬った。張遼は、楽進や李典らと、7千余人をひきいて、合肥に屯した。

灊と六の位置を、地図で調べておかねば。どれくらい、南に入りこんだところだろう。


周瑜攻曹仁歲餘,所殺傷甚眾,仁委城走。權以瑜領南郡太守,屯據江陵;程普領 江夏太守,治沙羨;呂范領彭澤太守;呂蒙領尋陽令。劉備表權行車騎將軍,領徐州牧。 會劉琦卒,權以備領荊州牧,周瑜分南岸地以給備。備立營於油口,改名公安。權以妹 妻備。妹才捷剛猛,有諸兄風,侍婢百餘人,皆執刀侍立,備每入,心常凜凜。

周瑜は、曹仁を1年余、攻めている。曹仁は、江陵をすてて逃げた。孫権は、周瑜を南郡太守にした。周瑜は、江陵に屯した。程普は江夏太守になり、沙羨に治した。呂範は彭澤太守となった。呂蒙は、尋陽令となった。
劉備は上表して、孫権を行車騎将軍とした。孫権は、徐州牧となった。

孫権が会稽太守をやめるのは、このタイミングだ。そして、孫権の出世を認めたのは、劉備と曹操。どういう思惑が、赤壁の翌年に、三者のあいだであったか。考えるべき記述です。意義が大きそうだ。

このころ劉琦が死んだ。孫権は劉備を、荊州牧にした。周瑜は、長江の南岸の土地をわけて、劉備にあたえた。劉備は、油口にいた。劉備は、油口を公安とあらためた。
孫権は、妹を劉備に嫁がせた。妹は男まさりなので、劉備はビクビクした。

曹操密遣九江蔣幹往說周瑜。幹以才辨獨步於江、淮之間,乃布衣葛巾,自托私行 詣瑜。瑜出迎之,立謂幹曰:「子翼良苦,遠涉江湖,為曹氏作說客邪?」因延幹,與 周觀營中,行視倉庫、軍資、器仗訖,還飲宴,示之侍者服飾珍玩之物。因謂幹曰: 「丈夫處世,遇知己之主,外托君臣之義,內結骨肉之恩,言行計從,禍福共之,假使 蘇、張共生,能移其意乎?」幹但笑,終無所言。還白操,稱瑜雅量高致,非言辭所能 間也。

曹操は、ひそかに九江の蒋幹をおくり、周瑜をスカウトした。だが蒋幹がしかけた、周瑜と孫権の仲たがい作戦は、失敗した。

重要なのは、中身じゃない。裴注の引用だ。重要なのは、209年に、この記事が置かれていること。時系列がこれでよいのか、ぼくなりに吟味したい。


和洽が、極端な儒教を批判する

丞相掾和洽言於曹操曰:「天下之人,材德各殊,不可一節取也。儉素過中,自以 處身則可,以此格物,所失或多。今朝廷之議,吏有著新衣、乘好車者,謂之不清;形 容不飾、衣裘敝壞者,謂之廉潔。至令士大夫故污辱其衣,藏其輿服;朝府大吏,或自 挈壺飧以入官寺。夫立教觀俗,貴處中庸,為可繼也。今崇一概難堪之行以檢殊塗,勉 而為之,必有疲瘁。古之大教,務在通人情而已。凡激詭之行,則容隱偽矣。」操善之。

丞相掾の和洽は、曹操に云った。
「儒教の規定にあわせるため、わざと衣服をボロくしている官吏がいます。極端すぎて、ぎゃくに弊害が出ています」 曹操は、和洽の提案をみとめた。

司馬光は、ときどき上奏を単発で引用する。曹操の人材の、ふところの深さを感じさせます。劉備も孫権も、根拠地を得ることに、血眼なときだ。曹操のしたでは、儒教にかんする議論をしている。


210年につづきます。またやります。101101