088年、竇太后が臨朝し、鄧彪と劉暢をたよる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
088年春、男系の親族を、尊びすぎる章帝
春,正月,濟南王康、阜陵王延、中山王焉來朝。上性寬仁,篤於親親,故叔父濟 南、中山二王,每數入朝,特加恩寵,及諸昆弟並留京師,不遣就國。又賞賜群臣,過 於制度,倉帑為虛。何敞奏記宋由曰:「比年水旱,民不收穫。涼州緣邊,家被兇害; 中州內郡,公私屈竭。此實損膳節用之時,國恩覆載,賞賚過度,但聞臘賜,自郎官以 上,公卿、王侯以下,至於空竭帑藏,損耗國資。尋公家之用,皆百姓之力。明君賜賚, 宜有品制;忠臣受賞,亦應有度。是以夏禹玄圭,周公束帛。今明公位尊任重,責深負 大,上當匡正綱紀,下當濟安元元,豈但空空無違而已哉!宜先正己以率群下,還所得 賜,因陳得失,奏王侯就國,除苑囿之禁,節省浮費,賑恤窮孤,則恩澤下暢,黎庶悅 豫矣。」由不能用。
088年春正月、濟南王の劉康、阜陵王の劉延、中山王の劉焉が來朝した。章帝の性質は、寬仁だ。親族に親しむことに篤い。ゆえに章帝は、叔父の濟南王と中山王が、しばしば入朝するごとに、特に恩寵を加えた。諸昆弟たちを、京師に留めて、就國にゆかせず。
ぼくは思う。章帝が死ぬ歳から、『資治通鑑』の翻訳を再スタートしたのだが。いかにも章帝らしいエピソードから始まって、うれしい。「親親」は、章帝のキーワードだ。
また章帝は、制度をすごして、群臣を賞賜した。倉帑(備蓄)はカラになった。
何敞は宋由に奏記して言う。「大雨と日照で、収穫がない。涼州は西羌に兇害された。制度をこえたバラまきは、いけない。夏禹も周公も、バラまかず。諸王を任国にゆかせ、郡臣のボーナスは減らせ」と。宋由は、用いず。
ぼくは思う。名君として徳をほどこすには、お金がかかるなあ。
尚書する南陽の宋意は、上疏した。「陛下(章帝)は、孝にいたること、烝烝たり。諸王を、同家の人のように禮寵する。諸王の車を、司馬門のなかに入れさせる。
胡三省はいう。漢制では、太子や諸王は、司馬門のそとで下車する。車は、門外にとめておく。交通規制は、曹植の越度に数えられるほど、重要である。
諸王は、章帝を拝さずに着席する。章帝が食べる甘味を、諸王に分け与える。
劉康と劉焉は、支庶のくせに、大國をもらった。陛下の恩寵は、礼のルールをこえる。『春秋』の義では、諸父や昆弟は、みな臣下となる。血筋が近ければ尊び、血筋が遠ければ卑しむ。幹を強くして、枝を弱くする。陛下のやり方は、枝の臣下を強めて、幹の君主を弱める。
ぼくは文系なので、生殖能力が、遺伝するかどうか知らない。章帝は子づくりが得意だが、和帝より後の皇帝が、子づくりが不得意になる理由を、解き明かせない。まあ特別な理由がない限り、章帝も和帝も、生殖能力は変わらないと想定する。系図が歪む理由は、王朝の制度によると思う。すなわち、章帝が、やたらと親族を尊んだから。
また西平王の劉羨ら6人の王は、妻子がいて家を成し、王国の官屬が整備されている。はやく藩国にゆかせ、子孫の基址とせよ。京師でバブらせるな。劉康、劉焉、劉羨らを、京師から出せ」と。章帝は、諸王を京師から出さず。
明帝&章帝&和帝の時代(ファザコンとマザコン)
また後漢では、皇帝の生母より、皇太后を重んじる制度だ。渡邉義浩氏の『儒教と中国』に書いてあった。ぼくは思う。この制度のせいで、幼い皇子が殺されまくった。皇后の家は、家の権益を守るため、他の女から生まれた皇子を脅かす。暗闇で殺したかも知れない。何皇后が、劉協を生んだ王美人を殺したように。結果、太子が残らない。
子のいない正室が、側室の子を悪む話。これは『晋書』にもある。賈充の妻、廣城君の郭槐だ。『晋書』列伝10より、「賈謐伝」他賈氏を翻訳の冒頭。
088年2月、章帝が死に、和帝がたつ
范曄論曰:魏文帝稱明帝察察,章帝長者。章帝素知人,厭明帝苛切,事從寬厚; 奉承明德太后,盡心孝道;平徭簡賦,而民賴其慶;又體之以忠恕,文之以禮樂。謂之 長者,不亦宜乎!
太子即位,年十歲,尊皇後曰皇太后。
088年2月壬辰、章帝は章德前殿で死んだ。31歳だ。章帝は、「父・明帝のように、寢廟を起てるな」と詔した。
ぼくは思う。男系の親族が、あまり栄えなかった(栄えさせなかった)曹丕が、後漢の章帝をたたえる。皮肉が利いてて、面白いのですよ。笑
太子の劉肇が即位した。年10歲。皇后を尊び、皇太后とした。
088年3月、竇太后は王莽をマネて、鄧彪を頼る
088年3月丁酉、章帝の遺詔により、西平王の劉羨を陳王にうつし、六安王の劉恭を、彭城王にうつす。3月癸卯、章帝を敬陵に葬る。
南單于・宣が死んだ。單于・長の弟である、屯屠何が立つ。屯屠何は、休蘭屍逐侯鞮單于となる。
竇太后が臨朝した。
竇憲は侍中となり、内に機密を、外に誥命をにぎる。弟の竇篤を、虎賁中郎將とした。竇篤の弟・竇景と竇カイは、どちらも中常侍となる。竇氏の兄弟は、みな親要なポストにつく。
竇憲の客・崔駰は、竇憲を諌めた。「富貴に生まれて、驕傲しなかった人は、前例がない。外戚がおごった前例は多い。漢室では、哀帝と平帝までに、外戚が20家ある。一族を保全できたのは、4家だけだ。竇憲は、つつしめ」と。
3月庚戌、皇太后は詔した。「もと太尉の鄧彪を、太傅とし、關內侯に封じ、錄尚書事させ、百官をまかせる」と。鄧彪は義讓があり、章帝に敬われた人だ。竇憲は、鄧彪を尊崇した。もし実行したい政策があれば、外で鄧彪に上奏させ、内で竇太后が命じれば、すべて実行された。鄧彪は在位のとき、修身しただけで、不正を匡せず。
胡三省はいう。竇憲が鄧彪を用いたのは、王莽が孔光を用いた智恵にならったものだ。ぼくは補う。孔光については、以前に『資治通鑑』を訳しました。
前1年、前漢哀帝が崩じ、王莽が再登場、に登場する。
竇憲は性質が果急だ。睚眥の怨をもてば、かならず報復した。
ぼくは思う。個人の性格が、わざわざ史書で悪く書かれたら、要注意だ。
永平(58-75)年間、謁者の韓紆は、竇憲の父・竇勳を、獄死させた。竇憲は、客に韓紆の子を殺させ、その首級を竇勳の塚に祭った。
ぼくは思う。韓紆は、すでに死んでいたのかな。だから、韓紆の子に復讐した。子にとって、迷惑な話だ。
3月癸亥、陳王の劉羨、彭城王の劉恭、樂成王の劉黨、下邳王の劉衍、梁王の劉暢は、はじめて国にゆく。
088年夏、南匈奴が、北匈奴を滅ぼしたい
北匈奴饑亂,降南部者歲數千人。秋,七月,南單于上言:「宜及北虜分爭,出兵 討伐,破北成南,並為一國,令漢家長無北念。臣等生長漢地,開口仰食,歲時賞賜, 動輒億萬,雖垂拱安枕,慚無報效之義,願發國中及諸部故胡新降精兵,分道並出,期 十二月同會虜地。臣兵眾單少,不足以防內外,願遣執金吾耿秉、度遼將軍鄧鴻及西河、 雲中、五原、朔方、上郡太守並力而北。冀因聖帝威神,一舉平定。臣國成敗,要在今 年,已敕諸部嚴兵馬,唯裁哀省察!」太后以示耿秉。秉上言:「昔武帝單極天下,欲 臣虜匈奴,未遇天時,事遂無成。今幸遭天授,北虜分爭,以夷伐夷,國家之利,宜可 聽許。」秉因自陳受恩,分當出命效用。
088年夏4月戊寅、章帝の遺詔により、郡國で塩鉄の禁をやめた。民は、ほしいままに塩を煮て、鉄を鋳すことができる。5月、京師で日照。
北匈奴が、饑えて亂れた。北匈奴のうち、南匈奴に降った人は、1年で数千人。088年秋7月、南単于が上言した。「今こそ北匈奴を攻めたい。われら南匈奴が、北匈奴を併合すれば、後漢は北に心配がなくなる。後漢の兵を、出してください。執金吾の耿秉と、度遼將軍の鄧鴻を、援軍にください。西河、
雲中、五原、朔方、上郡太守も、援軍にください。」と。
竇太后は、耿秉に南単于の上書を示した。耿秉は、上言した。「むかし前漢の武帝ですら、匈奴を滅ぼせなかった。いま、南匈奴をつかい、北匈奴を討てば、武帝を上回る。出兵すべきだ」と。太后は、出兵を議論させた。
尚書の宋意が上書した。「光武帝が南単于を(048年に)降してから、41年が経つ。後漢は兵役がなく、休息できた。出兵すべきでない。また北匈奴がいなくなれば、つぎに鮮卑が脅威となる。いま北匈奴は、西に逃げて、後漢に和親を求めている。北匈奴を、受けいれてやろう」と。
088年秋、竇憲が劉暢を殺して、匈奴に出撃する
たまたま齊殤王・劉石の子・都鄉侯の劉暢が、章帝の弔問にきた。
『後漢書』劉縯を抄訳、更始帝に荊州北を奪われた敗者(光武帝の兄)
竇太后は、しばしば劉暢と会う。竇憲は、宮省の権限を、劉暢に奪われないかと懼れた。竇憲は、劉暢を屯衛で刺殺した。竇憲は、劉暢の弟・劉剛を犯人にした。竇憲は、侍御史と青州刺史に、劉剛を調べさせた。
尚書する穎川の韓稜は言う。「劉暢を殺した賊は、京師にいる。近くを見ず、遠くを探しては、奸臣が笑うだろう」と。竇太后は怒り、韓稜を問い詰めた。だが韓稜は、意見を変えない。
まだ後漢で、外戚が栄えた事例がない。この竇氏が、初めてなのだ。もしかしたら、竇太后が、皇族の有望な人を頼り、和帝を助けたかも知れない。これが後漢の前例になり、以後の歴史が変わったかも。劉暢、死んだのは残念でした。
何敞は、宋由に言う。「劉暢の死因を、きちんと捜査したい」と。宋由はゆるした。竇憲が劉暢を殺したと、バレた。竇太后は怒った。竇憲を、内宮に閉じ込めた。竇憲は、誅されるのを懼れた。竇憲は匈奴に出撃して、死をつぐなう。
088年冬、護羌校尉の鄧訓が、小月氏胡を守る
088年冬10月乙亥、竇憲を車騎將軍とし、北匈奴を伐たせる。執金吾の耿秉は、竇憲の副将だ。北軍五校、黎陽、雍營を発し、緣邊にある12郡の騎士と、羌族と胡族の兵が、出塞した。
公卿は、もと張掖太守の鄧訓をあげ、張紆に代えて護羌校尉とした。
鄧訓は小月氏胡を、護羌校尉の役所に入れて守った。迷唐の1万騎を退けた。小月氏胡は、鄧訓を支持した。鄧訓は、湟中の秦族、胡羌の兵4千を出塞させ、迷唐を破った。迷唐は、離散した。101225