表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

025年夏、劉秀が皇帝となる

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

025年春、更始帝は孺子嬰を斬り、赤眉に敗れる

世祖光武皇帝上之上建武元年(乙酉,公元二五年) 春,正月,方望與安陵人弓林共立前定安公嬰為天子,聚黨數千人,居臨涇。更始 遣丞相松等擊破,皆斬之。 鄧禹至箕關,擊破河東都尉,進圍安邑。
赤眉二部俱會弘農。更始遣討難將軍蘇茂拒之;茂軍大敗。赤眉眾遂大集,乃分萬 人為一營,凡三十營。三月,更始遣丞相松與赤眉戰於{艸務}鄉,松等大敗,死者三萬 餘人。赤眉遂轉北至湖。

025年春正月、方望安陵の弓林は、ともにさきの定安公の劉嬰を天子とした。臨涇(安定)にいる。更始帝の丞相・李松は、劉嬰らを斬った。
鄧禹は箕關にきて、河東都尉をやぶり、安邑(河東)をかこむ。

ぼくは補う。025年、劉秀は河内に寇恂を置いて補給させ、鄧禹を関中に見送った。

赤眉の2部は、弘農にいる。更始帝は命じ、討難將軍の蘇茂が赤眉を防ぐが、大敗した。赤眉は1万人を1営に再編し、30営ある。025年3月、更始帝は命じ、丞相の李松は赤眉と戦う。ボウ郷(弘農)で、李松は大敗し、3万余人が死ぬ。赤眉は北にゆき、至湖に到る。

025年夏、公孫述が天子を称す

蜀郡功曹李熊說公孫述宜稱天子。夏,四月,述即帝位,號成家,改元龍興;以李 熊為大司徒,述弟光為大司馬,恢為大司空。越巂任貴據郡降述。

蜀郡の功曹・李熊は、公孫述に説いた。「天子を称せ」と。025年夏4月、公孫述は帝位に即く。

ぼくは思う。すごく早いし、手続がカンタン。前漢や莽新を正当化する宗教はよわく、後漢を正当化する儒教は、ガチガチに成立していたことを伺えると思う。だから、曹丕みたいに、禅譲が遅くなった。「後漢がはじめての儒教国家」は、ホントウかも知れない。
もしくは、莽新というクッションを置いて、劉氏でない人も天子になりやすい。

成家と号し、龍興と改元した。李熊を大司徒とし、弟の公孫光を大司馬とし、公孫恢を大司空とした。越巂の任貴が、越巂郡に拠り、公孫述に降る。

李賢はいう。成都で起つから、成家と号した。胡三省はいう。ときに公孫述の府に、龍があらわれたから、年号は龍興だ。王莽の天鳳3年、任貴は越巂にきた。
ぼくは思う。三公のうち2人が、天子の弟。ミニ国家だよ、こりゃ。


025年夏、馮異と寇恂が、洛陽に迫る

蕭王北擊尤來、大槍、五幡於元氏,追至北平,連破之;又戰於順水北,乘勝輕進, 反為所敗。王自投高岸,遇突騎王豐下馬授王,王僅而得免。散兵歸保范陽。軍中不見 王,或雲已歿,諸將不知所為,吳漢曰:「卿曹努力!王兄子在南陽,何憂無主!」眾 恐懼,數日乃定。賊雖戰勝,而憚王威名,夜,遂引去。大軍復追至安次,連戰,破之。 賊退入漁陽,所過虜掠。強弩將軍陳俊言於王曰:「賊無輜重,宜令輕騎出賊前,使百 姓各自堅壁以絕其食,可不戰而殄也。」王然之,遣俊將輕騎馳出賊前,視人保壁堅完 者,敕令固守;放散在野者,因掠取之。賊至,無所得,遂散敗。王謂俊曰:「困此虜 者,將軍策也。」

劉秀は北へゆき、元氏(常山)で、尤來、大槍、五幡を撃つ。北平(中山)に追い、連破した。順水(徐水)の北に乗りこみ、劉秀は敗れた。劉秀は、高岸から飛びおりる。たまたま突騎の王豐が下馬し、劉秀に馬を授けた。ぎりぎり劉秀は逃げた。散った兵は、范陽(涿郡)で集まる。軍中に劉秀がおらず、死んだかと思われた。吳漢は言った。「諸将は努力せよ。劉秀の兄の子は、南陽にいる。主君がいないと、憂うな」と。軍は恐懼したが、數日して定まる。

胡三省はいう。劉縯の子、劉章と劉興である。ぼくは思う。劉秀の戦功は、史家の脚色。実際は、呉漢に「なるほど、死んでも仕方ないなあ」と思わせる程度の腕前。呉漢は、「劉秀が、死ぬわけない。出てくるのを待て」とは、言わない。

賊は勝ったが、劉秀の威名に憚り、夜に去った。安次(渤海)で、賊を破る。賊は漁陽にひく。強弩將軍の陳俊は、劉秀に言った。「賊は輜重がない。先に輕騎を出し、百姓に食糧を守らせれば、戦わなくても、賊は食えずに滅びる」と。劉秀は、陳俊に先ぶれさせた。成功した。劉秀は言う。「これは陳俊将軍の策である」と。

馮異遺李軼書,為陳禍福,勸令歸附蕭王;軼知長安已危,而以伯升之死,心不自 安,乃報書曰:「軼本與蕭王首謀造漢,今軼守洛陽,將軍鎮孟津,俱據機軸,千載一 會,思成斷金。唯深達蕭王,願進愚策以佐國安民。」軼自通書之後,不復與異爭鋒, 故異得北攻天井關,拔上黨兩城,又南下河南成皋以東十三縣,降者十餘萬。武勃將萬 餘人攻諸畔者,異與戰於士鄉下,大破,斬勃;軼閉門不救。異見其信效,具以白王。 王報異曰:「季文多詐,人不能得其要領。今移其書告守、尉當警備者。」眾皆怪王宣 露軼書;硃鮪聞之,使人刺殺軼,由是城中乖離,多有降者。

劉秀の将・馮異は、洛陽を守る更始帝の将・李軼に手紙を書いた。劉秀に降れと。李軼は、劉縯を殺したから、劉秀に降れない。馮異に返書した。「もとは私(李軼)は、劉秀をトップにしたい。いま私は洛陽を守る。馮異は孟津に鎮せ。2人で心を合わせて連携しよう。私の策が、劉秀の佐國安民に役立つといい」と。李軼は、もう馮異と戦わず。ゆえに馮異は、北の天井關(上党)を攻められた。上黨の2城をぬき、南に河南の成皋をぬき、東に13県を陥とせた。武勃と馮異は、士郷(河南)で戦った。馮異は武勃を斬るが、李軼は閉門して、武勃を救わず。
馮異は劉秀に言った。「李軼は信じられる」と。劉秀は馮異に言った。「李軼は詐りが多い。李軼を警戒せよ」と。劉秀の文書が封されないから、みな怪しむ。朱鮪はこれを聞き、李軼を殺した。洛陽の人は、多く劉秀に降る。

ぼくは思う。劉秀の本領は、アジテーター。戦さは弱いけど。兄・劉縯を殺されたことを、絶対に許さない。不利な河北で、ギリギリ独立に踏み切ったのは、更始帝への怨みである。天下国家の話でない。結果、後漢の歴史は、私怨の応報である。


硃鮪聞王北征而河內孤,乃遣其將蘇茂、賈強將兵三萬餘人渡鞏河,攻溫;鮪自將 數萬人攻平陰以綴異。檄書至河內,寇恂即勒軍馳出,並移告屬縣,發兵會溫下。軍吏 皆諫曰:「今洛陽兵渡河,前後不絕。宜待眾軍畢集,乃可出也。」恂曰:「溫,郡之 籓蔽,失溫則郡不可守。」遂馳赴之。旦日,合戰,而馮異遣救及諸縣兵適至,恂令士 卒乘城鼓噪大呼,言曰:「劉公兵到!」蘇茂軍聞之,陳動。恂因奔擊,大破之。馮異 亦渡河擊硃鮪,鮪走;異與恂追至洛陽,環城一匝而歸。自是洛陽震恐,城門晝閉。

更始帝の部将・硃鮪は、劉秀が北征し、河内が孤立すると聞き、蘇茂と賈強に3万をつけた。鞏河(河南)を渡り、温県(河内)を攻めた。みずから朱鮪は平陰(河南)を攻め、馮異の後にピッタリつく。

胡三省はいう。綴とは、連綴することを言う。ピッタリと、追跡したのか。

朱鮪の檄書が、河内の寇恂にとどく。寇恂は馳せ出て、河内の属県にふれ、温県に兵を集める。軍吏は、寇恂を諌めた。「いま洛陽にむかう兵(馮異)は、黄河を渡る。渡り終わるのを待って、更始帝の軍をふせぎ、温県を救え」と。寇恂は言った。「温県は、郡の籓蔽だ。温県を失えば、河内郡を守れない」と。朝、寇恂は温県で戦う。
洛陽から、馮異がきた。寇恂は鼓噪・大呼させた。「劉秀の兵がきた」と。更始帝の部将・蘇茂を、大破した。ふたたび馮異は、黄河を渡り、硃鮪を敗走させた。馮異と寇恂は朱鮪を追い、ぐるりと洛陽をかこむ。洛陽は震恐し、城門を閉じた。

025年夏、劉秀が皇帝をことわる

異、恂移檄上狀,諸將入賀,因上尊號。將軍南陽馬武先進曰:「大王雖執謙退, 奈宗廟社稷何!宜先即尊位,乃議征伐。今此誰賊而馳騖擊之乎?」王驚曰:「何將軍 出此言!可斬也!」乃引軍還薊。復遣吳漢率耿弇、景丹等十三將軍追尤來等,斬首萬 三千餘級,遂窮追至浚靡而還。賊散入遼西、遼東,為烏桓、貊人所鈔擊略盡。

馮異と寇恂は、洛陽の状況を報告した。諸将は祝賀し、劉秀に尊號をたてまつる。將軍する南陽の馬武は言う。「劉秀は謙退するが、宗廟の社稷をどうするか。先に尊位に即き、征伐を議せ。いま主君いなければ、誰が賊だか判定できない」と。劉秀は驚いた。「馬武將軍は、何を言うか。斬るぞ」と。劉秀は、薊県にもどる。
吳漢に、耿弇と景丹ら13将軍をつけ、尤來を追った。浚靡(右北平)に尤來を追いつめた。尤來ら賊は散り、遼西や遼東に入った。烏桓や貊人に鈔擊された。

ぼくは思う。烏桓に救われた袁尚たちが、イレギュラーだ。袁紹の徳!


都護將 軍賈復與五校戰於真定,復傷瘡甚。王大驚曰:「我所以不令賈復別將者,為其輕敵也。 果然,失吾名將!聞其婦有孕,生女邪,我子娶之;生男邪,我女嫁之;不令其憂妻子 也。」復病尋愈,追及王於薊,相見甚歡。

都護將軍の賈復は、五校と真定で戦い、ひどく傷ついた。劉秀は驚いた。「私が賈復に別軍を任せなかったのは、賈復が敵を軽んじたからだ。果たして、傷ついた。私は名将を失う。賈復の妻は、身ごもるという。もし賈復の娘が生まれたら、私の子が娶りたい。もし賈復の子が生まれたら、私の子が嫁ぎたい。賈復の妻子が、憂うことのないように」と。

ぼくは思う。さすが光武帝の口八丁。口で人心をつかみ、天下をとった皇帝!

賈復は傷が癒えた。賈復は劉秀を追い、薊県にゆく。再会を歡んだ。

還至中山,諸將復上尊號;王又不聽。行到 南平棘,諸將復固請之;王不許。諸將且出,耿純進曰:「天下士大夫,捐親戚,棄土 壤,從大王於矢石之間者,其計固望攀龍鱗,附鳳翼,以成其所志耳。今大王留時逆眾, 不正號位,純恐士大夫望絕計窮,則有去歸之思,無為久自苦也。大眾一散,難可復 合。」純言甚誠切,王深感曰:「吾將思之。」

劉秀は中山にもどる。ふたたび諸将は、尊號をたてまつる。劉秀は聽さず。南平棘(常山)にゆき、また尊号を断る。諸將が出るとき、耿純は言った。「天下の士大夫が、親戚や土壌をすて、劉秀に従い、戦さをするのはなぜか。皇帝に仕え、志をとげたいからだ。劉秀が士大夫に逆らい、号位を正さねば、士大夫は故郷にかえる。いちど士大夫が離れたら、もう集まらない」と。寇恂が誠切に言うから、劉秀は深く感じて言った。「私も、いま、そう思ったところだ」と。

025年夏6月、劉秀が皇帝となる

行至鄗,召馮異詣鄗,問四方動靜。異曰:「更始必敗,宗廟之憂在於大王,宜從 眾議!」會儒生強華自關中奉《赤伏符》來詣王曰:「劉秀髮兵捕不道,四夷雲集龍斗 野,四七之際火為主。」

劉秀は鄗県(常山)にゆく。馮異を召し、四方の動靜を問う。馮異は言った。「更始帝は、必ず敗れる。宗廟の憂は、劉秀にある。眾議に従え」と。

ぼくは思う。更始帝は、敗れていない。見切りの即位だ。王莽が滅びて、2年目だ。早いなあ。袁紹や袁術の領土と比べたとき、どっちが大きいだろうか。袁紹や袁術の「見切り発車」は、咎めるべきでない。光武帝のほうが、よほどセッカチだ。

ちょうど儒生の強華は、関中から《赤伏符》をもってきた。強華は、劉秀に言う。「劉秀は、兵を発して、不道を捕えた。四夷は雲集し、龍は野に斗す。四七の際に、火は主となる」と。

胡三省はいう。四七とは、28だ。高祖から劉秀の挙兵まで、228年だ。ゆえに四七という。漢は火徳なので、火が主と言った。いまぼくは28歳だから、誕生日に、光武帝をやると決めた。これが、本ページをやる理由でもある。どうでもいい。すみません。


群臣因復奏請。六月,己未,王即皇帝位於鄗南;改元,大赦。

群臣は、また奏請した。025年6月己未、蕭王の劉秀は、皇帝の位に、鄗南で即いた。建武と改元して、大赦した。(つづく)

『考異』はいう。光武本紀では、馮異が蘇茂をやぶり、諸将が尊号をたてまつり、劉秀が薊県にかえるのは、4月より前だ。だが馮異伝で、馮異と李軼の文書を見ると、赤眉が長安を乱したあとだ。また光武帝に尊号を勧める文書に、「三王が叛き、更始帝は敗亡した」とある。025年6月己未に、光武帝が即位したとすると。この6月甲子に、鄧禹が王匡を、安邑でやぶる。王匡と張卬らは、長安にもどり、更始帝を劫略する。それなら三王が叛いたのは、光武帝が即位した後となる。夏秋がまざる。馮異はどうして4月の前に、赤眉が長安を乱したと言ったか。史家が、馮異の発言を潤色したと言う人もいる。食い違うことだ。