026年春、鄧禹と呉漢を県に封ず
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
026年正月、洛陽と北辺をつなぐ
春,正月,甲子朔,日有食之。
劉恭知赤眉必敗,密教弟盆子歸璽綬,習為辭讓之言。及正旦大會,恭先曰:「諸 君共立恭弟為帝,德誠深厚!立且一年,殽亂日甚,誠不足以相成,恐死而無益,願得 退為庶人,更求賢知,唯諸君省察!」樊崇等謝曰:「此者崇等罪也。」恭復固請,或 曰:「此寧式侯事邪?」恭惶恐起去。盆子乃下床解璽綬,叩頭曰:「今設置縣官而為 賊如故,四方怨恨,不覆信向,此皆立非其人所致。願乞骸骨,避賢聖路!必欲殺盆子 以塞責者,無所離死!」因涕泣噓唏。崇等及會者數百人,莫不哀憐之,乃皆避席頓首 曰:「臣無狀,負陛下,請自今已後,不敢復放縱!」因共抱持盆子,帶以璽綬;盆子 號呼,不得已。既罷出,各閉營自守。三輔翕然,稱天子聰明,百姓爭還長安,市裡且 滿。後二十餘日,復出,大掠如故。
026年春正月甲子ついたち、日食あり。
劉恭は、赤眉が必ず敗れると知り、ひそかに弟の劉盆子に璽綬を返還させた。樊崇らは、許さず。劉盆子が、帝位がイヤだとゴネたので、長安の赤眉は大人しくなった。20日後、また赤眉は大掠を再開した。
『後漢書』劉盆子を抄訳、青州黄巾の性質がわかる列伝 (2)
帝遣吳漢率王梁等九將軍擊檀鄉於鄴東漳水上,大破之,十餘萬眾皆 降。又使梁與大將軍杜茂將兵安輯魏郡、清河、東郡,悉平諸營保,三郡清靜,邊路流 通。
刁子都は、部曲に殺された。余党は、檀鄉(兗州)の賊となる。魏郡と清河を寇す。魏郡の大吏・李熊と、弟の李陸は、謀反した。檀鄉の賊を迎え入れた。ある人は、魏郡太守する穎川の銚期は、李熊を服させた。
呉漢は王梁をひきい、檀鄉を破った。王梁と、大將軍の杜茂は、魏郡、清河、東郡を安輯した。3郡は清靜となり、邊路は流通した。
026年正月、社稷と宗廟をまつる
正月庚辰、功臣を列侯に封じた。梁侯の鄧禹と、廣平侯の吳漢は、4県を食む。博士の丁恭が、鄧禹と呉漢に、県を与えるなと言った。光武帝は言った。「古代に滅亡した国は、無道のせいだ。功臣の土地が大きいから、滅亡した国はない」と。
陰鄉侯の陰識は、陰麗華の兄だ。陰識は、叩頭して辞退した。「親類だから、爵邑を増やしたらいけない」と。光武帝は従う。
諸将は、収入の多い県を希望した。河南太守する穎川の丁綝だけ、故郷を求めた。ある人が、理由を聞いた。「功績があれば、故郷を豊かにできる」と。光武帝は認めた。丁綝を、新安鄉侯とした。
郎中する魏郡の馮勤は、諸侯の封事について、検討させた。功績の大小、国土の遠近、地勢の豐薄を、ちょうどよく配分した。光武帝は馮勤に、尚書の仕事をすべて任せた。故事では、尚書郎は、令史を長く経験してから、就くものだった。はじめて光武帝は、孝廉を用いて、尚書郎とした。
高廟を洛陽に立て、四時に、高祖、太宗、世宗を合祀した。社稷を宗廟の右に立てた。郊兆を城南に立てた。
026年正月、鄧禹が前漢の神主をおさめる
長安の城中は、食糧が尽きた。赤眉は100万と号し、南山から城邑にゆく。安定や北地に入る。鄧禹は、南へ長安にゆく。鄧禹は昆明池にきて、高廟に謁祠した。11帝の神主(木札)をおさめ、洛陽に送る。鄧禹は、園陵に巡行した。吏士を置き、園陵を奉守させる。
真定王の劉楊は、図讖を造った。「赤九の後、癭楊が主となる」と。劉楊は、癭を病むから、みずから主となる。光武帝は、前將軍の耿純に平定させた。
『後漢書』耿純伝を抄訳、車1台で河北平定する光武帝を、支えた信者 (2)
026年2月、鮑永、王梁、宋弘、光武帝に逆らう
鮑永、馮衍審知更始已亡,乃發喪,出儲大伯等,封上印綬,悉罷兵,幅巾詣河內, 帝見永,問曰:「卿眾安在?」永離席叩頭曰:「臣事更始,不能令全,誠慚以其眾幸 富貴,故悉罷之。」帝曰:「卿言大。」而意不悅。既而永以立功見用,衍遂廢棄。永 謂衍曰:「昔高祖賞季布之罪,誅丁固之功;今遭明主,亦何憂哉!」衍曰:「人有挑 其鄰人之妻者,其長者罵而少者報之。後其夫死,取其長者。或謂之曰:『夫非罵爾者 邪?』曰:『在人欲其報我,在我欲其罵人也!』夫天命難知,人道易守,守道之臣, 何患死亡!」
026年2月己酉、光武帝は修武(河内)へゆく。
鮑永と馮衍は、更始帝が死んだと知った。喪を発した。儲大伯らを出し、印綬を封じて返上した。軍兵を解除し、幅巾をかぶって河内にゆく。
光武帝は鮑永に問うた。「鮑永の軍兵はどこか」と。鮑永は席を離れ、叩頭した。「私は更始帝に仕えたが、更始帝を死なせた。そのくせ、私が軍兵をもち富貴となることを慚じ、軍兵を解除した」と。光武帝は鮑永をほめつつ、悦ばず。
鮑永は功績があるから、光武帝が用いた。馮衍は用いず。
鮑永は馮衍にいう。「むかし高祖は、季布の罪をほめ、丁固の功を誅した。天命は知りがたいが、人道は守りやすい。守道の臣は、死亡を患わない」と。
大司空の王梁は、しばしば光武帝に逆らう。光武帝は怒る。
尚書の宗廣は持節して、軍中で王梁を斬りたい。王梁は京師に檻車で送られた。赦され、中郎將となる。北で箕關(河東)を守る。
湖陽公主新寡, 帝與共論朝臣,微觀其意。主曰:「宋公威容德器,群臣莫及。」帝曰:「方且圖之。」 後弘被引見,帝令主坐屏風後,因謂弘曰:「諺言『貴易交,富易妻,』人情乎?」弘 曰:「臣聞貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂。」帝顧謂主曰:「事不諧矣!」
2月壬子、太中大夫する京兆の宋弘は、大司空となる。宋弘は、沛國の桓譚を光武帝に薦め、議郎、給事中となる。光武帝は、桓譚が鼓琴がうまいので、その音色を愛した。宋弘は悦ばず。宋弘は冠をぬぎ、光武帝に抗議した。「私が桓譚を薦めたのは、忠正で君主を導けるからだ。音色で朝廷をにぎやかすためではない」と。光武帝は顔色を改め、宋弘に謝った。
光武帝の姉・湖陽公主は、夫をさがす。朝臣は言った。「宋弘は、威容・德器だ。郡臣で一番いい」と。のちに光武帝は、宋弘と引見した。公主は、屏風の後ろで見ている。光武帝は宋弘に言った。「貴くなれば、交際を変える。富めば、妻を変えるという。これが人情かな」と。宋弘は言った。「貧賤の気持ちは忘れず、糟糠の妻は離縁しない」と。光武帝は公主を顧みて言った。「夫は、宋弘でいいだろ」と。(つづく)