表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

026年冬、赤眉が解散する

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

026年11月、鄧禹と馮異を代える

冬,十一月,以廷尉岑彭為征南大將軍。帝於大會中指王常謂群臣曰:「此家率下 江諸將輔翼漢室,心如金石,真忠臣也!」即日,拜常為漢忠將軍,使與岑彭率建義大 將軍硃祜等七將軍討鄧奉、董□。彭等先擊堵鄉,鄧奉救之。硃祜軍敗,為奉所獲。 銅馬、青犢、尤來餘賊共立孫登為天子。登將樂玄殺登,以其眾五萬餘人降。

026年冬11月、廷尉の岑彭は、征南大將軍となる。光武帝は、郡臣の前で、王常を指差して言う。「王常は、下江の諸將をひきい、漢室を輔翼した。心は金石のようだ。真の忠臣だ」と。即日、王常は漢忠將軍となる。王常と岑彭は、建義大 將軍の硃祜ら7将軍をひきい、堵郷の賊・鄧奉、董ソを撃つ。硃祜は破れ、捕われた。
銅馬、青犢、尤來の余賊は、孫登を天子とした。孫登は、部将の樂玄に殺された。

鄧禹自馮愔叛後,威名稍損,又乏糧食,戰數不利,歸附者日益離散。赤眉、延岑 暴亂三輔,郡縣大姓各擁兵眾,禹不能定。帝乃遣偏將軍馮異代禹討之,車駕送至河南, 敕異曰:「三輔遭王莽、更始之亂,重以赤眉、延岑之酷,元元塗炭,無所依訴。將軍 今奉辭討諸不軌,營保降者,遣其渠帥詣京師;散其小民,令就農桑;壞其營壁,無使 復聚。征伐非必略地、屠城,要在平定安集之耳。諸將非不健鬥,然好虜掠。卿本能御 吏士,念自修敕,無為郡縣所苦!」異頓首受命,引而西,所至布威信,群盜多降。

鄧禹は、馮愔に反されてから、威名が損じた。赤眉に負けるから、歸附する人は、日に日に離散した。赤眉と延岑は、三輔を 暴亂する。郡縣の大姓を、鄧禹は定められない。光武帝は、偏將軍の馮異を、鄧禹に代えたい。光武帝は、馮異を河南に見送った。馮異は、頓首して受命し、西にゆく。馮異の威信が広がり、おおく群盜は降る。

司馬光はいう。王者なら、戦わずに、威德を布陳し、安民すべきだ。光武帝が鄧禹をクビにし、関中に馮異を送ったのは、王者のやり方である。すばらしいなあ。
ぼくは、鄧禹を応援していたから、ちょっと残念ですが。


又詔征鄧禹還,曰:「慎毋與窮寇爭鋒!赤眉無谷,自當來東。吾以飽待饑,以逸 待勞,折棰笞之,非諸將憂也。無得復妄進兵!」

鄧禹を呼びもどした。鄧禹は光武帝に言った。「赤眉は食糧がなく、今にも東へ帰ろうとした。私(鄧禹)は、赤眉が自壊するのを、待っていた。私に任せておけばよかった。なぜ妄りに、馮異の軍を進ませたんだ」と。

ぼくは思う。鄧禹も、いい加減なこと言うなあ。しかし、正しいのかどうか、判定できない。馮異が、余計な戦闘を起こしたら、鄧禹が正しいことになるか。
いちおう補うと、赤眉は、東の果て、青州の出身。樊崇がムリに関中に押しこんだ。


帝以伏隆為光祿大夫,復使於張步,拜步東萊太守,並與新除青州牧、守、都尉俱 東。詔隆輒拜令、長以下。

光武帝は、伏隆を光祿大夫とした。張步を東萊太守とした。新たに除した青州の牧守、都尉とともに、張歩を東に行かせた。伏隆は令長より以下となる。

026年12月、赤眉が関中を去る

十二月,戊午,詔宗室列侯為王莽所絕者,皆復故國。 三輔大饑,人相食,城郭皆空,白骨蔽野,遺民往往聚為營保,各堅壁清野。赤眉 虜掠無所得,乃引而東歸,眾尚二十餘萬,隨道復散。帝遣破奸將軍侯進等屯新安,建 威大將軍耿弇等屯宜陽,以要其還路,敕諸將曰:「賊若東走,可引宜陽兵會新安;賊 若南走,可引新安兵會宜陽。」馮異與赤眉遇於華陰,相拒六十餘日,戰數十合,降其 將卒五千餘人。

026年12月戊午、宗室や列侯で、王莽が絶やした人を復す。
三輔は大饑した。赤眉20余万は、東に帰る。道中で散った。光武帝は命じ、破奸將軍の侯進が、新安(弘農)にいる。建威大將軍の耿弇らは、宜陽(弘農)にいる。「赤眉が東にゆけば、宜陽の兵は、新安にゆけ。赤眉が南にゆけば、新安の兵は、宜陽にゆけ」と命じた。馮異と赤眉は、華陰で会った。60余日、馮異が赤眉をふせぎ、5千余人を降した。110104

ぼくは思う。026年で、赤眉は終了です。