026年夏、南陽郡を平定する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
026年2月、漁陽の彭寵が、光武帝に反す
光武帝が王郎を討つとき。彭寵は、突騎を発して助けた。光武帝が銅馬を薊県に追うとき。彭寵は功績をほこり、光武帝は不快だ。光武帝が即位したとき。吳漢と王梁は、彭寵が連れてきたのに、彭寵は三公になれず。彭寵は志を得ず、「私が王になろう。陛下は、私(彭寵)を忘れたのか」と言った。
このとき北州は破散した。だが漁陽は破散しない。ふるい鐵官がいて、彭寵は、穀物を貿易し、珍寶をつんだ。ますます彭寵は、富強となる。
幽州牧の硃浮は、若いが、士の心をつかむ。莽新のとき、つねに故吏・二千石に辟召された。彭寵は天下が定まらず、軍費がかかるから、幽州の官属を増やしたくない。彭寵は、幽州牧の朱浮の命令を聞かず。朱浮は、「彭寵が兵数と穀物を集めた」と密奏した。光武帝は、彭寵に朱浮の密奏を聞かせ、彭寵を脅恐させた。
彭寵は、2万余人をひきい、朱浮を薊県に攻めた。彭寵が見るに、耿況は重功があるが、恩賞がうすい。彭寵は耿況を誘ったが、耿況は光武帝にそむかず。耿況は、彭寵の使者を斬った。
ふたたび延岑が反し、南鄭(漢中)を囲む。漢中王の劉嘉は、敗走した。延岑は漢中に拠り、武都に進む。更始帝の柱功侯・李寶に破られ、延岑は天水ににげた。
公孫述は、侯丹に南鄭を取らす。劉嘉の兵・數萬人を得た。延岑は、李寶を相とし、武都から南へゆき、南鄭の侯丹を攻めた。侯丹が勝ち、延岑を陳倉(扶風)まで追いはらう。公孫述は命じ、將軍の任滿は、閬中から江州を下り、東は扞關に拠る。公孫述は、すべて益州の地をえた。
026年3月、更始帝の郾県をくだす
更始諸大將在南方未降者尚多。帝召諸將議兵事,以檄叩地曰:「郾最強,宛為次, 誰當擊之?」賈復率然對曰:「臣請擊郾。」帝笑曰:「執金吾擊郾,吾復何憂!大司 馬當擊宛。」遂遣復擊郾,破之;尹尊降。又東擊更始淮陽太守暴汜,汜降。
2月辛卯、光武帝は洛陽にもどる。3月乙未、大赦した。
更始の諸大將は、南方で光武帝に降らない人がおおい。光武帝は、地を叩いて檄した。「郾県が最強で、宛県がつぎに強い。誰がこれを撃つか」と。賈復は言った。「私が郾県を撃つ」と。光武帝は笑い、「執金吾(賈復)なら、安心だ。宛県は大司馬(呉漢)が撃て」と言った。
賈復は郾県を破り、尹尊を降す。また賈復は東へゆき、更始帝の淮陽太守・暴汜を降した。
026年4月、正式に更始帝の後継となる
026年夏4月、虎牙大將軍の蓋延は、駙馬都尉の馬武ら4将軍をひきい、劉永を破った。劉永を睢陽にかこむ。更始帝の将・蘇茂が反し、淮陽太守の潘蹇を殺した。蘇茂は廣樂にいて、劉永の臣を称した。劉永は、蘇茂を大司馬、淮陽王とした。
『後漢書』劉永伝:河南の天子、袁紹が曹操をやぶるモデルとなる
鄧王王常降,帝見之甚歡,曰:「吾見王廷尉,不憂南方矣!」拜為左曹,封山桑 侯。
吳漢は、宛県を撃つ。宛王の劉賜は、更始帝の妻子をつれて、洛陽に降る。劉賜を慎(汝南)侯とする。叔父の劉良、族父の劉歙、族兄の劉祉は、みな長安に来た。3月甲午、劉良を廣陽王とし、劉祉を城陽王とする。光武帝は、兄・劉縯の子、劉章を太原王とし、劉興を魯王とする。更始帝の3人の子、劉求、劉歆、劉鯉を、みな列侯とした。
鄧王の王常は降る。光武帝はひどく歡んだ。「廷尉の王常に会えば、もう南方を憂わない」と。王常を左曹とし、山桑侯に封じた。
026年5月、郭皇后を立てる
026年5月庚辰、族父の劉歙を、泗水王とした。
貴人の陰麗華は、雅性・寬仁だから、皇后にしたい。貴人の郭氏に子がいて、陰麗華を皇后にしたくない。6月戊戌、貴人の郭氏を皇后とした。郭皇后の子・劉強を、皇太子とした。大赦した。
『後漢書』郭皇后紀を抄訳、初期の後漢は、河北の真定王家の王朝
5月丙午、泗水王の子・劉終を、淄川王とした。(つづく)