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026年秋、劉永を降し、河南平定

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

026年秋、賈復と寇恂の内輪げんか

秋,賈復南擊召陵、新息,平之。後部將殺人於穎川,穎川太守寇恂捕得,系獄。 時尚草創,軍營犯法,率多相容,恂戮之於市。復以為恥,還,過穎川,謂左右曰: 「吾與寇恂並列將帥,而為其所陷,今見恂,必手劍之!」恂知其謀,不欲與相見。

026年秋、賈復は南へゆき、召陵(汝南)、新息(汝南)を平らぐ。賈復の後部の部将が、潁川で殺人した。穎川太守の寇恂は、賈復の部将を、獄につなぐ。賈復は恥じて言った。「つぎに寇恂に会ったら、この手で切り殺す」と。寇恂は、賈復の謀を知り、賈復に会わず。

姊 子谷崇曰:「崇,將也,得帶劍侍側。卒有變,足以相當。」恂曰:「不然,昔藺相如 不畏秦王而屈於廉頗者,為國也。」乃敕屬縣盛供具,儲酒醪,執金吾軍入界,一人皆 兼二人之饌。恂出迎於道,稱疾而還。復勒兵欲追之,而吏士皆醉,遂過去。恂遣谷崇 以狀聞,帝乃征恂。恂至,引見;時賈復先在坐,欲起相避。帝曰:「天下未定,兩虎 安得私鬥!今日朕分之。」於是並坐極歡,遂共車同出,結友而去。

寇恂の姊の子・谷崇は、寇恂に言う。「私が剣をもち、そばにいます。賈復が切りかかったら、私が賈復を切る」と。寇恂は言った。「賈復を切ってはいけない。国のためにならない」と。
執金吾(賈復)が、潁川に入った。寇恂は、賈復に会わず。光武帝は、賈復と寇恂を叱った。「天下が定まらないのに、両虎は私闘している場合か。私が仲裁する」と。賈復と寇恂は、同じ車にのる友人となった。

ぼくは思う。光武帝は、刑罰をちゃんと執行した、寇恂をほめるわけでもない。賈復は強くて、有用だから。創業期だから、刑罰よりも、強い将軍が大切だ。


026年8月、劉永を降し、青州と徐州がなびく

  八月,帝自率諸將征五校。丙辰,幸內黃,大破五校於B111陽,降其眾五萬人。 帝遣游擊將軍鄧隆助硃浮討彭寵。隆軍潞南,浮軍雍奴,遣吏奏狀。帝讀檄,怒, 謂使吏曰:「營相去百裡,其勢豈可得相及!比若還,北軍必敗矣。」彭寵果遣輕兵擊 隆軍,大破之;浮遠,遂不能救。

026年8月、みずから光武帝は諸將をひきい、五校の賊を征す。8月丙辰、內黃(魏郡)にきた。五校を魏郡で破る。
游擊將軍の鄧隆は、幽州牧の硃浮を助けて、漁陽の彭寵を撃つ。鄧隆は潞県(漁陽)の南に、朱浮は雍奴(漁陽)に陣どる。鄧隆が、報告した。光武帝は、陣容を読み、怒った。「鄧隆と朱浮は、100里も離れている。遠すぎて、助け合えない。きみ(報告の使者)がもどるころ、鄧隆と朱浮は、彭寵に敗れているだろう」と。光武帝の言うとおりになった。

ぼくは思う。光武帝は、突騎をかりて王郎を殺した。だが突騎が、反した。突騎は強いから、勝てない。ありがちな話だが、超やばいのではないか。いま光武帝は、敗戦を見通したが。こんなの、脚色だ。敗戦の事実だけじゃ、史書が不恰好だ。だからせめて、見通した話をつくった。事実は変わらないから、許される。


蓋延圍睢陽數月,克之。劉永走至虞,虞人反,殺其母、妻;永與麾下數十人奔譙。 蘇茂、佼強、周建合軍三萬餘人救永;延與戰於沛西,大破之。永、強、建走保湖陵, 茂奔還廣樂;延遂定沛、楚、臨淮。

光武帝の部将・蓋延は、睢陽を数ヶ月かこみ、勝った。劉永は虞県(梁国)に逃げた。虞県の人は、劉永の母と妻を殺した。劉永は、譙県(沛郡)に逃げる。蘇茂、佼強、周建は、3万で劉永を救う。蓋延は沛の西で、劉永を大破した。劉永は、湖陵(山陽)に逃げた。蓋延は、沛郡、楚郡、臨淮を平定した。

ぎゃくに今まで、沛郡、楚郡、臨淮は劉永の支配。光武帝は持たず。


帝使太中大夫伏隆持節使青、徐二州,招降郡國。青、徐群盜聞劉永破敗,皆惶怖 請降。張步遣其掾孫昱隨隆詣闕上書,獻鰒魚。隆,湛之子也。 堵鄉人董□反宛城,執南陽太守劉□鄰。揚化將軍堅鐔攻宛,拔之;□走還堵鄉。 吳漢徇南陽諸縣,所過多侵暴。破虜將軍鄧奉謁歸新野,怒漢掠其鄉里,遂反,擊 破漢軍,屯據淯陽,與諸賊合從。

太中大夫の伏隆は、持節して、青州と徐州をまわり、郡國を招降した。劉永が敗れたと聞き、群盜は光武帝に降った。張步は、掾の孫昱をとともに、伏隆に鰒魚を献じた。伏隆は、伏湛の子だ。
堵鄉の董ソは、宛城に反した。南陽太守の劉リンを捕えた。揚化將軍の堅鐔は、宛城を抜いた。董ソは、堵鄉に逃げかえる。 吳漢は、南陽の諸縣をめぐる。呉漢は通過した諸県で、侵暴した。破虜將軍の鄧奉は、新野で呉漢に謁歸した。呉漢の兵が、郷里を侵暴したから、呉漢を破り、淯陽による。

ぼくは思う。呉漢、ふつーに、ダメじゃん。


026年9月、鄧禹が赤眉に破れ、漢中王を降す

九月,壬戌,帝自內黃還。 陝賊蘇況攻破弘農,帝使景丹討之。會丹薨,征虜將軍祭遵擊弘農、柏華、蠻中賊, 皆平之。

026年9月壬戌、光武帝は內黃(魏郡)から、洛陽にもどる。
陝県の賊・蘇況は、弘農を破った。光武帝は、景丹に蘇況を討たす。たまたま景丹が死んだので、征虜將軍の祭遵が、弘農を撃つ。柏華、蠻中の賊を平らげた。

赤眉引兵欲西上隴,隗囂遣將軍楊廣迎擊,破之;又追敗之於烏氏、涇陽間。赤眉 至陽城番須中,逢大雪,坑谷皆滿,士多凍死。乃復還,發掘諸陵,取其寶貨。凡有玉 匣殮者,率皆如生,賊遂污辱呂後屍。鄧禹遣兵擊之於郁夷,反為所敗。禹乃出之雲陽。 赤眉復入長安。延岑屯杜陵,赤眉將逢安擊之。鄧禹以安精兵在外,引兵襲長安;會謝 祿救至,禹兵敗走。延岑擊逢安,大破之,死者十餘萬人。廖湛將赤眉十八萬攻漢中王 嘉;嘉與戰於谷口,大破之,嘉手殺湛,遂到雲陽就谷。嘉妻兄新野來歙,帝之姑子也。 帝令鄧禹招嘉,嘉因歙詣禹降。李寶倨慢,禹斬之。

赤眉は、西へゆき、隴県(天水)にゆきたい。隗囂は命じ、將軍の楊廣が、赤眉を破る。烏氏(安定)と涇陽(安定)の間で、赤眉を破る。赤眉は、陽城(安定)の番須で、大雪にあって凍死した。赤眉は、諸陵を發掘した。埋葬者が腐ってないから、これを犯した。
鄧禹は、郁夷(扶風)で赤眉に敗れた。鄧禹は、雲陽(馮翊)にゆく。赤眉は、ふたたび長安に入る。延岑は杜陵(京兆)にいて、赤眉の逢安を撃った。鄧禹は、外で兵を休ませ、長安を襲った。鄧禹は、謝祿に敗れた。延岑は、赤眉の逢安を破り、10余万人を殺した。

今さらですが、延岑って、誰だっけ。公孫述の部将?

廖湛は、赤眉18万をひきい、漢中王の劉嘉を攻めた。劉嘉は、谷口(馮翊)で、廖湛を殺した。劉嘉は、雲陽で穀物を手に入れた。劉嘉の妻兄は、新野の來歙である。來歙は、光武帝の姑子だ。光武帝は命じ、鄧禹は劉嘉を招いた。劉嘉は、來歙をたより、鄧禹に降った。李寶は倨慢だから、鄧禹が斬った。

ぼくは思う。鄧禹は、自分で戦ったら負けるくせに。赤眉に勝った、漢中王の劉嘉を降して、戦果を回収した。どこかの魯粛さんも、似たようなものか。