026年秋、劉永を降し、河南平定
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
026年秋、賈復と寇恂の内輪げんか
026年秋、賈復は南へゆき、召陵(汝南)、新息(汝南)を平らぐ。賈復の後部の部将が、潁川で殺人した。穎川太守の寇恂は、賈復の部将を、獄につなぐ。賈復は恥じて言った。「つぎに寇恂に会ったら、この手で切り殺す」と。寇恂は、賈復の謀を知り、賈復に会わず。
寇恂の姊の子・谷崇は、寇恂に言う。「私が剣をもち、そばにいます。賈復が切りかかったら、私が賈復を切る」と。寇恂は言った。「賈復を切ってはいけない。国のためにならない」と。
執金吾(賈復)が、潁川に入った。寇恂は、賈復に会わず。光武帝は、賈復と寇恂を叱った。「天下が定まらないのに、両虎は私闘している場合か。私が仲裁する」と。賈復と寇恂は、同じ車にのる友人となった。
026年8月、劉永を降し、青州と徐州がなびく
026年8月、みずから光武帝は諸將をひきい、五校の賊を征す。8月丙辰、內黃(魏郡)にきた。五校を魏郡で破る。
游擊將軍の鄧隆は、幽州牧の硃浮を助けて、漁陽の彭寵を撃つ。鄧隆は潞県(漁陽)の南に、朱浮は雍奴(漁陽)に陣どる。鄧隆が、報告した。光武帝は、陣容を読み、怒った。「鄧隆と朱浮は、100里も離れている。遠すぎて、助け合えない。きみ(報告の使者)がもどるころ、鄧隆と朱浮は、彭寵に敗れているだろう」と。光武帝の言うとおりになった。
光武帝の部将・蓋延は、睢陽を数ヶ月かこみ、勝った。劉永は虞県(梁国)に逃げた。虞県の人は、劉永の母と妻を殺した。劉永は、譙県(沛郡)に逃げる。蘇茂、佼強、周建は、3万で劉永を救う。蓋延は沛の西で、劉永を大破した。劉永は、湖陵(山陽)に逃げた。蓋延は、沛郡、楚郡、臨淮を平定した。
太中大夫の伏隆は、持節して、青州と徐州をまわり、郡國を招降した。劉永が敗れたと聞き、群盜は光武帝に降った。張步は、掾の孫昱をとともに、伏隆に鰒魚を献じた。伏隆は、伏湛の子だ。
堵鄉の董ソは、宛城に反した。南陽太守の劉リンを捕えた。揚化將軍の堅鐔は、宛城を抜いた。董ソは、堵鄉に逃げかえる。
吳漢は、南陽の諸縣をめぐる。呉漢は通過した諸県で、侵暴した。破虜將軍の鄧奉は、新野で呉漢に謁歸した。呉漢の兵が、郷里を侵暴したから、呉漢を破り、淯陽による。
026年9月、鄧禹が赤眉に破れ、漢中王を降す
026年9月壬戌、光武帝は內黃(魏郡)から、洛陽にもどる。
陝県の賊・蘇況は、弘農を破った。光武帝は、景丹に蘇況を討たす。たまたま景丹が死んだので、征虜將軍の祭遵が、弘農を撃つ。柏華、蠻中の賊を平らげた。
赤眉は、西へゆき、隴県(天水)にゆきたい。隗囂は命じ、將軍の楊廣が、赤眉を破る。烏氏(安定)と涇陽(安定)の間で、赤眉を破る。赤眉は、陽城(安定)の番須で、大雪にあって凍死した。赤眉は、諸陵を發掘した。埋葬者が腐ってないから、これを犯した。
鄧禹は、郁夷(扶風)で赤眉に敗れた。鄧禹は、雲陽(馮翊)にゆく。赤眉は、ふたたび長安に入る。延岑は杜陵(京兆)にいて、赤眉の逢安を撃った。鄧禹は、外で兵を休ませ、長安を襲った。鄧禹は、謝祿に敗れた。延岑は、赤眉の逢安を破り、10余万人を殺した。
廖湛は、赤眉18万をひきい、漢中王の劉嘉を攻めた。劉嘉は、谷口(馮翊)で、廖湛を殺した。劉嘉は、雲陽で穀物を手に入れた。劉嘉の妻兄は、新野の來歙である。來歙は、光武帝の姑子だ。光武帝は命じ、鄧禹は劉嘉を招いた。劉嘉は、來歙をたより、鄧禹に降った。李寶は倨慢だから、鄧禹が斬った。