025年冬、隗囂と竇融が自立する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
025年冬、鄧禹が赤眉の長安を攻めない
赤眉下書曰:「聖公降者,封為長沙王;過二十日,勿受。」更始遣劉恭請降,赤 眉使其將謝祿往受之。更始隨祿,肉袒,上璽綬於盆子。赤眉坐更始,置庭中,將殺之; 劉恭、謝祿為請,不能得,遂引更始出。劉恭追呼曰:「臣誠力極,請得先死!」拔劍 欲自刎。樊崇等遽共救止之。乃赦更始,封為畏威侯。劉恭復為固請,竟得封長沙王。 更始常依謝祿居,劉恭亦擁護之。
025年冬10月癸丑、光武帝は、洛陽に入る。南宮にゆき、洛陽を都と定めた。
赤眉は下書した。「更始帝が赤眉に降れば、長沙王とする。20日間だけ、この文書は有効だ」と。更始帝は、劉恭をおくり、赤眉に降った。赤眉の謝祿が、更始帝を受けいれた。更始帝は、肌脱ぎ、璽綬を劉盆子にわたす。赤眉は、更始帝を殺したい。更始帝は、謝祿に助命され、退出した。
劉恭は、更始帝を呼び止めた。劉恭は剣をぬき、自刎しそうだ。樊崇らは、更始帝を赦し、畏威侯とした。劉恭がつよく願い、更始帝は長沙王となれた。更始帝は、謝祿の居に泊まり、劉恭が更始帝を擁護した。
劉盆子は長樂宮にいる。三輔の郡縣は、赤眉に剽奪された。百姓は、劉盆子に帰さず。百姓は、鄧禹がきたと聞き、1日に1千人が鄧禹に降る。鄧禹の軍に、父老や童稚があつまった。鄧禹の名は、關西を震わす。諸将や豪傑は、鄧禹に長安を攻めろと言う。
鄧禹は言った。「長安は攻めない。私たちは、兵は多いが、戦さは弱い。赤眉は強い。上郡、北地、安定の3郡は、土地が広く、穀物も家畜も豊かだ。北道で兵を休め、赤眉がつかれるのを待つ」と。
鄧禹は栒邑(扶風)にゆく。みな營保・郡邑は、開門して鄧禹につく。
025年12月、赤眉が更始帝を殺す
十二月,丙戌,上還洛陽。 三輔苦赤眉暴虐,皆憐更始,欲盜出之;張卬等深以為慮,使謝祿縊殺之。劉恭夜 往,收藏其屍。帝詔鄧禹葬之於霸陵。中郎將宛人趙熹將出武關,道遇更始親屬,皆裸 跣饑困,熹竭其資糧以與之,將護而前。宛王賜聞之,迎還鄉里。
光武帝は命じ、岑彭が荊州の群賊を撃つ。犨県(南陽)、葉県(南陽)ら10余城をぬく。11月甲午、光武帝は懷県にゆく。
梁王の劉永が、睢陽で皇帝を称す。12月丙戌、光武帝は洛陽にもどる。
三輔は、赤眉の暴虐に苦しむ。みな更始帝を憐み、更始帝を赤眉から盗みたい。赤眉についた張卬らは、謝祿に命じ、更始帝を縊殺した。劉恭は夜に、更始帝の死体をおさめた。光武帝は鄧禹に命じ、更始帝を霸陵に葬る。
中郎將する宛県の趙熹は、武關から出た。たまたま更始帝の親屬に会う。みな裸足で饑困する。趙熹は、更始帝の親属に、食糧を与えて、護衛した。宛王の劉賜は、郷里に送りとどけた。
025年、天水の隗囂が、三輔の士大夫を集める
隗囂は更始帝を見きり、天水に帰った。西州上將軍を自称した。三輔の士大夫が、避亂して隗囂に帰した。隗囂は、三輔からきた士大夫と、対等に付き合う。平陵の范逡、師友とした。
さきに涼州刺史した河南の鄭興を、祭酒とした。茂陵の申屠剛と
杜林を、治書とした。馬援を綏德將軍とした。楊廣、王遵、周宗および、平襄(天水)の行巡、阿陽(天水)の王捷、長陵の王元を、大將軍とした。安陵の班彪に屬す人が、賓客となった。隗囂の名は、西州を震わし、山東にも聞こえた。
馬援のエピソードを買って、隗囂は馬援を敬重した。隗囂は、馬援とともに、籌策を決めた。班彪は、班樨の子だ。
胡三省はいう。班樨は、平帝の元始元年(001年)に見える。
025年、平陵の竇融が、河西の英俊を集める
はじめ平陵の竇融は、累世、河西に仕宦した。河西の土俗を知る。竇融は、更始の右大司馬・趙萌と、仲がよい。プライベートに、兄弟と言いあう。竇融は趙萌に言う。
「天下の安危は、知れない。河西は殷富だ。黄河にそって、堅固だ。張掖屬國の精兵は、1万騎いる。有事には、黄河の渡し場を杜絕すれば、河西は自守できる。河西は、遺種の土地だ」と。
趙萌は、河西に住みたい。趙萌は、竇融を更始帝に薦めた。竇融は、張掖屬國の都尉となる。竇融は、羌族の心をつかんだ。
このとき、州郡の英俊は、みな竇融と厚善した。英俊とは、酒泉太守する安定の梁統と、金城太守の庫鈞と、張掖都尉する茂陵の史苞と、酒泉都尉の竺曾と、敦煌都尉の辛肜らだ。
更始帝が敗れると、竇融と梁統は計議した。「河西は、羌胡がいる。心を同じくせねば、保てない。1人を大將軍とし、のこり5人を統べさせよ。」と。みな譲りあう。梁統が推されたが、梁統は固辞した。竇融を、行河西五郡・大將軍事とした。
武威太守の馬期、張掖太守の任仲は、孤立した。竇融が文書を送ると、2人は印綬を解いて、去った。
ここにおいて、梁統が武威太守となり、史苞が張掖太守となり、竺曾は酒泉太守となり、辛肜が敦煌太守となる。竇融は張掖屬國にのこる。從事を置き、5郡を監察する。河西の民俗は、質樸だ。竇融らの政治も、寬和だ。上下は相親し、晏然・富殖した。羌族や胡族を、うまく防いだ。のちに羌胡も、竇融に服した。內郡からの流民が、絶えなく流れこむ。(次年へつづく)