025年夏、赤眉が劉盆子を天子とす
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
025年夏、更始帝の長安に、赤眉せまる
関中を攻める鄧禹は、安邑を囲むが、数ヶ月しても降せず。更始帝の大將軍・樊參は、数万で大陽(河東)にきて、鄧禹を攻めた。鄧禹は解県(河東)の南で、樊參を斬った。王匡、成丹、劉均は10余万を合わせ、鄧禹を撃つ。鄧禹は不利だ。
翌日6月癸亥、王匡が日どりが悪くて出ないので、鄧禹は兵をケアできた。6月甲子、王匡は全軍で鄧禹を攻めた。鄧禹が大破した。鄧禹は、劉均と河東太守の楊寶を斬り、ついに河東を定めた。王匡らは、長安に逃げかえる。
更始帝の部将・張卬は、諸將は議した。「赤眉は、いまに到る。私たちは、すぐに滅ぼされる。赤眉に滅ぼされるより、長安を掠め、東へ南陽に帰るほうがよい。もし失敗すれば、また故郷・荊州の湖池あたりで、盗賊をしよう」と。張卬は更始帝に説いたが、更始帝は怒って応じず。
更始帝は、王匡、陳牧、成丹、趙萌を、新豐におく。李松をシュにおき、赤眉をふせぐ。張卬、廖湛、胡殷、申屠建は、隗囂と合謀し、秋日の貙膢を立てた。張卬らは、荊州に逃げるに先立ち、ともに更始帝を劫略した。
『考異』はいう。袁宏はいう。申屠建らは、更始帝に帝位を退くよう勧めた。更始帝は応ぜず。申屠建は、更始帝を劫略したと。いま司馬光は、范曄に従う。
更始帝は、張卬の裏切を知り、病気だとして出ない。張卬を召し、すべて張卬らを誅殺したい。隗囂だけは病気だとして、更始帝に会わず。隗囂は、賓客・王遵や周宗らと、兵をあつめて自守した。更始帝は、隗囂を疑う。張卬らは、暗殺されると感づき、長安を出た。申屠建だけは長安にのこり、更始帝に斬られた。
執金吾の鄧曄は、隗囂の屋敷をかこむ。張卬らは、門を焼いて長安の宮中で戦う。更始帝は大した。隗囂は、天水に帰る。
翌朝、更始帝は、趙萌を新豐におく。更始帝は、王匡、陳牧、成丹が、張卬と同謀したと疑い、召し入れた。陳牧と成丹は、先に入って斬られた。王匡は懼れ、張卬らと合わさる。
『後漢書』劉玄伝を抄訳、袁術が目標とした、一番のりの皇帝
025年夏、赤眉の樊崇が、劉盆子を天子とす
赤眉は華陰に到る。赤眉の軍中に、齊国の巫がいる。つねに城陽景王・劉章を祭る。斉巫は狂って言う。「景王が大怒して言う。縣官(天子)となれ、なぜ賊となるかと」と。巫者を笑った人は、すぐに病気となる。赤眉の軍中は、驚動した。
方望の弟・方陽は、樊崇らに言った。「100万で長安に向かうのに、赤眉には稱號がない。だから群賊と呼ばれる。宗室を立てよ」と。斉巫も鄭県(京兆)で、劉氏を尊立せよと言った。
これより先。赤眉が式県(泰山)をすぎ、劉盆子がクジをひき、天子に選ばれた。劉盆子は畏れ、当たりクジを捨てた。
赤眉で、徐宣は丞相となり、樊崇は御史大夫となり、逢安は左大司馬となり、謝祿は右大司馬となる。その他も、列卿や将軍となる。
劉盆子は天子となったが、兄にベッタリである。ときに劉盆子はぬけ出し、牛飼の児童とあそぶ。樊崇らは、劉盆子に候視しない。
025年秋、鄧禹が大司徒、呉漢が大司馬
025年秋7月辛未、光武帝は、鄧禹に持節させ、大司徒とし、酇(南陽)侯1万戸に封じた。鄧禹は24歳だ。
また光武帝は、大司空を選ぶ。《赤伏符》が「王梁は、衛をつかさどり、玄武をなる」とあるから、7月丁丑、野王(河内)県令・王梁を大司空とした。
讖文により、平狄
將軍の孫鹹を、行大司馬としたい。みな悦ばず。7月壬午、吳漢を大司馬とした。
はじめ更始帝は、琅邪の伏湛を、平原太守とした。天下の兵が起つが、伏湛の平原だけ、晏然とする。門下督は、伏湛に起兵させたい。伏湛は門下督を斬った。平原は伏湛を頼った。
光武帝は伏湛を尚書とし、舊制を典定させた。鄧禹が西征すると、伏湛は司直となり、行大司徒事した。鄧禹の車駕が征伐に出るごとに、伏湛がとどまり、鎮守した。
宗室劉茂聚眾京、密間,自稱厭新將軍,攻下穎川、汝南,眾十餘萬人。帝使驃騎 大將軍景丹、建威大將軍耿弇、強弩將軍陳俊攻之。茂來降,封為中山王。
鄧禹はみずから汾陰(河東)から、黄河をわたる。夏陽(馮翊)に入る。更始帝は命じ、左輔都尉の公乘歙は、左馮翊の兵を合わせ、鄧禹を衙県(馮翊)でふせぐ。鄧禹は、公乘歙を破る。
宗室の劉茂は、京県(河南)と密県(河南)のあいだで、厭新將軍を称す。穎川、汝南を攻め下り、10余万。光武帝は命じ、驃騎大將軍の景丹と、建威大將軍の耿弇と、強弩將軍の陳俊が、劉茂を攻めた。劉茂は光武帝に降り、中山王となる。
025年7月、洛陽を呉漢が、長安を赤眉がねらう
7月己亥、光武帝は懷県(河内)にゆく。耿弇と陳俊を、五社津におき、滎陽より東に備える。吳漢は、建義大將軍の硃祜ら11将軍をひきい、更始帝の部将・朱鮪を洛陽にかこむ。
8月、光武帝は河陽(河内)にゆく。
更始帝の部将・李松は、シュ県から兵をひく。李松は、更始帝と趙萌に従い、更始帝を裏切った王匡と張卬を、長安で攻めた。1ヶ月余で、王匡は敗走した。更始帝は、長信宮にゆく。
赤眉が高陵(馮翊)にきた。王匡と張卬らは、赤眉を迎えて、赤眉に降る。王匡らは、赤眉につき、長安の東都門を攻めた。赤眉は、李松を生け捕った。李松の弟は、李況である。李況は城門校尉となり、開門して赤眉を長安に入れた。(つづく)