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025年9月、長安と洛陽が陥ちる

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

025年9月、赤眉が更始帝の長安を陥とす

九月,赤眉入長安。更始單騎走,從廚城 門出。式侯恭以赤眉立其弟,自系詔獄;聞更始敗走,乃出,見定陶王祉。祉為之除械, 相與從更始於渭濱。右輔都尉嚴本,恐失更始為赤眉所誅,即將更始至高陵,本將兵宿 衛,其實圍之。更始將相皆降赤眉,獨丞相曹竟不降,手劍格死。

025年9月、赤眉は長安に入る。更始帝は、騎馬で廚城門から出た。
式侯の劉恭は、劉盆子の兄だ。赤眉が劉盆子を立てたから、みずから、更始帝の詔獄につながる。更始帝が敗走したと聞き、劉恭は詔獄を出て、定陶王の劉祉と会う。劉祉は、劉恭の手かせを除く。劉恭と劉祉は、更始帝に従い、渭水の濱にゆく。
右輔都尉の嚴本は、更始帝を失い、自分が赤眉に誅されるのを恐れた。更始帝を高陵につれ、宿営した。じつは嚴本は、更始帝をかこむ。更始帝の將相は、みな赤眉に降る。だが丞相の曹竟だけは、降らず。劍で自殺した。

辛未,詔封更始為淮陽王;吏民敢有賊害者,罪同大逆;其送詣吏者封列侯。

9月辛未、光武帝は、更始帝を淮陽王とした。吏民のうち、更始帝に手出しすれば、罪は大逆と同じとした。更始帝を送った吏人を、列侯に封じた。

025年9月、光武帝は卓茂を太傅とする

初,宛人卓茂,寬仁恭愛,恬蕩樂道,雅實不為華貌,行己在於清濁之間,自束髮 至白首,與人未嘗有爭競,鄉黨故舊,雖行能與茂不同,而皆愛慕欣欣焉。哀、平間為 密令,視民如子,舉善而教,口無惡言,吏民親愛,不忍欺之。民嘗有言部亭長受其米肉遺者,茂曰:「亭長為從汝求乎,為汝有事囑之而受乎,將平居自以恩意遺之乎?」民曰:「往遺之耳。」茂曰:「遺之而受,何故言邪?」 民曰:「竊聞賢明之君,使民不畏吏,吏不取民。今我畏吏,是以遺之;吏既卒受,故來言耳。」茂曰:「汝為敝民矣!凡人所以群居不亂,異於禽獸者,以有仁愛禮義,知相敬事也。汝獨不欲修之,寧能高飛遠走,不在人間邪!吏顧不當乘威力強請求耳。亭長素善吏,歲時遺之,禮也。」民曰:「苟如此,律何故禁之?」茂笑曰:「律設大法,禮順人情。今我以禮教汝,汝必無怨惡;以律治汝,汝何所措其手足乎!一門之內,小者可論,大者可殺也。且歸念之。」

はじめ宛県の卓茂は、寬仁・恭愛だ。人と争わない。鄉黨・故舊は、卓茂と同調できないが、卓茂を愛慕した。哀帝と平帝のあいだ、卓茂は、密県(河南)令となる。民に善政した。
かつて民が、卓茂に言った。亭長が民から、米肉を受けとったと。卓茂は、民が自発的に差し出したと聞き、「亭長はわるくない」と判断した。民は「じつは亭長は、贈り物を強いる雰囲気をつくった」と言い出した。卓茂は、民を叱った。

ぼくは補う。すごく省略してる。『後漢書』卓茂伝に、そのまま逸話があるから。司馬光が、儒教の講釈を、想定する読者(皇帝)に垂れたいから、引用されてるだけ。ただ、「卓茂の領地だけ、イナゴが避けて飛んだ」みたいな話は、司馬光がはぶいてる。


初,茂到縣,有所廢置,吏民笑之,鄰城聞者皆蚩其不能。河南郡為置守令;茂 不為嫌,治事自若。數年,教化大行,道不拾遺;遷京部丞,密人老少皆涕泣隨送。及 王莽居攝,以病免歸。上即位,先訪求茂,茂時年七十餘。甲申,詔曰:「夫名冠天下, 當受天下重賞。今以茂為太傅,封褒德侯。」

卓茂が密県にきたとき、卓茂の人事が下手だと、吏民は卓茂を笑った。だが数年し、教化は大行した。卓茂は、京部丞となる。密人の老少は、みな涕泣して見送った。王莽が居攝すると、卓茂が病だから免じた。
光武帝が即位すると、卓茂を求めた。卓茂は70余歳だ。9月甲申、光武帝は詔した。「卓茂を太傅とし、褒德侯に封ず」と。

司馬光はいう。卓茂のような良吏をまねいた光武帝は、すばらしいなあ。
ぼくは思う。卓茂が太傅になったから、列伝を引用した。卓茂は、前漢末の人物だ。だが、前漢では官位が低くて、列伝にならず。だから『後漢書』に、老人として登場した。


025年、朱鮪が降り、光武帝が洛陽を陥とす

諸將圍洛陽數月,硃鮪堅守不下。帝以廷尉岑彭嘗為鮪校尉,令往說之。鮪在城上, 彭在城下,為陳成敗。鮪曰:「大司徒被害時,鮪與共謀,又諫更始無遣蕭王北伐,誠 自知罪深,不敢降!」彭還,具言於帝。帝曰:「舉大事者不忌小怨。鮪今若降,官爵 可保,況誅罰乎!河水在此,吾不食言!」彭復往告鮪,鮪從城上下索曰:「必信,可 乘此上。」彭趣索欲上,鮪見其誠,即許降。

諸將は、洛陽を数ヶ月かこむ。更始帝の部将・朱鮪は、洛陽を堅守した。光武帝は、廷尉の岑彭が、かつて朱鮪の校尉だから、説得させた。

胡三省はいう。朱鮪は、更始帝の大司馬だ。岑彭はその校尉だ。のちに邑人の韓歆に従い、岑彭は河内で光武帝に降った。

朱鮪は城の上、岑彭は城の下だ。朱鮪は言った。「大司徒(光武帝の兄・劉縯)を殺したとき、私(朱鮪)は共謀した。私は更始帝に、劉秀に北伐させるなと言った。私は劉秀に、深い罪を犯した。降れない」と。

ぼくは思う。朱鮪は、更始帝に利益をもたらすなら、つねに正しい。有能だ。

岑彭は光武帝に、朱鮪の発言をつげた。光武帝は言った。「大事をやる人は、小怨を忌まず。もし朱鮪が降れば、官爵を保つ。誅殺しない。黄河にちかう」と。朱鮪は、光武帝に降った。

辛卯,硃鮪面縛,與岑彭俱詣河陽。帝解 其縛,召見之,復令彭夜送鮪歸城。明旦,與蘇茂等悉其眾出降。拜鮪為平狄將軍,封 扶溝侯;後為少府,傳封累世。帝使侍御史河內杜詩安集洛陽。將軍蕭廣縱兵士暴橫, 詩敕曉不改,遂格殺廣。還,以狀聞。上召見,賜以棨戟,遂擢任之。

9月辛卯、硃鮪は面縛した。洛陽を出て、岑彭とともに、河陽にきた。光武帝は、朱鮪の面縛をとき、城に帰らせた。翌朝、蘇茂らとともに、洛陽を降した。
朱鮪を平狄將軍とし、扶溝(淮陽)侯に封じた。のちに朱鮪は少府となり、封爵は累世、伝えた。

ぼくは思う。更始帝が、淮陽にいる。更始帝の名将・朱鮪を、更始帝のそばに封じたのは、光武帝の思いやりだなあ。それとも、一括して監視するためか。このとき淮陽は、どんな情勢だろうか。
光武帝が、兄・劉縯の仇を許したのは、大きな「成長」です。皇帝だからね。「小怨」と言ってる時点で、根に持っていることは、確かなのだが。

光武帝は、侍御史する河內の杜詩に、洛陽の人を安集させた。將軍の蕭廣が、横暴したから、杜詩は蕭廣を殺した。光武帝は、杜詩に棨戟(斧鉞)をあたえ、洛陽を任せた。(つづく)