025年冬、鄧禹が隗囂に西北を委ねる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
025年冬、安定で盧芳が、漢帝となる
王莽のとき、みな天下は、漢の德を思った。三水(安定)の盧芳は、左谷の中にいる。盧芳は、前漢の武帝の曾孫・劉文伯だと偽った。「私の曾祖母は、匈奴の渾邪王の姉だ」と。盧芳は、安定のあたりを誑惑した。莽新の末、三水屬國の羌胡とともに、盧芳は起兵した。
更始帝が長安にきて、盧芳は騎都尉となる。更始帝は盧芳に、安定より西を鎮撫させた。
更始帝が敗れると、三水の豪桀は、盧芳を上將軍、西平王とした。盧芳は、西羌と匈奴に和親を結ばせた。単于は言った。「前漢が呼韓邪単于を立てたように、私(単于)が、劉文伯(盧芳)を立てよう」と。匈奴は、盧芳を漢帝にした。盧芳の弟・盧程は、中郎將となる。盧程は、胡騎をひきい、安定にもどる。
前漢の宣帝は、呼韓邪単于を立ててやった。単于は、長安に入朝した。匈奴にとって、つねに持ち出す前例となった。やはり大事件だったんだ。
025年、鄧禹は関中に進まず、隗囂に委ねる
関中が定まらず、鄧禹は久しく進まない。光武帝は鄧禹を責めた。「長安の吏民を、はやく従えよ」と。それでも鄧禹は、考えを変えない。関中に進まず、上郡を攻め、大要(北地)にもどる。
積弩將軍の馮愔と、車騎將軍の宗歆は、鄧禹がいた栒邑を守る。2人は対立した。馮愔は宗歆を殺し、鄧禹に反した。光武帝は聞いた。「鄧禹に反した馮愔は、誰を親愛するか」と。鄧禹の使者は答えた。「護軍の黃防だ」と。光武帝は、鄧禹に言った。「馮愔を縛るのは、必ず黃防だ」と。尚書の宗廣は持節し、馮愔を降しにゆく。1ヶ月余たち、黃防は馮愔を捕えた。
更始帝の諸将・王匡、胡殷、成丹らは、みな尚書の宗廣に降った。宗廣は東にもどる。安邑で、更始帝の諸将が逃げかけた。宗廣は、諸将をみな斬った。
馮愔が叛し、西へ天水に向かう。隗囂は馮愔を、高平(安定)で破る。ここで鄧禹は承制し、使者に持節させ、隗囂に西州大將軍を命じた。隗囂は鄧禹のもと、涼州と朔方の事を、專制できる。
臘日のとき、赤眉は秩序なく騒ぐ。衛尉の諸葛樨は、百餘人を格殺し、騒ぎを定めた。劉盆子は惶恐し、日夜、啼泣した。從官は、みな劉盆子を憐れむ。
025年、更始帝にまつわる余談
光武帝は命じ、宗正の劉延が、天井關を攻めた。田邑に勝てない。更始帝が敗れると、田邑は光武帝にくだる。光武帝は田邑を、上黨太守とした。
光武帝は命じ、諫議大夫の儲大伯が、持節して鮑永を征した。劉永は更始帝の存亡を知らないので、光武帝に従わず。劉永は、儲大伯を捕え、長安へゆかせ、更始帝の存亡を確認した。
はじめ劉秀が、宛県で更始帝に従ったとき。新野の陰麗華と、結婚した。
この025年、陰麗華と、光武帝の姉・湖陽公主と、妹・寧平公主は、ともに洛陽にきた。陰麗華は、貴人となる。更始帝の西平王・李通は先に、光武帝の妹・寧平公主と結婚した。李通は衛尉となる。
はじめ更始帝は、王閎を琅邪太守とした。張歩は琅邪郡に拠り、王閎をこばむ。王閎は、贛榆ら6県の兵を得たが、張歩に勝てない。張歩は、劉永の官號を受け、劇県(北海)で治兵する。張歩は、泰山、東萊、城陽、膠東、北海、濟南、齊
郡をみな降す。王閎は張歩に敵わず、会いにゆく。
張歩は、王閎に怒った。「私(張歩)に何の罪があるか。こんなに攻めやがって」と。王閎は剣を持って言う。「私(王閎)は、更始帝の朝命を受けて、琅邪にきた。だが、きみ(張歩)が拒む。賊を攻めるのは当然だ」と。張歩は跪いて、王閎に謝る。張歩は、王閎に琅邪をゆだねた。(次年につづく)