169年夏、霊帝のイスに青蛇が現れる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
169年春、霊帝の母系・董氏が就職
春,正月,丁丑,赦天下。 帝迎董貴人於河間。三月,乙巳,尊為孝仁皇後,居永樂宮,拜其兄寵為執金吾, 兄子重為五官中郎將。
169年春正月丁丑、天下を赦した。霊帝は、母の董貴人を河間にむかえた。169年3月乙巳、母を孝仁皇后とした。母を、永樂宮におく。母の兄・董寵を、執金吾とした。董寵の子・董重を、五官中郎將とした。
169年夏、青蛇を、張奐、謝弼、楊賜が評す
奐又與尚書劉猛等共薦王暢、李 膺可參三公之選,曹節等彌疾其言,遂下詔切責之。奐等皆自囚廷尉,數日,乃得出, 並以三月俸贖罪。
169年4月壬辰、青蛇が御坐にあらわれた。4月癸巳、大風、雨雹、霹靂にて、大木が1百余もぬけた。公卿より以下に、封書をださせた。
ぼくは思う。『三国演義』の序幕は、ここだっけ?史料によって、時期がバラバラだが。青蛇が、何匹も何回もあらわれたか。もしくは、「霊帝の時代なら、いかにもありそうだ」と考え、創作したか。後者が、説得力がある。
大司農の張奐は、上疏した。「陳蕃と竇武を殺すから、青蛇がでたのだ。かわりの人材を補充せよ」と。桓帝は、張奐をみとめたが、宦官がブロックした。
張奐は、尚書の劉猛らとともに、王暢、李膺を薦めた。曹節は詔をくだし、張奐をキツく責めた。張奐と劉猛らは、みずから廷尉につかまった。数日で、廷尉から解放された。3か月分の罰金を払った。
霊帝を迎えた功績があるという点で、曹節は、竇武と陳蕃とおなじ。曹節は、ライバルの陳蕃と竇武に、完勝したのだ。イレギュラーな即位は、重臣を入れ替える結果をまねくなあ。
郎中する東郡の謝弼は、封書をだした。「蛇は穴をほるから、陰を示し、女性を示す。『左伝』は、父子兄弟の罪が、女性に及ばないという。竇武は誅殺されたが、竇太后に罪はない。和帝は、竇氏に恩を絶やさず。これは、前時代の美談だ。霊帝は、竇太后を慰めよ。
ぼくは思う。これは、ちょっと気になる。時代がちょっと前だから、読むのがしんどいかも、知れないが。梁氏や竇氏を理解するには、和帝を避けてとおれない。
陳蕃の門生故吏を、復帰させよ。いまの四公のうち、司空の劉寵だけが、すぐれた人間だ。ほかの3人は、ジャマだ。
胡三省はいう。この169年から、聞人襲が、劉矩に代わって太尉になった。のこりの三公も、李賢の注釈は、あわない。
ぼくは思う。胡三省は、代替案を、ちゃんと書いてくれ。
もと司空の王暢と、長楽少府の李膺に、政事を任せよ。災難はしずまる」と。
謝弼は、宦官に悪まれた。広陵府丞に、左遷された。曹節の従子・曹紹は、東郡太守になった。謝弼をほかの罪にかこつけ、獄死させた。
霊帝は、光禄勲の楊賜に、青蛇について問うた。楊賜は封書した。「陰陽のバランスが悪いから、陰を示す蛇が出たのです。霊帝は、乾剛の道を思い、陽を強めなさい」と。楊賜は、楊秉の子である。
四世太尉の楊氏が、どんな政治的な立場か。これを仮説すれば、なにか言えそうだ!
169年夏秋、段熲が東羌を、殺戮しつくす
169年5月、太尉の聞人襲と、司空の許栩をやめた。6月、司徒の劉寵を太尉とした。太常する汝南の許訓を、司徒とした。太僕する長沙の劉囂を、司空とした。劉囂は、宦官たちにへつらい、三公になれた。
謁者の馮禪は、漢陽に散った羌族を、説得して降した。段熲は、考えた。羌族は蓄えがないから、また盗賊になると。段熲は羌族を、不意に攻めた。羌族は、東に逃げた。段熲は、逃がさず殺した。
169年秋7月、段熲は東羌を、殺しまくった。降った羌族は、安定、漢陽、隴西に分けて置いた。段熲は、180戦して、3万8千級を斬り、家畜43万を得て、44億を費やした。後漢の兵士は、4百余人死んだ。段熲は、新豐縣侯に封じられた。食邑は1万戸だ。
ここで司馬光はいう。段熲は勝ったが、やりすぎ。君子でない。ぼくが言いたかったこと以上に、司馬光が、小難しく代弁してくれた。とくに補足なし。もし段熲が、黄巾の討伐に参戦したら、漢族を殺しまくったのかなあ。
169年9月、三君、八俊、八顧、八及、八廚
169年9月、江夏の蛮が反した。州郡は、平らげた。丹楊の山越は、丹楊太守の陳夤をかこんだ。陳夤は、山越を破った。
ぼくは思う。漢族と山越の抗争に、区切りなどない。ただ、胡三省の注釈は、おもしろい。孫呉ファンは、注目していいと思いました。
李膺は廢錮されたが、天下の士大夫は、李膺をほめた。朝廷が汚穢するから、士大夫は称号をつけあった。竇武、陳蕃、劉淑を、三君とした。君とは、同時代のリーダーをさす。李膺、荀翌、
杜密、王暢、劉祐、魏朗、趙典、硃瑀は、八俊という。俊とは、英れたことをさす。
郭泰、范滂、尹勳、巴肅および、南陽の宗慈、陳留の夏馥、汝南の蔡衍、泰山の羊陟を、八顧とした。顧とは、德行をもって人をひくことをさす。張儉、翟超、岑晊、苑康および、山陽の劉表、汝南の陳翔、魯國の孔昱、山陽の檀敷を、八及とした。及とは、人をみちびき、リーダーを追うことをさす。度尚および、東平の張邈、王孝、東郡の劉儒、泰山の胡母班、陳留の秦周、魯國の蕃向、東萊の王章は、八廚とした。廚とは、財産で人を救うことを指す。
ときどき、外戚は濁流だと決めつけ、竇武が三君にいることを、不思議がいる。「清流は、竇武を三君にして、へつらった」なんて、検討ハズレをいう本もあった。ちがう。外戚=濁流は、ひどい。「宦官、外戚、党人の三つ巴」という、なんの説明にもならない単純化を、鵜呑みにした弊害である。竇武の経歴を見るべきだ。
陳蕃と竇武が政権をもつと、李膺らをもちいた。陳蕃と竇武が殺されると、李膺らは、また公職につけない。
宦官は、李膺らを悪んだ。宦官は、党人を禁錮せよと言う。侯覽は張儉を、もっともひどく悪む。侯覧の同郷人・硃並が、張倹に裁かれた。侯覧は上書した。「張倹ら24人は、徒党をくみ、社稷を危うくした。張倹を捕えよ」と。
次回、第二次党錮の禁と、袁氏の復活!