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169年冬、第二次党錮と、袁氏の復活

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

169年冬、第二次・党錮の禁

冬,十月,大長秋曹節因此諷有司奏「諸鉤黨者 故司空虞放及李膺、杜密、硃□、荀翌、翟超、劉儒、范滂等,請下州郡考治。」是時 上年十四,問節等曰:「何以為鉤黨?」對曰:「鉤黨者,即黨人也。」上曰:「黨人 何用為惡而欲誅之邪?」對曰:「皆相舉群輩,欲為不軌。」上曰:「不軌欲如何?」 對曰:「欲圖社稷。」上乃可其奏。或謂李膺曰:「可去矣!」對曰:「事不辭難,罪 不逃刑,臣之節也。吾年已六十,死生有命,去將安之!」乃詣詔獄,考死;門生故吏 並被禁錮。侍御史蜀郡景毅子顧為膺門徒,未有錄牒,不及於譴,毅慨然曰:「本謂膺 賢,遣子師之,豈可以漏脫名籍,苟安而已!」遂自表免歸。

169年冬10月、大長秋の曹節は、上奏した。「州郡は、鉤黨した人を捕えよ。捕えるべきは、もと司空の虞放、および李膺、杜密、硃□、荀翌、翟超、劉儒、范滂らだ」と。このとき霊帝は14歳だ。曹節に聞いた。「鉤黨とは?」と。曹節は答えた。「党人のことだ」と。霊帝「党人は、なぜ誅すべきか」と。曹節「不軌したから」と。霊帝「不軌とは?」と。曹節「社稷を図ること」と。霊帝は、曹節をみとめた。

胡三省はいう。軌とは、法度だ。法とは、君主が君主で、臣下が臣下であること。社稷を図るとは、君臣をくつがえすこと。霊帝は、曹節のウソを見ぬけず。ひどく暗愚だ。悲しいなあ!
ぼくは思う。霊帝は暗愚か。ぼくは、教育を受けていないせいだと思う。もし霊帝に、ながい皇太子の期間があれば、皇帝になるつもりで学問した。だが、貧乏や亭侯で育ったから、教育をする側・される側とも、意識が低かった。例えば。「あなたは、卑しい仕事につくのだ」と親が決めて、ろくに学校にいかない子がいたとする。ある日、大会社の社長に抜擢される。就任して2年目。重役がウソの報告を上げてきても、わかるものか。

李膺に「逃げろ」という人がいた。李膺は答えた。「罪があれば、刑を逃げない。これが私の節度だ。すでに60歳だ。死生は命にある。逃げない」と。李膺は獄死した。李膺の門生故吏も、禁錮された。侍御史する蜀郡の景毅は、子が景顧だ。景顧は、李膺の門徒だが、禁錮のリストにのらず。景毅は言った。「子を李膺に師事させた。私も禁錮されるべきだ」と。景毅は、みずから退職した。

汝南督郵吳導受詔捕范滂,至征羌,抱詔書閉傳捨,伏床而泣,一縣不知所為。滂 聞之曰:「必為我也。」即自詣獄。縣令郭揖大驚,出,解印綬,引與俱亡,曰:「天 下大矣,子何為在此!」滂曰:「滂死則禍塞,何敢以罪累君。又令老母流離乎!」其 母就與之訣,滂白母曰:「仲博孝敬,足以供養。滂從龍舒君歸黃泉,存亡各得其所。 惟大人割不可忍之恩,勿增感戚!」仲博者,滂弟也。龍舒君者,滂父龍舒侯相顯也。 母曰:「汝今得與李、杜齊名,死亦何恨!既有令名,復求壽考,可兼得乎!」滂跪受 教,再拜而辭。顧其子曰:「吾欲使汝為惡,惡不可為;使汝為善,則我不為惡。」行 路聞之,莫不流涕。

汝南の督郵・吳導は、范滂を捕えよと命じられた。吳導は、征羌県にきた。

胡三省はいう。征羌県は、汝南郡だ。もとは当郷県だった。来キュウが羌族を征したから、光武帝が改名した。范滂は、征羌県の人だ。

吳導は、逮捕の詔書を抱いて、門を閉ざした。吳導は、床に伏せて泣いた。征羌県で、逮捕者がいない。范滂はこれを聞いて、言った。「逮捕されるのは、私だ」と。范滂はみずから出頭した。
征羌の縣令・郭揖は、范滂の出頭に驚いた。郭揖は、印綬を解いて、范滂に言った。「天下は大きい。なぜ范滂は、ここにいるのか(逃げればいい)」と。范滂は言った。「県令のきみや、老母を連座さたくない」と。范滂の母は、別れぎわ、范滂に言った。「お前は、李膺や杜密と、並び称された。充分だ」と。

凡黨人死者百餘人,妻子皆徙邊,天下豪桀及儒學有行義者,宦官 一切指為黨人;有怨隙者,因相陷害,睚眥之忿,濫入黨中。州郡承旨,或有未嘗交關, 亦離禍毒,其死、徙、廢、禁者又六七百人。
郭泰聞黨人已死,私為之慟曰:「《詩》雲:『人之雲亡,邦國殄瘁。』漢室滅矣, 但未知『瞻烏爰止,於誰之屋』耳!」泰雖好臧否人倫,而不為危言核論,故能處濁世 而怨禍不及焉。

党人は100余人が死んだ。妻子は、辺境に徙された。天下の豪桀や儒者は、すべて党人とされた。宦官は、悪む人を党人とした。州郡で処罰された人は、6、7百人だ。死刑、徙刑、廃棄されて、禁錮など。
郭泰は、党人が死んだと聞いた。郭泰はプライベートに、党人の死に慟哭して、言った。「漢室は滅びる。名君がいないと、人民が住むところがない」と。

『考異』はいう。范曄で郭泰は、このセリフを陳蕃と竇武のために言う。袁宏で郭泰は、三君と八俊のために哭いて、これを言う。司馬光は袁宏にしたがい、ここにセリフを置いた。

郭泰は、人物評価を好んだ。だが、核心をついた危ういことまで言わず。だから、宦官の怨禍は、郭泰に及ばなかった。

ぼくは思う。郭泰が免れた理由は、本文のいう「不為危言核論」でない。ぼくは党錮を、政治の派閥あらそいだと思う。郭泰は、政治に影響力がない。ただの在野の物好きだ。だから、党錮されなかった。っていうか、党錮しても、公職にないから、おなじだ。
党錮の禁を、「清流と濁流」の思想信条の対立だと、捉えても仕方ない証拠。だって、もし思想信条の対立なら、郭泰を真っ先に捕えるべきだ。宦官は、郭泰に見向きもしない。


張倹が亡命して、孔融がかくまう

張儉亡命困迫,望門投止,莫不重其名行,破家相容。後流轉東萊,止李篤家。外 黃令毛欽操兵到門,篤引欽就席曰:「張儉負罪亡命,篤豈得藏之!若審在此,此人名 士,明廷寧宜執之乎!」欽因起撫篤曰:「蘧伯玉恥獨為君子,足下如何專取仁義!」 篤曰:「今欲分之,明廷載半去矣。」欽歎息而去。篤導儉經北海戲子然家,遂入漁陽 出塞。其所經歷,伏重誅者以十數,連引收考者布遍天下,宗親並皆殄滅,郡縣為之殘 破。

張儉は亡命し、東萊にながれた。李篤は張倹を泊めた。外 黃令の毛欽が、兵をひきいて、李篤の門前にきた。

胡三省はいう。『漢書』『後漢書』を見ると。外黄県は、陳留郡に属す。黄県は、東莱郡に属す。外黄令でなく、黄令がただしい。ぼくは思う。「外に」という、副詞じゃダメ?

李篤は、県令を説得した。県令は、張倹を捕えず。李篤は張倹を、北海の戲子然の家に導いた。張倹は、漁陽から長城を出た。張倹が通った土地で、10人が誅された。張倹は天下に指名手配された。著権の宗親は、みな殺された。

ぼくは思う。張倹に越度はないかも知れないが、これだけ他人を巻き込むのもねえ。


儉與魯國孔褒有舊,亡抵褒,不遇,褒弟融,年十六,匿之。後事洩,儉得亡走, 國相收褒、融送獄,未知所坐。融曰:「保納捨藏者,融也,當坐。」褒曰:「彼來求 我,非弟之過。」吏問其母,母曰:「家事任長,妾當其辜。」一門爭死,郡縣疑不能 決,乃上讞之,詔書竟坐褒。及黨禁解,儉乃還鄉里,後為衛尉,卒,年八十四。

張倹は、魯國の孔褒と親しい。孔褒は、張倹をかくまわず。孔褒の弟・孔融は、16歳だ。孔融が、張倹をかくまう。のちにバレた。魯国の相は、孔褒らを下獄したい。孔融は言った。「張倹をかくまった私を捕えよ」と。孔褒は言った。「張倹は、私を頼ってきた。弟・孔融でなく、私の罪だ」と。孔融の母は言った。「家の年長者、母である私の罪だ」と。軍県は、判決に迷う。詔書は、孔褒を罰した。

ぼくは思う。孔融の家は、問答が好きだ。孔融の子は、「鳥の巣が壊れたら、タマゴも無事でない」と言った。曹操の役人がビビらされた。迷惑な家族だなあ。

のちに党錮が解かれた。張倹は郷里にかえり、衛尉になった。在職のまま死んだ。84歳だった。

胡三省はいう。張倹伝はいう。建安初(196年)張倹は衛尉となった。やむを得ず、就職した。張倹は、曹氏の世が始まるのを見た。張倹は、政事せず。許都で死んだ。


夏馥 聞張儉亡命,歎曰:「孽自己作,空污良善,一人逃死,禍及萬家,何以生為!」乃自 翦須變形,入林慮山中,隱姓名,為冶家傭,親突煙炭,形貌毀瘁,積二三年,人無知 者。馥弟靜載縑帛追求餉之,馥不受曰:「弟奈何載禍相餉乎!」黨禁未解而卒。

夏馥は、張倹が亡命したと聞き、歎じた。「1人がウロつけば、1万の家に迷惑がかかる」と。夏馥はヒゲを変形して、山中に入り、姓名を変えた。2、3年で衰えて、外見は別人だ。夏馥の弟・夏靜は、夏馥に差し入れした。夏馥は受けない。「弟よ。禍いを一族に及ばせるな」と。党錮が解けぬうち、夏馥は死んだ。

袁逢と袁隗は、霊帝の宦官とむすんで復活

初,中常侍張讓父死,歸葬穎川,雖一郡畢至,而名士無往者,讓甚恥之,陳寔獨 吊焉。及誅黨人,讓以寔故,多所全宥。南陽何顒,素與陳蕃、李膺善,亦被收捕,乃 變名姓匿汝南間,與袁紹為奔走之交,常私入雒陽,從紹計議,為諸名士罹黨事者求救 援,設權計,使得逃隱,所全免甚眾。

中常侍・張讓の父が死んだ。穎川で葬った。だが名士が参列せず、張讓は恥じた。陳寔だけが、参列した。張讓は、党錮をまぬかれた。
南陽の何顒は、陳蕃や李膺と仲がよい。何顒は、姓名を変えて、汝南にかくれた。袁紹と陳蕃は、奔走之交となった。何顒は、こっそり洛陽に入り、袁紹と計議した。何顒と袁紹の作戦のおかげで、宦官に殺されなかった士大夫は、とても多かった。

ぼくは思う。三国志が始まったなあ。はじめ太学で、新たな派閥が生まれた。後漢そのものを悪む、過激な革命派。皇帝の暗殺すら、やりたがる。陳蕃や李膺、何顒を経て、袁紹から曹操へ。いわゆる「名士」の人脈だ。
つぎの段落に出てくるが。袁術は、この人脈に連ならない。袁術に、人望がないからでない。もともと、派閥が違うのだ。一般的に、革命したがるのは、現状で不遇な人。袁術が、現状に満足できる立場だったら、何顒とツルむ必要がない。第二次・党錮で、何顒たちは、完璧な政治的敗者となった。少なくとも黄巾の乱まで、浮上しない。

初,太尉袁湯三子,成、逢、隗。成生紹,逢生術。逢、隗皆有名稱,少歷顯官。 時中常侍袁赦以逢、隗宰相家,與之同姓,推崇以為外援,故袁氏貴寵於世,富奢甚, 不與它公族同。

太尉の袁湯には、三子がいた。成、逢、隗だ。袁成は、袁紹を生む、袁逢は、袁術を生む。

胡三省はいう。袁術は、あざなを公路というから。『月令』にある「審端径術」の「術」と、おなじ読み方をする。音は、遂とおなじ。『説文』によれば、「術」とは、邑中道だ。読むときは、入声だ。『月令』と『説文』の読み方は、おなじだ。「隗」の字は、五と罪の翻だ。
ぼくは思う。現代日本語で、ムリに読むなら、袁術はエンスイで、袁隗はエンガイである。

袁逢と袁隗は、どちらも名稱がある。若くして、顯官を歴任した。

ぼくは思う。父・袁湯の七光である。袁湯は、梁冀の与党となって、三公になった。三公の子が、若くから顕官につくのは、うなずける。だから梁冀が失脚して、史料から消えた。べつに「顕官を歴す」とあっても、恒常的に高位でなくてよかろう。

袁逢と袁隗は、宰相の家だ。ときに中常侍の袁赦は、袁逢と同姓だから、袁逢を推して崇び、外援としたい。ゆえに袁氏は、当世に貴寵となった。富奢は甚しく、他の三公の家と、同じでない。

ぼくは思う。本文の反復ですが。袁氏が成功したのは、中常侍の袁赦とむすんだから。梁冀の失脚のあと、袁氏が盛り返せた原因は、宦官である。
一連の翻訳で、ぼくは言ってきた。159年までが梁冀の時代。165年までが、桓帝の宦官の時代。いま169年までが、陳蕃ら太学派の時代。第二次の党錮で、霊帝の宦官の時代が始まった。袁氏は処世術にたけるが、直接に対決した桓帝の宦官とは、さすがに同盟できず。だが、霊帝の宦官となら、同盟できる。桓帝の後半、桓帝を助けた五侯が死去し、子弟が没落したことに注意。宦官は、皇帝個人に仕えるから、顔ぶれが一新してる。
世代交代。梁冀と同盟したのが、袁湯。霊帝の宦官と同盟するのが、袁湯の子の世代、袁逢と袁隗である。第二次の党錮をもって、袁氏は復活。おめでとう。笑


紹壯健有威容,愛士養名,賓客輻湊歸之,輜□井、柴轂,填接街陌。 術亦以俠氣聞。

袁紹は、壯健で威容がある。袁紹は、士を愛し、名を養う。賓客は輻湊して、袁紹に帰した。輜□、柴轂、街に100台もつらなった。

李賢はいう。袁紹の門前に連なったのは、衣車だ。荷物が見えないように、かこった車。柴轂は、賎者の車だ。
ぼくは思う。袁逢や袁隗は、宦官と連なり、政権の中枢にちかい。そのくせ袁紹は、家の方針に叛き、陳蕃につらなる太学派と付き合う。ただの不良である。なまじっか実家にお金があるから、付き合いが派手になる。
『資治通鑑』では、袁紹を袁成の子とする。だが、陳寿や裴松之では、一致を見ない。つまり袁紹は、父すら分からない傍流である。出生が賎しいからスネたのか、スネたから出生が消されたのか。分からないが、ともかく袁紹は、袁氏の例外である。
袁紹が例外であることは、賎しい「柴轂」が、袁紹に乗り付けたことからも、証明できる。のちに河北で大勢力になるからと言って、霊帝時代も主流とは限らず。

袁術もまた、俠氣をもって聞こえた。

胡三省はいう。党錮が死んだのち、宦官を誅したのは、袁紹と袁術だ。善いことをせずに、己から害をのぞこうと願うならば、天はこれを許すだろうか。
ぼくは思う。袁術は袁紹とおなじで、宦官を殺した。だからと言って、袁術と袁紹は、人脈形成の方針がちがう。袁術は、陳蕃の人脈と付き合わない。『資治通鑑』でも、袁紹と袁術の交際は、区別されてる。


逢從兄子閎,少有操行,以耕學為業,逢、隗數饋之,無所受。閎見時 方險亂,而家門富盛,常對兄弟歎曰:「吾先公福祚,後世不能以德守之,而競為驕奢, 與亂世爭權,此即晉之三郤矣。」及黨事起,閎欲投跡深林,以母老,不宜遠遁,乃築 土室四周於庭,不為戶,自牖納飲食。母思閎時,往就視,母去,便自掩閉,兄弟妻子 莫得見也。潛身十八年,卒於土室。

袁逢の從兄の子は、袁閎である。わかくして操行あり。袁閎は耕學して、業とした。袁逢と袁隗は、しばしば袁閎にプレゼントしたが、袁閎は受けず。険乱が起きそうなのに、家門が富盛だ。だから袁閎は、つねに兄弟に歎じた。「袁安の福祚は、後世まで守ることができない。袁逢と袁隗は、競って驕奢をなし、亂世と權を爭う。これは春秋晉の、三郤とおなじだ」

袁閎は、袁逢の従兄の子だ。袁紹たちと同世代だ。
胡三省はいう。晋の郤氏は驕って、君主権力を侵害した。レイ公に殺された。
ぼくは思う。袁閎は文句を言いつつも、君主権力を脅かした故事に、袁氏をたとえた。これもまた、充分に驕っている。笑

党錮がおきた。袁閎は、深林に入りたい。だが母が老いたので、遠くにゆけない。袁閎は、土を築いて四方を囲い、戸をつくらず。母が袁閎に会いたければ、袁閎は母に会いにゆく。母が去れば、袁閎は閉じこもった。兄弟や妻子は、袁閎に会えない。18年間、袁閎は身をひそめて、土室のなかで死んだ。

ぼくは思う。袁閎の行動は、おもしろいが。これで袁閎は、袁安の福祚を、後世につなげたのか?なにか、ちがう気がするなあ。
袁氏は、巨大である。すでに、分裂が起きている。袁紹、袁術、袁閎は、同世代だが、意見がちがう。戦国の真田氏のように、リスクを分散したとも言えるか。
190年になり、思いついたように、袁紹と袁術が、兄弟げんかを始めたのではない。それぞれの利害を代表する人脈が、袁氏に入り込んでいた。たとえば財閥系の大企業が、複数の業種に手を出すように。財閥の事業形態を、創業者の家族の、人間関係だけで説明しては、単純化しすぎである。
古代の史家が、不可解な事件の原因を、個人の性格だけで説明してたら、必ず疑っていい。史家が仮説を思いつかないとき、事件の原因を、個人の性格のせいにする。ぼくら史料を読む人間は、史家がつけた説明を、まるまる受容する必要がない。


169年11月、曹節が車騎将軍となる

初,范滂等非訐朝政,自公卿以下皆折節下之,太學生爭慕其風,以為文學將興, 處士復用。申屠蟠獨歎曰:「昔戰國之世,處士橫議,列國之王至為擁彗先驅,卒有坑 儒燒書之禍,今之謂矣。」乃絕跡於梁、碭之間,因樹為屋,自同傭人。居二年,滂等 果罹黨錮之鍋,唯蟠超然免於評論。

はじめ范滂らは、朝政を批判した。公卿より以下も、太学生も、范滂に同調した。申屠蟠は、ひとり歎じた。「戦国時代、諸子百家は、列国の王にもちいられた。さいごは諸子百家は、始皇帝に埋められた。いまもおなじだ」と。申屠蟠は、隠棲した。党錮で、范滂は禍いを受けたが、申屠蟠はのがれた。

ここで司馬光はいう。党錮をこうむらない、郭泰と申屠蟠は、すぐれているなあ。


庚子晦,日有食之。 十一月,太尉劉寵免;太僕扶溝郭禧為太尉。 鮮卑寇并州。
長樂太僕曹節病困,詔拜車騎將軍。有頃,疾瘳,上印綬,復為中常侍,位特進, 秩中二千石。 高句驪王伯固寇遼東,玄菟太守耿臨討降之。

169年10月庚子みそか、日食した。11月、太尉の劉寵をやめた。太僕する扶溝の郭禧を、太尉とした。鮮卑が、并州を寇した。
長樂太僕の曹節は、病気がおもい。曹節は、車騎將軍となった。疹を病み、印綬を返上した。曹節は、中常侍にもどる。特進で、秩禄は中二千石だ。

ぼくは補う。皇帝を即位させた宦官は、車騎将軍になる。順帝のとき、孫程は死後に贈られた。桓帝のとき、159年10月、単超は生前に贈られた。官位の慣例は、エスカレートすることはあっても、クールダウンはしない。

高句驪王の伯固は、遼東を寇した。玄菟太守の耿臨は、高句麗王を降した。101211