229年、孫権が皇帝になり、三国で内政
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
229年春、諸葛亮が2郡をとる
春,漢諸葛亮遣其將陳戒攻武都、陰平二郡,雍州刺史郭淮引兵救之。亮自出建威, 淮退,亮遂拔二郡以歸;漢主復策拜亮為丞相。
229年春、諸葛亮の部将・陳戒は、武都と陰平の2郡をとった。雍州刺史の郭淮は、2郡を救った。みずから諸葛亮は、建威にでた。郭淮は退いた。諸葛亮は、ついに2郡をえた。
劉禅は、諸葛亮を丞相にもどした。
229年夏、孫権が皇帝になった波紋
夏,四月,丙申,吳王即皇帝位,大赦,改元黃龍。百官畢會,吳主歸功周瑜。綏
遠將軍張昭舉笏欲褒贊功德,未及言,吳主曰:「如張公之計,今已乞食矣。」昭大慚,
伏地流汗。吳主追尊父堅為武烈皇帝,兄策為長沙桓王,立子登為皇太子,封長沙桓王
子紹為吳侯。
229年夏4月丙申、孫権は皇帝になった。黄龍と改元した。孫権は言った。「私が皇帝になれたのは、
周瑜のおかげだ。張昭の言うとおりにしたら、乞食だった」と。孫堅を武烈皇帝とした。孫策を長沙桓王とした。孫登を皇太子とした。孫策の子・孫紹を、呉侯とした。
以諸葛恪為太子左輔,張休為右弼,顧譚為輔正、陳表為翼正都尉,而謝
景、范懼、羊慎等皆為賓客,於是東宮號為多士。
太子使侍中胡綜作《賓友目》曰:
「英才卓越,超逾倫匹,則諸葛恪;精識時機,達幽究微,則顧譚;凝辯宏達,言能釋
結,則謝景;究學甄微,游夏同科,則范懼。」羊道私駁綜曰:「元遜才而疏,子嘿精
而很,叔發辯而浮,孝敬深而狹。」道卒以此言為恪等所惡,其後四人皆敗,如道所言。
諸葛恪、張休、顧譚、陳表を、東宮の官につけた。謝
景、范懼、羊慎らは、東宮の賓客だ。東宮には、人材がおおい。
孫登は、侍中の胡綜に、《賓友目》を書かせた。胡綜は、孫登の取りまきである、諸葛恪らをほめた。羊道は、胡綜に反論した。
羊道は死んだ。諸葛恪を批判して、諸葛恪に悪まれたからだ。のちに孫登の取りまきは、羊道の言ったとおり、失敗した。
吳主使以並尊二帝之議往告於漢。漢人以為交之無益而名體弗順,宜顯明正義,絕 其盟好。丞相亮曰:「權有僭逆之心久矣,國家所以略其釁情者,求掎角之援也。今若 加顯絕,讎我必深,更當移兵東戍,與之角力,須並其土,乃議中原。彼賢才尚多,將 相輯穆,未可一朝定也。頓兵相守,坐而須老,使北賊得計,非算之上者。昔孝文卑辭 匈奴,先帝伏與吳盟,皆應權通變,深思遠益,非若匹夫之忿者也。今議者鹹以權利在 鼎足,不能並力,且志望已滿,無上岸之情,推此,皆似是而非也。何者?其智力不侔, 故限江自保。權之不能越江,猶魏賊之不能渡漢,非力有餘,而利不取也。若大軍致討, 彼高當分裂其地以為後規,下當略民廣境,示武於內,非端坐者也。若就其不動而睦於 我,我之北伐,無東顧憂,河南之眾不得盡西,此之為利,亦已深矣。權僭逆之罪,未 宜明也。」
孫権は蜀漢に、皇帝についたと告げた。蜀漢の人は、孫権と同盟をやめようと言った。だが丞相の諸葛亮は、言った。「孫権と同盟をつづけるのが、現実的だよ。わが国は、魏に北伐したいからね」と。
乃遣衛尉陳震使於吳,賀稱尊號。吳主與漢人盟,約中分天下,以豫、青、 徐、幽屬吳,兗、冀、並、涼屬漢,其司州之土,以函谷關為界。
諸葛亮は、衛尉の陳震をおくり、孫権の皇帝即位をたたえた。
孫権は、蜀漢と天下を二分するプランを約束した。司州は、函谷関を境界として、半分ずつである。
張昭以老病上還官位及所統領,更拜輔吳將軍,班亞三司,改封婁侯,食邑萬戶。 昭每朝見,辭氣壯厲,義形於色,曾以直言逆旨,中不進見。後漢使來,稱漢德美,而 群臣莫能屈,吳主歎曰:「使張公在坐,彼不折則廢,安復自誇乎!」明日,遣中使勞 問,因請見昭,昭避席謝,吳主跪止之。昭坐定,仰曰:「昔太后、桓王不以老臣屬陛 下,而以陛下屬老臣,是以思盡臣節以報厚恩,而意慮淺短,違逆盛旨。然臣愚心所以 事國,志在忠益畢命而已;若乃變心易慮以偷榮取容,此臣所不能也!」吳主辭謝焉。
張昭は老齢だから、引退したい。だが孫権は、張昭を輔吳將軍とした。三公につぐ。張昭は孫権に、言いたいことを言った。孫権は、張昭に折れた。
元城哀王禮卒。
六月,癸卯,繁陽王穆卒。
戊申,追尊高祖大長秋曰高皇帝,夫人吳氏曰高皇後。
229年5月、魏の元城哀王・曹禮が死んだ。229年6月癸卯、繁陽王の曹穆が死んだ。6月戊申、曹叡は、曹騰を高皇帝、曹騰の夫人・吳氏を高皇后とした。
229年秋、陸遜と歩隲が、孫登をたすける
秋,七月,詔曰:「禮,王后無嗣,擇建支子以繼大宗,則當纂正統而奉公義,何 得復顧私親哉!漢宣繼昭帝后,加悼考以皇號;哀帝以外籓援立,而董宏等稱引亡秦, 惑誤時期,既尊恭皇,立廟京都,又宏籓妾,使比長信,敘昭穆於前殿,並四位於東宮, 僭差無度,人神弗祐,而非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍。自是之後,相踵行 之。昔魯文逆祀,罪由夏父;宋國非度,譏在華元。其令公卿有司,深以前世行事為戒, 後嗣萬一有由諸侯入奉大統,則當明為人後之義;敢為佞邪導諛時君,妄建非正之號以 干正統,謂考為皇,稱妣為後,則股肱大臣誅之無赦。其書之金策,藏之宗廟,著於令 典!」
229年秋7月、曹叡は詔した。傍流から即位した皇帝が、その祖先に、皇帝や皇后を贈ってよいかについて。
九月,吳主遷都建業,皆因故府,不復增改,留太子登及尚書九官於武昌,使上大
將軍陸遜輔太子,並掌荊州及豫章二郡事,董督軍國。
南陽劉廙嘗著《先刑後禮論》,
同郡謝景稱之於遜,遜呵景曰:「禮之長於刑久矣;廙以細辯而詭先聖之教,君今侍東
宮,宜遵仁義以彰德音,若彼之談,不須講也!」
太子與西陵都督步騭書,求見啟誨,
騭於是條於時事業在荊州界者及諸僚吏行能以報之,因上疏獎勸曰:「臣聞人君不親小
事,使百官有司各任其職,故舜命九賢,則無所用心,不下廟堂而天下治也。故賢人所
在,折沖萬裡,信國家之利器,崇替之所由也。願明太子重以經意,則天下幸甚!」
229年9月、孫権は建業に遷った。孫登と尚書九官は、武昌にとどめた。上大
將軍の陸遜が、孫登をたすけた。陸遜は、荊州と豫章の2郡の軍事をみた。
かつて南陽の劉廙は、《先刑後禮論》を著した。同郡の謝景は、この本をほめて、陸遜に見せた。陸遜は謝景に言った。「劉廙の言っていることは、まちがっているよ」と。
孫登は、西陵都督の步騭に、手紙を与えた。歩隲は孫登に触発され、孫権に人材の登用を説いた。
張紘還吳迎家,道病卒。臨困,授子靖留箋曰:「自古有國有家者,鹹欲修德政以 比隆盛世,至於其治,多不馨香,非無忠臣賢佐也,由主不勝其情,弗能用耳。夫人情 憚難而趨易,好同而惡異,與治道相反。《傳》曰『從善如登,從惡如崩』,言善之難 也。人君承奕世之基,據自然之勢,操八柄之威,甘易同之歡,無假敢於人,而忠臣挾 難進之術,吐逆耳之言,其不合也,不亦宜乎!離則有釁,巧辯緣間,眩於小忠,戀於 恩愛,賢愚雜錯,黜陟失敘,其所由來,情亂之也。故明君寤之,求賢如饑渴,受諫而 不厭,抑情損欲,以義割恩,則上無偏謬之授,下無希冀之望矣!」吳主省書,為之流 涕。
張紘が病死した。張紘は、子の張靖に手紙をわたした。
孫権は、張紘の手紙を見て、涙をながした。
229年冬、曹叡が法を整備し、諸葛亮が築城する
冬,十月,改平望觀曰聽充觀。帝常言:「獄者,天下之性命也。」每斷大獄,常
詣觀臨聽之。
初,魏文侯師李悝著《法經》六篇,商君受之以相秦。蕭何定《漢律》,
益為九篇,後稍增至六十篇。又有《令》三百餘篇、《決事比》九百六卷,世有增損,
錯糅無常,後人各為章句,馬、鄭諸儒十有餘家,以至於魏。所當用者合二萬六千二百
七十二條,七百七十三萬餘言,覽者益難。帝乃詔但用鄭氏章句。尚書衛覬奏曰:「刑
法者,國家之所貴重而私議之所輕賤;獄吏者,百姓之所縣命而選用者之所卑下。王政
之敝,未必不由此也。請置律博士。」帝從之。又詔司空陳群、散騎常侍劉邵等刪約漢
法,制《新律》十八篇,《州郡令》四十五篇,《尚書官令》、《軍中令》合百八十餘
篇,於《正律》九篇為增,於旁章科令為省矣。
229年冬10月、平望觀をあらためて、聽充觀とよんだ。つねに曹叡は言った。「獄は、天下の性命である」と。曹叡は、つねに裁判に立ち会った。
はじめ魏文侯の師をつとめた李悝は、《法經》六篇を著した。
十一月,洛陽廟成,迎高、太、武、文四神主於鄴。 十二月,雍丘王植徙封東河。 漢丞相亮徙府營於南山下原上,築漢城於沔陽,築樂城於成固。
229年11月、洛陽廟ができた。曹騰、曹嵩、曹操、曹丕の神主を、鄴から洛陽にうつした。
12月、雍丘王の曹植が、東河にうつった。
諸葛亮は、南山に軍営をきずいた。蜀漢は、漢城を沔陽に、樂城を成固に築いた。101118