199年:孫策が劉繇と袁術の遺族をえる
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
199年春:公孫瓚の終わり、袁紹の河北完成
建安4年(199年)春、黒山の張燕は、10万で3道から、公孫瓚を救った。袁紹は、援軍のサインを逆手にとり、公孫瓚を負かした。公孫瓚は焼身し、田楷は戦死した。
漁陽の田豫は、太守の鮮于輔に、曹操に従えと説いた。鮮于輔は曹操から、建忠将軍、都督幽州六郡とされた。
はじめ烏丸王の丘力居が死ぬと、ロウハンが若いから、トウトンが立った。トウトンは、袁紹に協力して公孫瓚を攻めた。
眭固は、射犬にいる。
199年夏:袁術の死
夏4月、曹操は黄河に進軍。史カンと曹仁は、黄河を渡って、射犬の眭固を降した。かつて曹操に背いた魏チュウを捕まえたが、才能があるから用いた。河内太守として、河北の仕事をまかせた。
衛将軍の董承が、車騎将軍となった。
袁術は困窮し、宮殿を焼き払った。廬江郡の潜山にいる、部曲の陳簡と雷薄のもとに、逃げこんだ。陳簡らは、袁術をこばんだ。帝号を袁紹に譲ることにした。袁紹は、青州の袁譚に、袁術を迎えさせる。袁術は下邳をとおって、北に行こうとした。曹操は、劉備と清河の朱霊に、道を防がせた。袁術は、寿春に帰った。
6月、江亭で袁術は「この袁術が、こうなるとはなあ」といって、血を吐いて死んだ。袁術の従弟の袁胤は、曹操を恐れて、あえて寿春にはゆかず、廬江太守の劉勲のいるカン城を頼った。もと広陵太守の徐璆は、伝国璽を献帝に届けた。
袁紹は、主簿の耿包に「袁紹が尊号にふさわしい」と云わせた。支持が得られないので、袁紹は耿包を殺し、なかったことにした。
袁紹は、許都を10万で攻めると云った。
沮授が、国力の疲弊を理由に、いさめた。郭図と審配は、許都を襲うことに賛成だ。沮授をそしった。沮授の軍権を、郭図と淳于瓊に分けた。
曹操は「袁紹のキャラ的に、オレが勝てる」と云った。
孔融は荀彧に、袁紹に勝てないことを説明した。荀彧は孔融に、反論した。
199年秋冬:劉曄が劉勲の軍師をやる
秋8月、曹操は黎陽に進んだ。臧覇らは、青州をおさえた。于禁を河上においた。
9月、曹操は許都にもどり、兵を分けて官渡を守らせた。
袁紹は張繍をさそった。だが賈詡は、曹操に帰順させた。
涼州牧の韋端は、従事をつとめる天水の楊阜とともに、曹操に詣でた。荀彧は、関中を抑える作戦を練った。
袁紹は、劉表に手を伸ばした。南陽の韓嵩が、曹操への使者に。
揚州の賊帥・鄭寶は、淮南の劉曄をまねいた。
劉曄は曹操に味方し、鄭寶を殺した。廬江太守の劉勲は、劉曄をブレーンとした。劉勲は、劉曄のアドバイスを聞かないから、孫策に敗れた。江夏太守の周瑜は、孫策に協力して、袁術と劉勲の妻子を捕まえた。
12月辛亥、孫策は黄祖を沙羨で破った。孫策は華歆を口説いた。
孫策は、豫章郡を分けて、廬陵郡をつくった。孫賁を豫章太守、孫輔を廬陵太守にした。周瑜を巴丘においた。孫策は袁術の妻子を得た。劉繇の死体を手にいれ、劉繇の家族を厚遇した。孫策は、袁術と劉繇への敬意を見せたから、評判があがった。
会稽の功曹である魏騰は、孫策と気が合わない。高岱をうとんだ。
曹操は官渡で暗殺されかけたが、許褚が阻止。
はじめ車騎将軍の董承は、劉備とともに、曹操暗殺をねらった。劉備が逃げちゃった。劉備は下邳で自立した。東海の賊・昌キらが叛き、劉備についた。劉備は「曹操が来なければ大丈夫」とうそぶいた。
おわりに
袁術が死んだので、もう終わりです。笑
199年の袁術死後は、とくに雑でした。
『資治通鑑』は正史の切り貼りです。記事をどこに置いたか、という並び順に価値がある。内容が知りたければ、正史を読んだほうが詳しい。出典が分かれば、リンクだけ貼って、正史に返ったほうが幸せだ。これに気づき、途中から、網羅的に翻訳することをやめました。
そのうち、目次(リンク)を整形します。
そろそろ会社に行かなければいけない、、
もしも、こんな精度で宜しければ、『資治通鑑』の他の年の翻訳を、リクエストしてくださいませ(笑)
100521