1)沈勁伝の翻訳
列伝「忠義」から、沈勁に登場してもらいました。
前半で列伝を翻訳し、後半で考察します。
列伝の翻訳
沈勁,字世堅,吳興武康人也。父充,與王敦構逆,眾敗而逃,為部曲將吳儒所殺。勁當坐誅,鄉人錢舉匿之得免。其後竟殺仇人。勁少有節操,哀父死于非義,志欲立勳以雪先恥。年三十余,以刑家不得仕進。郡將王胡之深異之,及遷平北將軍、司馬刺史,將鎮洛陽,上疏曰:「臣當籓衛山陵,式遏戎狄,雖義督群心,人思自百,然方翦荊棘,奉宣國恩,艱難急病,非才不濟。吳興男子沈勁,清操著於鄉邦,貞固足以幹事。且臣今西,文武義故,吳興人最多,若令勁參臣府事者,見人既悅,義附亦眾。勁父充昔雖得罪先朝,然其門戶累蒙曠蕩,不審可得特垂沛然,許臣所上否?」詔聽之。勁既應命,胡之以疾病解職。
沈勁は、あざなを世堅という。呉興郡の武康県の人だ。父の沈充は、王敦とともに叛逆した。王敦軍が敗れて逃げ、沈充は、手下の部曲の將・呉儒に殺された。沈勁も連座して殺されるところだったが、同郷人の錢舉が匿ってくれたので、殺されずに済んだ。
のちに沈勁は、父の仇を討った。
沈勁は若いときから節操があり、父が殺されたことに、義がないと哀しんだ。沈勁は勲功を積もうと志を立て、父の恥を雪ぎたいと考えた。30余歳になったが、王敦に味方にして刑を受けた家なので、昇進できなかった。
郡將の王胡之は、沈勁の非凡さを深く認めていた。
王胡之は、平北將軍、司馬刺史となり、いよいよ洛陽の守備を任されることになった。王胡之は、上疏した。
「私はついに洛陽で、歴代皇帝の陵墓を護衛しようとしています。ですが、異民族の攻撃はひどい。義があれば人心を集めることができますが、しかし人心とは、もともとバラバラであるもの。カンタンにはまとまりません。私には、洛陽を守りとおす自信がありません。さて、私と同じ呉興郡の男子に、沈勁という人がいます。沈勁は郷里で、清操さが有名です。沈勁なら洛陽の守備を任せても良いでしょう。私はいま西方に遠征していますが、軍には呉興郡の人が最も多い。もし沈勁に守備を任せれば、心情的に統治は円滑でしょう。沈勁の父・沈充は、元帝、明帝のときに王敦に味方して、罪を得ました。しかし沈氏は、もともと叛乱をする家ではありません。私の提案を認めて頂けませんか?」
詔して、沈勁が洛陽を守ることが許された。沈勁は命令に応じて守備に付いたとき、推挙してくれた王胡之は、病気を理由に解職された。
升平中,慕容恪侵逼山陵。時冠軍將軍陳祐守洛陽,眾不過二千,勁自表求配祐效力,因以勁補冠軍長史,令自募壯士,得千餘人,以助祐擊賊,頻以寡制眾。而糧盡援絕,祐懼不能保全。會賊寇許昌,祐因以救許昌為名,興寧三年,留勁以五百人守城,祐率眾而東。會許昌已沒,祐因奔崖塢。勁志欲致命,欣獲死所。尋為恪所攻,城陷,被執,神氣自若。恪奇而將宥之,其中軍將軍慕容虔曰:「勁雖奇士,觀其志度,終不為人用。今若赦之,必為後患。」遂遇害。恪還,從容言于慕容晞曰:「前平廣固,不能濟辟閭,今定洛陽而殺沈勁,實有愧于四海。」朝廷聞而嘉之,贈東陽太守。子赤黔為大長秋。赤黔子叔任,義熙中為益州刺史。
升平中(357-)、慕容恪は侵攻して、山陵に迫った。冠軍將軍の陳祐は洛陽を守ったが、守る兵は2000未満だった。沈勁は自ら上表して、
「陳祐さま、私に采配権を与えて下さい」
と頼んだ。認められて、沈勁は、冠軍長史となった。自ら壯士を募り、1000余人を集めた。
沈勁は、陳祐を助けて、賊を攻撃した。しきりに、少数で大軍を制した。
だが陳祐の軍は、兵糧を食べ尽くしてしまった。陳祐は、自軍を保てなくなることを、懼れた。おりしも賊が許昌を寇した。陳祐は、許昌を救うという名目を作った。
興寧三(365)年、沈勁は500人で洛陽に残された。陳祐は、それ以外の兵を率いて、東(許昌)へ行った。すでに許昌が陥落されていたので、陳祐は崖塢に逃げた。
沈勁は、命令を全うすることを志とした。死に場所を得たことを喜んだ。
慕容恪に攻められて、洛陽が陥落すると、沈勁は捕えられた。沈勁は、神氣が自若としていた。慕容恪は、沈勁の奇特さを認めて、許そうとした。慕容恪の中軍將軍・慕容虔が言った。
「沈勁は奇士です。しかし沈勁の志度を見たところ、われわれ慕容部に従うとは思えません。いま許せば、必ずのちに憂いとなります」
沈勁は、殺害された。
慕容恪が帰還し、從容として慕容晞に言った。
「まえ廣固を平定したとき、辟閭を救うことができなかった。いま洛陽を平定したが、沈勁を殺してしまった。(優れた人を活かせず、殺してしまうとは)まことに四海に愧じるよ」
朝廷は沈勁の死に様を聞き、沈勁を嘉した。沈勁に東陽太守を追贈した。
沈勁の子・沈赤黔は、大長秋となった。沈赤黔の子(沈勁の孫)も叔任され、義熙中(407-418)に益州刺史となった。