2)東晋にとっての洛陽
翻訳が終わったので、考察を加えておきます。
訳し終えて ~東晋の事情~
せっかく東晋は洛陽を取り戻したわけだが、高位の部将を守備に置かなかった。もし、求心力の強い将軍が残っていれば、従う兵が必然的に増える。将軍を「殺さない」ために、洛陽への兵站も、手厚くなる。
だが東晋は、それをしなかった。
桓温が北伐の総大将だ。総大将が自ら残る必要もないが、洛陽守備隊の貧相さは、どういうことか。
桓温は、洛陽への遷都を、くり返し上表した人だ。桓温の政治戦略のなかで、洛陽は欠いてはならない土地である。桓温は、洛陽を放棄しない。ということは、桓温でも思い通りにならないくらい、東晋には、洛陽を諦める考えが蔓延していたと言えるかな。
「兵站を保つのは、コストがかかり過ぎるし、どうせ洛陽のキープはムリ」
という具合に。
諸葛亮が、せっせと桟道を修繕しながら、木牛、流馬を走らせて、このセリフを言うならば、許せます。でも、違う。荊州北部からすんなりと洛陽へ運べるのです。隣接した汝南や頴川も、東晋が持っている。死ぬ気でやれば(死ぬ気の40%くらいになれば)洛陽への兵站を保つことは、できたはず。
通路はいいとして、運ぶべき兵糧がなかった。正解はこっちかも知れないが。東晋は本当に財力がない王朝だからね。
洛陽を取り戻した時点で、西晋のとき洛陽が陥落されてから、40年が経っている。40年前に失った領土に対しては、「自国ではない」という意識の方が、当たり前になってしまうのか。
今にも火が付き添うな政治問題に、蓑を来て突っ込んでいくのはイヤなのだが、例えばこういうこと?
「日本の北方領土は、ずっと日本領だった。だが失って60年以上経つから、もうあげてしまっても仕方ない気がしてきた」
そんなことってあるのか?
まして洛陽は、漢族の長年の都じゃないか。土地柄に優劣はないはずだが、もし京都を外国に取られたら、例え100年経っても、外交手段なりを駆使して、取り戻そうとしないか?
地理的には、物資を運べる。運ぶ兵糧を捻出できなくもない。洛陽を放棄して良いという意識もない。だが、前燕と前秦が台頭していて、軍事的に見て、洛陽を保つのは、ほぼムリだった。
正解はこれか。陳祐の腰の引け方は、こんな感じだ。後趙が滅びた後の混乱で、華北に付け入る隙はある。だが、やがて異民族によって華北が再統合されるだろうから、漢族は手を突っ込まないのが吉だと。
後漢による漢再興、三国が見せた統一意欲、西晋への支持、東晋への期待と侮り・・・これらを見ると、漢族が容易に、中原を頂く天下統一を諦めるとは思えないんだが。もし五胡に打ちのめされたとしても、そんなカンタンに「悟る」ことがあるのか?どうやら、あったようで。
もしくは、三国時代に、分裂を是認する空気が、じわじわ醸成された?東晋になって、クスリが効いてきてしまったか。
習鑿歯の焦り
習鑿歯は『漢晋春秋』にて、中原を領有しない劉備に正統を認めた。これは東晋の現状を、とりあえずは肯定したもの。だが劉備を元気づけることは片手間で、天下統一の重要性を説くことに、主眼がある。
「曹操は全国統一していない。支配王朝としてカウントする必要はない。後漢の次に全国統一したのは、西晋だ。西晋こそ、後漢を継ぐものである」
この頑固な主張の元には、洛陽を心理的に放棄してしまった、東晋の人たちへの抗議が、根強くあるのでしょう。
古代の漢族は、天下統一したくて仕方ない。
そう思っている
ぼくから見ると、奇異にすら映る、統一の主張。あれは、ゼロからプラスに持っていく労力ではなく、マイナスからプラスに持っていくための、労力の掛け方だ。
沈勁も、漏れなく東晋人だ
・・・と、洛陽への執着の薄さについて、いろいろ見てきました。
洛陽に殉じたのは、ひとり沈勁だけ。洛陽に殉じたという理由で列伝が立つ自体、不自然なんだが。みんなが洛陽を必死に守れば、沈勁は名が残らなかったよ。
じゃあ沈勁は、天下統一を志し、往時の漢族の栄誉回復を目指して、洛陽に残ったか。違う。王敦に巻き込まれて死んだ父の無念を晴らすためだ。逆に言えば、無念を晴らすという動機で水増しされないと、洛陽に殉じない。洛陽をただ守りたい!という、単一&純粋な目的は、東晋の人を突き動かすには足りないようです。
王敦の叛乱は、東晋にとってはダメージ以外にナニモノでもない。だが、沈勁という「立志の鬼」を生み出したという点で、歴史的に意義がないわけでもなかった。
歴史を面白くするための、
なかなかの副産物だと思います。090818