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『晋書』列20より、曹操の「孫」
2)秦朗の子、秦秀
秦秀
秦秀,字玄良,新興雲中人也。父朗,魏驍騎將軍。秀少敦學行,以忠直知名。咸甯中,為博士。何曾卒,下禮官議諡。秀議曰:

秦秀は、あざなを玄良という。新興郡の雲中県の人である。父の秦朗は、魏代に驍騎將軍になった。
〈訳注〉秦朗の父は、秦宜禄で、呂布の部将。母が美しく、「呂布が滅びたら私の妻にしたい」と関羽が事前に願っていたが、曹操が横取りしてしまった。連れ子の秦朗は、曹操に可愛がられた。
秦秀は学業に熱心で、忠直な人だと名を知られた。咸甯中(275-280年)、博士になった。何曾が死ぬと、禮官に諡号を話し合わせた。
裴秀は提議した。

故太宰何曾,雖階世族之胤,而少以高亮嚴肅,顯登王朝。事親有色養之名,在官奏科尹模,此二者實得臣子事上之概。然資性驕奢,不循軌則。《詩》雲:「節彼南山,惟石岩岩,赫赫師尹,人具爾瞻。」言其德行高峻,動必以禮耳。丘明有言:「儉,德之恭;侈,惡之大也。」大晉受命,勞廉隱約,曾受寵二代,顯赫累世。暨乎耳順之年,身兼三公之位,食大國之租,荷保傅之貴,執司徒之均。二子皆金貂卿校,列於帝側。方之古人,責深負重,雖舉門盡死,猶不稱位。而乃驕奢過度,名被九域,行不履道,而享位非常。以古義言之,非惟失輔相之宜,違斷金之利也。穢皇代之美,壞人倫之教,生天下之醜,示後生之傲,莫大於此。自近世以來,宰臣輔相,未有受垢辱之聲,被有司之劾,父子塵累而蒙恩貸若曾者也。
(中略)謹按《諡法》:「名與實爽曰繆,怙亂肆行曰醜。」曾之行己,皆與此同,宜諡繆醜公。
時雖不同秀議,而聞者懼焉。


(細かい修辞を飛ばして訳しますが)
もと太宰の何曾は、性格が厳しく、晋朝に有用な提案をしました。ところが性格は驕奢で、軌則に従いませんでした。左丘明は、
「倹約は、これを徳として恭しい。奢侈は、これを惡んで大である」
と言っております。
大晋が天命を受けてから、何曾は2代に渡って恩寵を受け、家が栄えています。何曾は60歳で三公を兼ねて、大国から税収があります。何曾の2人の子は、みな金貂を身に付けて、武帝のそばに列しています。
古代の人は、役職の責任の重さに押しつぶされ、一族で高位に就いても(プレッシャーで)死に絶え、高位を自慢しませんでした。それなのに何曾の驕奢は度を過ぎています。何氏の名は九域を被い、行いは道を外れ、収入のいい高位を楽しんでいます。
古義によれば、宰相の役目を果たさなければ、報酬を受け取るべきでないと言います。何曾は、晋王朝を穢していて、人倫の教えを壊しており、天下に醜態を晒すことは、この上ありません。近世(漢魏)の宰相で、有司に行いを弾劾された人はいませんが、何曾の父子は朝廷の恩に背いているので、弾劾されるべきです。
謹んで《諡法》を読んだところ、
「名と実がちがうことを、『繆』という。乱をたのみ、行いをほしいままにすることを、『醜』という」
と書いてあります。何曾の行跡は、これらの記述とぴったり同じです。何曾に「繆醜公」という諡号を贈ってはいかがでしょうか。
(秦秀の意見はここまで)
秦秀の提議は認められなかったが、これを聞いた人は(あまりに露骨に何曾を批判したことを)懼れた。

秀性忌讒佞,疾之如仇,素輕鄙賈充,及伐吳之役,聞其為大都督,謂所親者曰:「充文案小才,乃居伐國大任,吾將哭以送師。」或止秀曰:「昔蹇叔知秦軍必敗,故哭送其子耳。今吳君無道,國有自亡之形,群率踐境,將不戰而潰。子之哭也,既為不智,乃不赦之罪。」於是乃止。及孫皓降于王濬,充未之知,方以吳未可平,抗表請班師。充表與告捷同至,朝野以充位居人上,智出人下,僉以秀為知言。

秦秀の性格は、讒佞を忌み、讒佞な人を仇のように嫌った。秦秀はふだんから賈充を軽んじていた。
〈訳注〉『晋書』の書き方は、賈充が讒言を好み、君主にへつらった奴だと言っているに等しい(笑)
孫呉を伐つ戦役のとき、賈充が大都督になった。それを聞いた秦秀は、親しい人に言った。
「賈充はろくな才能のない文官のくせに、孫呉を伐つ大任にいる。私は出陣する軍人たちを、哭いて見送ろう」
ある人が、秦秀を止めた。
「むかし蹇叔は、秦軍が必ず敗れると知って、哭いて息子を見送りました。いま呉君(孫皓)は無道で、国はおのずと滅亡しそうな状況です。晋軍が国境を踏めば、戦わずに崩壊するでしょう。あなた(秦秀)は哭いていますが、それは晋と呉の状況を無視した行いです。赦されない罪を負いますよ」
〈訳注〉賈充が率いようが、戦闘が起きないなら晋が勝つ。秦秀にアドバイスした人も、賈充が好きではないらしい。
秦秀は、哭くのを止めた。
孫皓が王濬に投降しても、賈充はそれを知らずに、
「孫呉を平定することが出来ません。どうか追加の兵団を送って下さい」
と上表した。
賈充からの増援依頼と、孫呉を降伏させた勝報が、同時に洛陽に届いた。朝野の人は、
「賈充は人より上の位に就いているが、智恵の回りは人より下だ」
と知った。みな秦秀の正しさを認めた。

及充薨,秀議曰:「充舍宗族弗授,而以異姓為後,悖禮溺情,以亂大倫。昔鄫養外孫莒公子為後,《春秋》書'莒人滅鄫'。聖人豈不知外孫親邪!但以義推之,則無父子耳。又案詔書'自非功如太宰,始封無後如太宰,所取必己自出如太宰,不得以為比'。然則以外孫為後,自非元功顯德,不之得也。天子之禮,蓋可然乎?絕父祖之血食,開朝廷之禍門。《諡法》'昏亂紀度曰荒',請諡荒公。」不從。

賈充が死ぬと、秦秀は提議した。
(秦秀の意見はここから)
賈充は男子を授からなかったので、異姓の養子に家を継がせました。これは礼にもとり、情に溺れたことで、大倫を乱します。むかし鄫(国名)では、外孫の莒(国名)の公子を養子にして、後を継がせました。これを《春秋》は、
「莒人が鄫を滅ぼした」
と記録しています。
《春秋》を書いた聖人(孔子)は、外孫も親族だと知らなかったのでしょうか。後継者は、義理の血縁で後継に選ばれましたが、前代と父子ではありませんでした。
〈訳注〉『春秋』では、出来事に価値判断を加えて記してある。外孫は血縁であるが、家を継がせてはいけない。継がせれば、乗っ取られたに等しい。これが『春秋』の意見だ。
詔書を拝見しますと、
「自非功如太宰,始封無後如太宰,所取必己自出如太宰,不得以為比」
とあります。
それならば、外孫を後継にしたならば、賈充が建国の元勲としてあげた功績を、継承することができません。天子の礼とは、そういうものではありませんか。賈充は、父祖からの血脈や任地を絶やし、朝廷に禍いをもたらす人です。《諡法》には、
「紀度を昏亂させることを、『荒』という」
とあります。賈充には、「荒公」と諡号されますように。
(秦秀の意見はここまで)
武帝は、この提案を却下した。
〈訳注〉悪諡を付けるように提案して、武帝の人材登用の方針を批判しているらしい。生前に攻めると反撃されるから、死体に鞭打つのだ。

王濬有平吳之勳,而為王渾所譖毀。帝雖不從,無明賞罰,以濬為輔國大將軍,天下咸為之怨。秀乃上言曰:「自大晉啟祚,輔國之號,率以舊恩。此為王濬無功之時,受九列之顯位,立功之後更得寵人之辱號也。四海視之,孰不失望!蜀小吳大,平蜀之後,二將皆就加三事,今濬還而降等,天下安得不惑乎!吳之未亡也,雖以三祖之神武,猶躬受其屈。以孫皓之虛名,足以驚動諸夏,每一小出,雖聖心知其垂亡,然中國輒懷惶怖。當爾時,有能借天子百萬之眾,平而有之,與國家結兄弟之交,臣恐朝野實皆甘之耳。今濬舉蜀、漢之卒,數旬而平吳,雖舉吳人之財寶以與之,本非己分有焉,而遽與計校乎?」

王濬は、呉を平定した勲功があったが、王渾に王濬をそしった。武帝は王渾の言いなりにならなかったが、賞罰を明らかにせず、王濬を輔國大將軍にした。天下の人はみな、これを怨んだ。
秦秀は上言した。
「大晋が成立してから、建国を助けた旧恩に報いてきました。王濬はまだ功績がないとき、九列という高い位に就けました。しかし(平呉の)功績を立てたあと、武帝に寵愛されている人(王渾)から、辱めを受けました。四海の人がこれを見たとき、どちらに失望するでしょうか。
〈訳注〉功績のない人を高位にするか、功績のある人を低位にするか、の二者択一だ。どちらも辞めてほしいのだが、、
蜀は小さく、呉は大きな国でした。蜀を平定したあと、王濬と王渾はどちらも昇進しましたが、呉を平定したあと、王濬だけが降格しました。どうして天下が惑わないことがありましょうか。
孫呉は、三祖(懿と師と昭)の神武をもってしても、西晋に身を屈しませんでした。孫皓の虚名は、中原を驚動させるのに充分でした。孫皓がちょっと動くたびに、西晋の人は惶怖を抱きました。
王濬は、天子から100万の兵を借りて、孫呉を平定しました。
――孫呉を平定できないので、晋と呉で兄弟の関係を結ぶ。
朝野の人がそれでも仕方ないねと妥協してしまうことを、私は恐れていました。王濬はそれを防いだのです。
いま王濬は、蜀や漢の兵士を率いて、1ヶ月ほどで呉を平定しました。呉人が財宝を差し出しても、自分の取り分ではないとして、王濬は受け取りませんでした。そんな人物が(王渾が言うように)配下の校尉たちと、にわかに謀反を計画するでしょうか?」

後與劉暾等同議齊王攸事,忤旨,除名。尋複起為博士。秀性悻直,與物多忤。為博士前後垂二十年,卒於官。

のちに劉暾らと、司馬攸を斉国に行かせるべきではないと奏上した。武帝に逆らったので、公職から除名された。のちにまた博士となった。
秦秀の性格は悻直で、他人とよく衝突した。博士を20年間やって、在官のまま死んだ。
曹操の孫の曹志、曹操の外孫(とも呼べないか)の秦秀。どちらも、司馬攸を斉に赴任させることに反対でした。西晋が滅びる原因は、皇族間の対立です。
なぜ司馬氏は、第三者から見たらバカとしか言えない判断をしたのか。
詳しく考えてみたいと思いました。090524
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『晋書』列20より、曹操の「孫」
1)あの曹植の子、曹志
2)連れ子の秦朗の子、秦秀