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劉繇の伯父、循吏の劉寵伝
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1)山越の一銭太守さん
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孫策に追い出された劉繇ですが、素晴らしき家柄の人です。父の劉寵は、『後漢書』の列伝「循吏」に列伝を持っているのです。
劉寵は、あざなを栄祖という。東莱郡牟平県の人。
斉悼恵王の劉肥(劉邦の子)の後裔である。劉肥の子は、孝王の劉将リョという
。
「リョ」は、門構えに「呂」です。
将リョのの少子が、牟平侯に封じられて、子孫はずっとここに家を営んだ。劉寵の父の劉丕は博学で、「通儒」と号した。
劉寵は若くして父の儒教研究を継ぎ、経典に詳しかったから「孝廉」に挙げられた。済南郡の東平陵の県令になり、仁恵を施したから、吏民に愛された。
母が病になったので、官を棄てた。
百姓が出発を見送るとき、道を塞いだので、車が進めなかった。だから劉寵は軽装して、化けて逃げ帰った。それほど慕われたのだ。
4たび官位が変わって、豫章太守になった。また3たび官位が変わり、会稽太守になった。
山地の民は素直で質朴だったから、市井(街の市場)まで入ってこなかった。経済事情に疎い山地の民を騙して、官吏は財産を巻き上げた。
「そんなことをして良いはずがない」
劉寵は、煩瑣で過酷な法令をやめて簡潔にし、非法行為を厳しく取り締まった。だから、豫章や会稽の郡中は、大いに教化が進んだ。
(注)
直接は指摘されていないが、のちの孫呉を苦しめる「山越」と漢民族との宥和政策なんだろう。漢民族が勝手なルールを適用して、山越を苛めていたから、やめさせた。細かい官歴を述べず、あえて豫章郡と会稽郡に着任したときの話を載せているから、間違いない。
子の劉繇は揚州刺史を任されるのだが、父が治政の実績を上げた場所に任命されたことになる。いかにも適任っぽいのに、失敗したのは惜しいことだ(笑)
劉寵は洛陽に召されて、将作大匠(建築土木担当、二千石)になった。劉寵が出発するときのことだ。
山陰県に、5、6人の老人がいた。眉毛に黒毛と白毛が混ざっていた。若邪(会稽の東南)の山谷から出てきて、各人から百銭をカンパして、劉寵を見送った。
劉寵は老人を労った。
「父老がた、なぜご苦労なことをなさったか」
「山谷の鄙生は、まだ郡朝(郡庁)を知りません。他の太守のとき、吏は民間から夜になっても徴発をやめず、狗は夜通しで吠えて、民は安んじることが出来ませんでした。あなたが赴任されて以来、狗は夜に吠えず、民は役人の姿を夜には見ません。年老いて、聖明な太守にめぐり合うことが出来ました。しかしあなたは、この国を去るという。だから老体を支えて、見送りに来ました」
劉寵は答えた。
「私の政治は、公(あなた)の仰ることには及びません。今こうして、ご老人に勤苦させてしまったのですから」
劉寵は、1人1人から、1枚の大きな銭だけを気持ちとして受け取った。
転じて宗正、大鴻臚(諸侯や異民族の世話をする)となった。
161年、黄瓊に代わって司徒となった。しかし陰霧(濃霧が陽気を狂わせる異変)が起きたので、罷免された。しばらくして、将作大匠となり、また宗正となった。
168年、王暢(列伝46)に代わって司空となり、しきりに司徒、大尉に遷った。169年、日蝕で罷免されたから、郷里に帰った。
流暢は、前後で二郡を歴宰し(太守として仕切り)、卿相(九卿と三公)となったが、清潔で倹約し、簡素質朴だったから、家に財産はなかった。かつて洛陽に出て、亭舎(宿場の宿)で休息したいと思った。亭吏がストップをかけた。
「私は準備を整えて、劉寵公の到着を待っているのです。あなたのような貧乏人が泊まることはできない」
劉寵は無言のまま去った。時の人は、劉寵を長者(有徳)の人物であると称えた。
老衰で病を発し、家で死んだ。
宗正は皇族が、大鴻臚は異民族が洛陽に来たときに接待する仕事だ。礼儀正しく人格が深く、そういう人物だったから、任されたのでしょう。その劉寵が、宿屋の役人に無礼な扱いを受けたのは、きっと『後漢書』を書いた人のシャレだろう(笑)
すなわち、いかにも劉寵がやりそうな話ならば、創作し放題だ。
次は、劉繇が登場します。
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このコンテンツの目次
>劉繇の伯父、循吏の劉寵伝
1)山越の一銭太守さん
2)旧代ノ二龍の末路
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