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『後漢書』 百官志の翻訳 1)三公と将軍の背比べ
後漢書 志第二十四  百官一
太傅 太尉 司徒 司空 將軍
漢之初興,承繼大亂,兵不及戢,法度草創,略依秦制,後嗣因循。至景帝,感吳楚之難,始抑損諸侯王。及至武帝,多所改作,然而奢廣,民用匱乏。
世祖中興,務從節約,並官省職,費減億計,所以補複殘缺,及身未改,而四海從風,中國安樂者也。


太傅 太尉 司徒 司空 將軍
漢が成立し、秦末の大乱が収まると、戦闘は止んだ。 法度の作成に取り掛かったが、ほぼ秦の制度を継承して、以前のままだった。 景帝のときに、呉楚七国ノ乱が起きたので、諸侯王の権威を抑え始めた。武帝に到って多くを改定したが、官制は無駄が多く豪華で、民は窮乏した。
光武帝が漢を中興すると、節約に努めて、官を並べて職を省き(組織を合理化して)、億銭の経費削減をした。重複や漏れを修正し、聖域なき改革をやった。
四海(全土)は光武帝の方針に従い、中原は安楽となった。

昔周公作《周官》,分職著明,法度相持,王室雖微,猶能久存。今其遺書,所以觀周室牧民之德既至,又其有益來事之範,殆未有所窮也。
故新汲令王隆作《小學漢官篇》,諸文倜說,較略不究。唯班固著《百官公卿表》,記漢承秦置官本末,訖于王莽,差有條貫;然皆孝武奢廣之事,又職分未悉。世祖節約之制,宜為常憲,故依其官簿,粗注職分,以為《百官志》。凡置官之本及中興所省,無因複見者,既在《漢書•百官表》,不復悉載。


むかし周公が『周官』を作ったとき、職を明確に分け、法度を維持させた。周王室が衰微しても、『周官』だけは久しく伝わった。『周官』が記すところによれば、周王室の徳治は浸透し、前例は役立てられ、ほとんど貧窮する人がいなかったそうだ。
もと新汲令だった王隆が書いた『小學漢官篇』は、諸文が優れているが、大まかで詳しくない。班固が著した『百官公卿表』は、漢が秦を継いで設置した官から書かれていて役立つ資料だが、王莽の時代で終わっていて、後漢を知ることは出来ない。班固が書いたのは、前漢ノ武帝の時代のムダが多い官制で、後漢に比べると、職能がきっちり書かれていない。
光武帝が合理化した官制を、見やすくまとめておくべきだから、役所の帳簿を参考に、だいたいの職分を説明して『百官志』とする。前漢で置かれていたポストのうち、後漢になって省かれたものは、もう班固の『漢書・百官表』に載っているから、重複して載せない。

太傅,上公一人。本注曰:掌以善導,無常職。世祖以卓茂為太傅,薨,因省。其後每帝初即位,輒置太傅錄尚書事,薨,輒省。

太傅は、三公より上位で、定員1名。本注曰く、善導を以ってつかさどる。常に置かれる職ではない。光武帝は、卓茂を太傅として、卓茂が死んだら太傅の職を省いた。後に皇帝が即位するごとに、太傅と録尚書事を設置し、着任者が死去すると省かれた。

太尉,公一人。本注曰:掌四方兵事功課,歲盡即奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事,掌亞獻;大喪則告諡南郊。凡國有大造大疑,則與司徒、司空通而論之。國有過事,則與二公通諫爭之。世祖即位,為大司馬。建武二十七年,改為太尉。

大尉は三公で、定員は1名。本注曰く、四方の兵事と戦功の査定をつかさどり、毎年賞罰を奏上した。郊祀の儀式のとき、亞獻をつかさどった。亞獻とはすなわち、皇帝が崩御して大喪となると、南郊に諡号を報告することだ。重大な造反や疑獄があると、司徒と司空とともに対処を話し合った。皇帝に過失があれば、司徒と司空とともに諌めた。光武帝が即位したときは、「大司馬」と呼んだが、建武27年に「大尉」と改称された。

長史一人,千石。本注曰:署諸曹事。
掾史屬二十四人。本注曰:《漢舊注》東西曹掾比四百石,餘掾比三百石,屬比二百石,故曰公府掾,比古元士三命者也。或曰,漢初掾史辟,皆上言之,故有秩比命士,其所不言,則為百石屬。其後皆自辟除,故通為百石雲。西曹主府史署用。東曹主二千石長史遷除及軍吏。戶曹主民戶、祠祀、農桑。奏曹主奏議事。辭曹主辭訟事。法曹主郵驛科程事。尉曹主卒徒轉運事。賊曹主盜賊事。決曹主罪法事。兵曹主兵事。金曹主貨幣、鹽、鐵事。倉曹主倉穀事。黃閣主簿錄省從事。
令史及禦屬二十三人。本注曰:《漢舊注》公令史百石,自中興以後,注不說石數。禦屬主為公卿。閣下令史主閣下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其餘令史,各典曹文書。


大尉の長史は1人で、千石である。本注曰く、長史とは、もろもろの軍事を補佐する役職である。
大尉の掾史属は24人である。本注曰く、『漢舊注』によれば、東西の曹掾は比四百石の仕事で、その他の掾は比三百石で、属は比二百石だった。(以下、大尉の属官の話は略)

司徒,公一人。本注曰:掌人民事。凡教民孝悌、遜順、謙儉,養生送死之事,則議其制,建其度。凡四方民事功課,歲盡則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事,掌省牲視氵翟,大喪則掌奉安梓宮。凡國有大疑大事,與太尉同。世祖即位,為大司徒,建武二十七年,去「大」。
長史一人,千石。掾屬三十一人。令史及禦屬三十六人。本注曰:世祖即位,以武帝故事置司直,居丞相府,助督錄諸州,建武十八年省也。


司徒は三公で、定員は1名。本注曰く、司徒は民政をつかさどる。民に、孝悌・遜順・謙倹・養生・送死のことを教えて導くことが職務である。儒教的な生活態度を話し合い、ルールを作った。四方の民政の功績を査定し、毎年賞罰を奏上した。郊祀や大喪のときに、(大尉のように)特定の役割を持った。重大な政治問題があれば、大尉のところに書かれていたように、三公で話し合った。
光武帝が即位したときは「大司徒」と言ったが、建武27年に「大」の字を省いて「司徒」になった。
長史は1人で、千石である。掾属は31人で、令史および御属は36人だった。本注曰く、光武帝が即位したとき、前漢ノ武帝が「司直」を置いた故事に倣って、「丞相府」を設置した。丞相府は、諸州を監督したが、建武18年に省かれた。

司空,公一人。本注曰:掌水土事。凡營城起邑、浚溝洫、修墳防之事,則議其利,建其功。凡四方水土功課,歲盡則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事,掌掃除、樂器,大喪則掌將校複土。凡國有大造大疑,諫爭,與太尉同。世祖即位,為大司空,建武二十七年,去「大」。
屬長史一人,千石。掾屬二十九人。令史及禦屬四十二人。


司空は、三公で定員は1名である。本注曰く、治水と土木をつかさどる。城邑を建設して、堤防を築き、墳墓や防壁を修繕することが職務である。工事のメリットを話し合い、実施させた。四方の治水・土木について査定し、賞罰を奏上した。郊祀のときは、掃除と楽器をつかさどり、大喪のときは将校が複土することを担当した。
国政への関与は、大尉と同じである。光武帝が即位したときは「大司空」と言ったが、建武27年に「大」の字を省いた。
司空に属する長史は1名で、千石だった。掾属は29名で、令史および御属は42人だった。

將軍,不常置。本注曰:掌征伐背叛。比公者四:第一大將軍,次驃騎將軍,次車騎將軍,次衛將軍。又有前、後、左、右將軍。
初,武帝以衛青數征伐有功,以為大將軍,欲尊寵之。以古尊官唯有三公,皆將軍始自秦、晉,以為卿號,故置大司馬官號以冠之。其後霍光、王鳳等皆然。成帝綏和元年,賜大司馬印綬,罷將軍官。
世祖中興,吳漢以大將軍為大司馬,景丹為驃騎大將軍,位在公下,及前、後、左、右雜號將軍眾多,皆主征伐,事訖皆罷。
明帝初即位,以弟東平王蒼有賢才,以為驃騎將軍;以王故,位在公上,數年後罷。章帝即位,西羌反,故以舅馬防行車騎將軍征之,還後罷。
和帝即位,以舅竇憲為車騎將軍,征匈奴,位在公下;還複有功,遷大將軍,位在公上;複征西羌,還免官,罷。安帝即位,西羌寇亂,複以舅鄧騭為車騎將軍征之,還遷大將軍,位如憲,數年複罷。
自安帝政治衰缺,始以嫡舅耿寶為大將軍,常在京都。順帝即位,又以皇后父、兄、弟相繼為大將軍,如三公焉。

将軍は、常に置かれた官ではない。背反した人の征伐を担当した。三公と同レベルの将軍は4つである。第一に「大将軍」で、次は「驃騎将軍」で、「車騎将軍」「衛将軍」と続く。また「前将軍」「後将軍」「左将軍」「右将軍」というのもある。
はじめ前漢ノ武帝は、衛青が征伐に功があったから、「大将軍」にして衛青を讃えた。古代より尊い官は「三公」だけであり、「将軍」というのは(春秋戦国の)秦や晋では「卿」にとどまった。ゆえに「大司馬」の官を「将軍」の上に設置して、三公並みとした。衛青より後の、霍光や王鳳も同じである。成帝の綏和元年、大司馬の印綬を賜って、将軍の官を返上させている。
光武帝が即位すると、呉漢を「大将軍」から引き上げて、三公並みにするために「大司馬」とした。景丹を「驃騎大将軍」とした。将軍の位は三公の下で、また前後左右や雑号将軍がとても多く、征伐を担当するという職務内容もかぶっていたから、称号を整理するために罷免した。
2代明帝が即位すると、弟で東平王の劉蒼に賢才があったから、驃騎将軍に任命した。王が就いたのだから、三公よりも上位であった。数年して罷めた。3代章帝が即位すると、西羌が背いたので、外戚の馬防に車騎将軍を兼任させて、討伐させた。帰還した後に罷めた。
4代和帝が即位すると、外戚の竇憲を車騎将軍にして、匈奴を制圧させたが、三公の下位であった。竇憲に軍功があったから、大将軍に遷らせ、三公の上位となった。竇憲は再び西羌を征伐して、帰還した後に罷めた。 安帝が即位すると、西羌が寇乱してきたから、また外戚の鄧騭を車騎将軍にして征伐させ、帰還してから竇憲と同じように大将軍とした。数年で罷めた。
安帝の時代から政治は衰欠した。皇后の外戚の耿寶を大将軍としたが、ずっと洛陽にいた。順帝が即位すると、皇后の父・兄・弟が大将軍を継承した。三公と同じレベルにまで、「将軍」号が格上げされたのだ。

長史、司馬皆一人,千石。本注曰:司馬主兵,如太尉。從事中郎二人,六百石。本注曰:職參謀議,掾屬二十九人。令史及禦屬三十一人。本注曰:此皆府員職也。又賜官騎三十人及鼓吹。
其領軍皆有部曲。大將軍營五部,部校尉一人,比二千石;軍司馬一人,比千石。部下有曲,曲有軍候一人,比六百石。曲下有屯,屯長一人,比二百石。其不置校尉部,但軍司馬一人。又有軍假司馬、假候,皆為副貳。其別營領屬為別部司馬,其兵多少各隨時宜。門有門侯。其餘將軍,置以征伐,無員職,亦有部曲、司馬、軍候以領兵。其職吏部集各一人,總知營事。兵曹掾史主兵事器械。稟假掾史主稟假禁司。又置外刺、刺奸,主罪法。
明帝初置度遼將軍,以衛南單于眾新降有二心者,後數有不安,遂為常守。


将軍は、長史と司馬を1人ずつ置いて、千石だった。本注曰く、司馬とは大尉のように兵を率いた。(以下略)
明帝は「度遼将軍」を置いて、南単于の民を守らせた。のちに、新たに降伏した人々に二心があって国家を脅かしたので、常置の官となった。
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1)三公と将軍の背比べ
2)寄せては返す郡と国