いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』口語訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『後漢書』 百官志の翻訳 2)寄せては返す郡と国
志第二十八  百官五
州郡 縣鄉 亭裏 匈奴中郎將 烏桓校尉 護羌校尉 王國 宋衛國 列侯 關內侯 四夷國 百官奉
外十二州,每州刺史一人,六百石。本注曰:秦有監禦史,監諸郡,漢興省之,但遣丞相史分刺諸州,無常官。孝武帝初置刺史十三人,秩六百石。成帝更為牧,秩二千石。建武十八年,複為刺史,十二人各主一州,其一州屬司隸校尉。諸州常以八月巡行所部郡國,錄囚徒,考殿最。初歲盡詣京都奏事,中興但因計吏。
皆有從事史、假佐。本注曰:員職略與司隸同,無都官從事,其功曹從事為治中從事。


後漢代は外に12州あり、州ごとに刺史の定員は1名で、六百石であった。本注曰く、秦には「監禦史」という官があって、諸郡を監督したが、前漢が興ると省かれた。ただし「丞相史分刺」を諸州に遣わして地方政治を見たが、常置の官ではなかった。
武帝のとき初めて刺史13名が設置され、秩禄は六百石だった。成帝が「牧」と改め、二千石とした。建武18年、また「刺史」に戻して、12人にそれぞれ1州を担当させた。中央の1州は司隷校尉に属した。諸州では、毎年8月に所領の郡国を巡行し、囚人を管理し、人材を査定した。前漢では毎年洛陽に出かけて奏上をしていたが、後漢では立場が弱まり、計吏の役割だけが宛てられた。
みな従事史を持ち、補佐をさせた。本注曰く、従事史の定員は司隷と同じである。みなが官従事ではなく、その功曹従事を治中従事とした。
【追記】9nf氏はいう。(引用はじめ)「都」は「すべて」という意味ではなく、「都官従事」と訳したほうが良いかもしれないと思いました。同『後漢書』百官志の司隷校尉について記述した箇所を参考にして翻訳すると、"みな、従事史と、仮佐を持っていた。本注に曰く、その員職は、司隷校尉とだいたい同じであるが、都官従事が無いし、司隷校尉における功曹従事を、治中従事と呼ぶ。" となるのかなと。(引用おわり)

豫州部郡國六,冀州部九,兗州部八,徐州部五,青州部六,荊州部七,揚州部六,益州部十二,涼州部十二,並州部九,幽州部十一,交州部七,凡九十八。其二十七王國相,其七十一郡太守。其屬國都尉。屬國,分郡離遠縣置之,如郡差小,置本郡名。世祖並省郡縣四百餘所,後世稍複增之。

豫州には郡国が6あり(中略)全国で98の郡国があった。27の王国は「相」が治め、71の郡は「太守」が治め、その属国は「都尉」が治めた。属国とは、郡を分割して遠方の県に置いたもので、郡の名前を頭につけて「××属国」と呼んだ。光武帝は郡県を統廃合して400余としたが、代を重ねるごとにウジャウジャと増えた。

凡州所監都為京都,置尹一人,二千石,丞一人,每郡置太守一人,二千石,丞一人。郡當邊戍者,丞為長史。王國之相亦如之。每屬國置都尉一人,比二千石,丞一人。(後略)

全ての州を洛陽で束ねるため、尹(長官)1名を置き、二千石。丞(副官)は1人である。郡は太守が1名で二千石、丞が1名。辺境の郡では、副官は長史といった。王国の相も同じである。属国には都尉を1名置き、比二千石である。丞が1名。(後略)


皇子封王,其郡為國,每置傅一人,相一人,皆二千石。本注曰:傅主導王以善,禮如師,不臣也。相如太守。其長史,如郡丞。
漢初立諸王,因項羽所立諸王之制,地既廣大,且至千里。又其官職,傅為太傅,相為丞相,又有御史大夫及諸卿,皆秩二千石,百官皆如朝廷。國家唯為置丞相,其御史大夫以下皆自置之。
至景帝時,吳、楚七國恃其國大,遂以作亂,幾危漢室。及其誅滅,景帝懲之,遂令諸王不得治民,令內史主治民,改丞相曰相,省御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士官。武帝改漢內史、中尉、郎中令之名,而王國如故,員職皆朝廷為署,不得自置。至成帝省內史治民,更令相治民,太傅但曰傅。

皇子を王に封じ、任じられた郡は「国」とした。国ごとに、「傅」「相」を1人ずつ置いて、みな二千石だった。本注曰く、「傅」は王を善導する仕事で、師のように礼を払わせ、臣の扱いではなかった。「相」は太守と同じで、その「長史」は郡の「丞」と同じである。
漢がはじめに諸王を立てたとき、項羽が設定した諸王ノ制を継承したため、王国の領地はすでに広大で、千里に到った。王国の官職の「傅」を「太傅」として、「相」を「丞相」として、王国の地位を上げた。また御史大夫や諸卿も設置されていて、みな二千石だった。百官が王国にある様子は、まるで朝廷と同じだった。 朝廷は、国に「丞相」を置くように口出しするだけで、御史大夫以下はお任せにした。
景帝のとき、呉楚七国は、領国が大きくて強いことを恃んで叛乱し、漢室を脅かした。謀反を誅滅すると、景帝は国を懲罰して、諸王から民を治める権力を奪い、内史(役人)に行政を担当させた。「丞相」は「相」に戻し、御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士官を国に置くことを禁じた。
武帝は朝廷で、内史、中尉、郎中令の名を改めたが、王国での呼び名はそのままとした。王国の組織は朝廷が掌握し、独自に設置することを禁じた。成帝のとき、内史を省いて、相に民を治めさせた。太傅を、ただ「傅」と呼ばせた。

衛公、宋公。本注曰:建武二年,封周後姬常為周承休公;五年,封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年,改常為衛公,安為宋公,以為漢賓,在三公上。
列侯,所食縣為侯國。本注曰:承秦爵二十等,為徹侯,金印紫綬,以賞有功。功大者食縣,小者食鄉、亭,得臣其所食吏民。後避武帝諱,為列侯。武帝元朔二年,令諸王得推恩分眾子土,國家為封,亦為列侯。舊列侯奉朝請在長安者,位次三公。中興以來,唯以功德賜位特進者,次軍騎將軍;賜位朝侯,次五校尉;賜位侍祠侯,次大夫。其餘以□附及公主子孫奉墳墓於京都者,亦隨時見會,位在博士、議郎下。
諸王封者受茅土,歸以立社稷,禮也。列土、特進、朝侯賀正月執璧雲。


衛公、宋公。本注曰く、建武2年、周の後裔である姫常を、「周承休公」にした。建武5年、殷の後裔である孔安を、「殷紹嘉公」にした。建武13年、姫常を「衛公」に改封し、孔安を「宋公」に改封して、漢室の賓客とし、三公の上位とした。
列侯が食邑とした県を、「侯国」と呼んだ。本注曰く、秦代の爵位20等を受け継いで、「徹侯」には金印紫綬を与え、功績を賞した。功績が大きければ「県」を与えられ、小さければ「郷」「亭」を与えられ、臣と民を持てた。のちに武帝の名(劉徹)を避けて、「列侯」と言った。武帝の元朔2年、諸王の子に領土を分けてやり、国王や列侯にしてやった。前漢の列侯で、朝廷の命令で長安にいた人は、位は三公に次いだ。
後漢になると、功徳があって特進の位を賜った人は、軍騎将軍の下だった。朝侯の位を賜った人は、五校尉の下だった。侍祠侯の位を賜った人は、大夫の下だった。その他の列侯や、皇族の末裔で洛陽に祖先の墳墓がある人や、皇帝への面会を許された人は、博士や議郎の下位であった。
諸王のうち領土に封じられた人は、任地で社稷を祭ることがルールであった。列土、特進、朝侯は、正月を賀して璧雲を執った。

百官受奉例:大將軍、三公奉,月三百五十斛。中二千石奉,月百八十斛。二千石奉,月百二十斛。比二千石奉,月百斛。千石奉,月八十斛。六百石奉,月七十斛。比六百石奉,月五十斛。四百石奉,月四十五斛。比四百石奉,月四十斛。三百石奉,月四十斛。比三百石奉,月三十七斛。二百石奉,月三十斛。比二百石奉,月二十七斛。一百石奉,月十六斛。鬥食奉,月十一斛。佐史奉,月八斛。凡諸受奉,皆半錢半穀。

百官がもらった俸禄の例は以下の通り。
大将軍と三公は、月に350石。中二千石は、月に180石。二千石は、月に120石。比二千石は、月に100石。千石は、月に80石。六百石は、月に70石。比六百石は、月に50石。四百石は、月に45石。比四百石は、月に40石。三百石は、月に40石。比三百石は、月に37石。二百石は、月に30石。比二百石は、月に27石。百石は、月に16石。鬥食は月に11石で、佐史は月に8石。
全て半分は通貨で、半分は穀物で支払われた。


後漢は、前漢を修正した官制を持っていたというイメージの残る書き方でした。オリジナルな王朝という位置づけではない。
三公は、建武27年に名称がスケールダウンされた。将軍は、三公との優劣をせめぎ合いながら、少しずつ地位向上した。『後漢書』を作った人は、三公の上か下かで、将軍が「粗野な兵子の頭目」なのか「文人も一目置くべき政治家」なのか、区別しているのかなあ。

地方政治は、緩めたり締めたり、波があります。秦がガチガチにしたから、漢はまず放任した。やがて「刺史」を置き、「牧」を置いて強く統治したのに、後漢は緩めた。黄巾ノ乱が起きた後に、劉焉が「牧を置きましょう」と言い出すが、あれは前漢への回帰だったのか。
「権限の強い牧を設置したせいで、群雄割拠が促進された」
そういう指摘が一般的かと思っていたが、むしろ狙いは逆で、強い漢の復活を狙った建策だと言える。
もっとも、劉焉の腹の内は知りませんが。

王国については、秦の郡県制の失敗を項羽が見て、戦国時代みたく王国が並立する体制に戻した。前漢もこれを踏襲せざるを得なかった。前漢の王朝が持っていた寿命200年は、王国から権力を剥いでいくことに費やされたようだ。これは後漢にきっちり受け継がれ、三国志に登場する劉氏の王は貧弱です。
しかし、あまり有能な感じのしない劉表や劉璋の統治が成立した背景には、「王国」という観念が根強く残っていたからだろう。090325
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
>『後漢書』 百官志の翻訳
1)三公と将軍の背比べ
2)寄せては返す郡と国