1)三国ファンが、劉裕を読む意味
劉裕は、東晋を滅ぼした人です。
歴史用語として「六朝」と言うとき、孫呉、東晋ときて、宋斉梁陳が続きます。通史を読んで思ったのは、宋の文帝(劉裕の子)以降は、三国ファンが想像するような意味での「王朝」は存在しないな、ということ。
『三国志』の面白さが消えてしまう時代、すなわちぼくにとっての「三国志の後日談」の終わりを、西暦450年ごろ、宋に置きたい。だから、450年までは知りたい。『宋書』に手を出そうと思いました。
『三国志』が描く、王朝と皇帝
三国ファンにとっての王朝では、皇族は不可侵な存在で、幼かったりバカだったりしても、簡単に手出しはされません。
もし皇帝を傷つけようものなら、たとえ加害者に正しさや強さがあっても、許してもらえません。
まず漢帝がそういう至高な扱いを受けた。三国でも同じ。ただの力の論理では解決できない、無言の尊さがあったから、『三国志』は面白い。
曹操は献帝のおかげで勝った。同じ曹操は、晩年は苦労した。劉備に活躍の場が生まれた。孫権は即位に躊躇した。国力が拮抗しない三国が鼎立するという、純粋な武力闘争では生まれ得ない状況が維持されたのは、皇帝を尊ぶ文化があったおかげだ。
ただの殴り合いは、30分で飽きる。そうではないから、『三国志』は面白い。
晋代も同じだ。無能な司馬衷ですら、時代を乱すだけの影響力を持てた。自由競争社会なら、誰にも相手にされない男だったろうに。
東晋皇帝は、弱くても祭り上げられた。
「強い臣下に怯える皇帝」
という図式が、そもそも前提として、皇帝を敬っているんだ。弱い皇帝ならば、物理的にはひと捻りで殺せる。だが殺せないから、生かしておくしかない。生きている間は、怯えてもらうことになる。君主権力が弱いくせに、東晋が100年続いたのは、三国時代と同じで、皇帝を敬えという信仰のおかげだ。
『三国志』を好きになったのと同じ文脈で、ぼくは両晋が好きだ。
東晋までは、皇帝の位は、臣下の出世階段の延長上にはない。臣下と皇帝は別物であって、臣下が昇れるのは、臣下の最上段までだ。
皇帝になるためには、禅譲という、とても面倒くさい手続きを新たに踏まねばならん。臣下の3位から2位、2位から1位に昇るのとは、根本的に違う。
さらに禅譲は、世論の支持が得られないという、非常に大きなリスクが伴う。どれだけ勲功が大きくても、血筋が尊くても、不充分である。もっと漠然とした、社会の空気のようなものと向き合わねばならん。たとえ力が弱くても、文化的に影響力のある人に批判されては、揺らいでしまう。
『三国志』が面白い理由
語り始めたらキリがないが、今回のテーマに即した側面だけでも。
歴史は、文字というフィルターを通して過去を想像する営みである。文化的な闘争は、文字として残りやすい。歴史を面白くすると思う。
文字史料は、戦争の実況中継ではないから、血沸き肉躍るという戦闘を楽しむには、不向きである。正史にしろ、金石文にしろ、出土した木片にしろ、戦闘の臨場感を伝えるために書かれたものは、1つもない。もし戦功が書かれていても、政治的なアピールが目的だろう。
単なる殺し合いの羅列は、ぼくは好きではない。単なる殺しに、どんな言い訳をし、どんな意味を持たせたかに、興味がある。皇帝を敬うべしという信仰は、英雄たちをたくさん悩ませ、言い訳を量産させる根源である。
時代が下って、宋の後半になると、皇帝が敬われなくなる。開き直ったように、人が殺しあう。なんの理由づけもない。もし正当化の理屈を吐いていても、薄っぺらい。南朝の人々の言い分は、1時間で飽きる。
「強いから殺した。弱いから殺された。それが何か?」
という具合に、要約できてしまうだろう。途端にぼくは、史料を読むのがつまらなくなる。
南朝の皇帝
いま中公文庫の『中国文明の歴史4 分裂の時代-魏晋南北朝』で、通史を読んだばかりです。
宋以降の南朝は、軍人政権だ。たまたま力を持った軍人の家で、たまたま有利な順序で生まれた人が、皇帝である。だから、他氏とはいがみ合うし、同族とはもっといがみ合う。権力が不安定だから、皇帝は容易に凶暴化する。
三国ファンの感覚で語れば、漢魏で、政権の担当者が交代するくらいの軽さと頻度で、易姓革命が起きる。変わるたびに、未来の叛乱の芽を刈り取る。すなわち皆殺しする。
東晋のとき、華北では五胡が、血で血を洗って、見境なく後継争いをした。五胡と同じことを、漢族も華南で始めてしまった。ただそれだけだ。
いちおう王朝が立つし、皇帝を名乗るし、禅譲の手続きが取られる。だが、ママゴトである。王莽や曹操の苦悩は、5%も引き継がれていない。ただの醜悪な放伐を、禅譲と言っているだけだ。
人は本来、利己的な動物だと思う。制約がなければ、最も少ない労力で、最も大きな成果を得たいと思う。胡族にせよ、漢族にせよ、人間だ。勝者が敗者を殺しまくるのが、もっとも自然な姿だ。南朝が転落したのではなく、後漢が特殊だったのかも知れない。
もっと先の話をする。宮崎市定『隋の煬帝』によれば、隋の文帝も煬帝も、敵対した人を殺しまくった。宮崎氏のいう「古い型の天子」とは、五胡や南朝の漢族みたいに、ただ殺すだけの行動パタンを指すのだろう。
正史の1つ『北史』には、隋も北朝の1つに含まれているんだって。
東晋が滅びて、失われてしまった文化的な権力闘争は、唐まで待たねばならんらしい。待てないよ。
劉裕を読む意味
前漢末に、皇帝とはどうあるべきかが議論された。この一連の検討の結果、王莽は禅譲という手続きを発明した。班固は、永続する漢帝国という幻想を発明した。後漢は議論の集大成として、白虎観で会議をして、儒教を国教化した。
このときの発明が陳腐化し、省みられなくなるのが、東晋末から劉宋前期だろう。陳腐化する過程を、『宋書』を読んで確認していきたい。劉裕その人だけが、古代帝国の破壊者だと言いたいんじゃない。本紀の本来の機能として、「時代」を見たいのだ。
五胡に華北を奪われたままで、仏教が広がり始めた時期でもある。『三国志』の前提が崩れていく様子を、知っておきたいのです。
劉裕の子の文帝のとき、裴松之の注が付けられたというのも、三国ファンとしてはポイントが高いでしょう。失われていくからこそ、保存された。
いきなり『宋書』「文帝紀」を読んでも、わけが分からんだろうから、やっぱり劉裕の「武帝紀」から読みましょうというわけで。