表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第一「武帝紀」を読む/劉裕の伝記

8)洛陽と長安を観光した

劉裕は、司馬休之に下心を暴かれました。

司馬休之との論戦

司馬休之に対する、劉裕の反論。
「司馬文思の素行の悪さは、天下が知っていた。だが優しい私は気を利かせて、処分を司馬休之に委ねた。だが司馬休之は、ちっとも反省せず、口先で謝っただけである。それどころか、私を批判する上表をしやがった。だから私は、司馬休之の父子を懲らしめるため、荊州に出兵してきたのだ」
ついに劉裕は、司馬休之を黙らせるため、兵を動かし始めた。反論を読めば、典型的な対立である。言い分が異なるのは、当たり前である。
劉裕は脅した。
「私の目的は、司馬休之だけだ。江陵の人たちは、司馬休之にムリに従わされているだけだろ。罪はない。私に降伏する人は、どんどん登用する」

司馬休之の側の反論。配下の、韓延之が書いてる。
「劉裕さん、あなたの出兵の理由は、筋が通っていません。司馬休之は、劉裕さんに恭順を誓っている。素行の悪かった司馬文思は、すぐに官職を辞職した。何がいけないのですか」
言葉とは無力ですね。
劉裕は、出兵をするために、司馬文思を咎めた。咎めたから出兵したのではない。もし論破したとしても、出兵が取りやめられることはない。ディベート大会なら、司馬休之に軍配が上がる。だが、現実社会は、論理的妥当性よりも、力の強さが優先されるのだ。
とは言え、司馬休之は、言うべきことを言うしか、やりようがない。天下が振り向いてくれるのを、ひたすら願うしかない。言葉は、力を超えて人を動かすことだってある。
「劉裕さん、海内の人で、誰があなたの心を知らないでしょうか
ああ、名台詞。
原文は、「劉裕足下、海内之人、誰不見足下此心」です。三国ファンなら、必ず連想することでしょう。曹髦が苦し紛れに、
司馬昭の心は、道行く人も知っている」
と言ったのを。あれから150年くらい経っていますが、司馬氏は、あのときの曹髦を同じ状態になりました。因果なことです。

言葉責めにされた劉裕は、感心して、
「人に仕えるなら、主君のためにこれくらい言えないとなあ
と左右の人に話した。
劉裕は、文筆の人じゃない。だから、あっさり議論では勝ちを譲ってしまう。だが、軍事にはプライドがある。江陵に司馬休之を攻めた。司馬休之は、北秦に逃げた。敵の敵は味方、という節操のないロジックだ。

王莽の前例を裏切る

皇族を叩き潰した劉裕。
415年4月、劉裕は、太傅、揚州牧を授かり、劍履上殿、入朝不趨、贊拜不名を許され、前部羽葆を加えられた。
いちおう王莽や曹丕を踏まえている。だが先の話をすると、漢魏が作った禅譲の故事をぶち壊すのは、劉裕である。なぜなら、禅譲をしてくれた東晋の恭帝を、殺してしまうのだ。

「茶番」と言われようが、禅譲は完成度の高い文化的な行事だ。前王朝の皇帝のプライベートな意思はどうあれ、公の判断として主体的に、有徳者に位を譲るのである。
前の皇帝を殺してしまっては、禅譲ではない。ガッカリだ。

後秦を攻める

劉裕は、後燕を滅ぼして、関中・洛陽を平定するつもりだった。だが盧循が挙兵したせいで、華南に戻ってきた。
いまチャンスが到来した。
後秦では、姚興が死んで、子の姚泓が立ったが、兄弟で殺しあった。劉裕は、北伐を上表した。上表しても、決裁するのは自分なんだけどね。

大司馬・瑯邪王を祭り上げて、北伐をした。『宋書』の本紀を読んだだけでは気づかないが、このとき北魏との折衝が生じた。劉裕の主力は水軍である。水路から、後秦の洛陽に入るには、北魏の領土を通らなければならない。のちに華北を統一する北魏ですが、このときはまだ弱い。抵抗らしい抵抗もなく、劉裕の水軍は通過した。
北魏に仕えた漢族として有名なのは、崔浩です。
「東晋が関中を保つのは無理だから、邪魔する必要はない」
と、暗に東晋を擁護した発言をしたのは、このときです。崔浩は却下されたんだが、北魏は劉裕を妨げられなかった。時流は劉裕の味方だから、崔浩の不採用を嘆く必要はない。
匈奴のカクレンボツボツも、東晋が関中を保てないと見抜いていた。東晋が後秦を滅ぼしてくれるのを、わざと静観したらしい。

洛陽と長安のショートステイ

洛陽を取り戻し、晋の五陵を修復した。 『三国志』で同じことをしたのは、孫堅です。修復という行為が、とても漢族の世論を捕えるようで。
劉裕は、相國に進み、10郡で宋公に封じられた。九錫が与えられた。東晋皇帝の詔として、古代から説き起こして感激しまくった文章が載っているけれど、べつに新発見はないので、抄訳しません。

劉裕たちは、西へ攻め入る。
長安を滅ぼした立役者は、 龍驤將軍の王鎮惡だ。前秦で宰相だった、王猛の孫である。後秦を仇敵とつけ狙っている曲者。軍令違反があったけれど、後秦に勝って劉裕にメリットをもたらしたから、結果オーライ。王猛の列伝も、このサイトにそのうち立てたいです。
長安で後秦を滅ぼした。姚泓は、建康で斬られた。
長安入城!
劉裕は、劉邦の陵墓に閲した。未央殿を見た。吉川氏の本で知ることができるが、劉裕は漢族の歴史的名所を回った。勢力の地固めというよりは、観光と表現した方が当たっていそうな振る舞いだ。
劉裕は、字をろくに書けなかったようだから、歴史の知識も浅かっただろう。
「どうせすぐ手放す土地だ。せいぜいよく見ておこう」
というノリである。
もしぼくがローマの旧跡なんかを回ったら、劉裕に似るかも知れない。予備知識のなさから、右に倣って感動して見せるものの、魅力の5%も理解していないという・・・

劉裕は観光に成功し(笑)もともとの目的である、華南での地位向上に成功した。宋公として、建国できたのだからね。
三男の幼子・劉義真を長安におき、腹心を輔佐に残して、劉裕は長安を去った。洛陽にも長安にも、2ヶ月ちょいしか滞在していない。もし劉裕が王朝を作ることがあっても(っていうか作るのだが)華北で君臨しないことだけは、この旅程の速さから見て、間違いない。

次回、ついに東晋が滅びます。劉裕が皇帝を2人殺します。