表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第一「武帝紀」を読む/劉裕の伝記

2)黄巾平定のパクり?

今回は、気になった史料の抜粋とします。余計なことを、行間に挟んでいきます。読み物という位置づけです。

劉邦からの系図

宋を建国した劉裕は、高祖武皇帝と呼ばれる。
あざなは德輿だ。子供のときは、「寄奴」と言った。寄生虫の「寄」である。なんでこんな幼名なのかは、おいおい分かります。

故郷は、徐州は彭城県の綏輿里だ。彭城が出身だからという理由だけで、前漢の劉邦の弟・楚元王の劉交の後裔だという。もはや否定する気力もない。名乗り・イズ・フリーダム。
劉裕が王朝を立てるときに、今さら漢の復興を唱えてくれたら、面白いインパクトを周囲に与えただろう。実際はどうなのかは、これを書いているぼくも知りません。詔書が楽しみだ。
『宋書』は、よせばいいのに血筋を語る。

劉交の子は、紅懿侯の劉富。劉富の子は、宗正の劉辟強。劉辟強の子は、陽城繆侯の劉德。劉德の子は、陽城節侯の劉安民。劉安民の子は、陽城釐侯の劉慶忌。劉慶忌の子は、陽城肅侯の劉岑。劉岑の子は、宗正の劉平。劉平の子は、東武城令の劉某。
ここでついにウソが尽きたかと思いきや、そうではない。ところで、前漢と後漢の入れ替わりは、このあたりに置くのが適当かなあ。
劉某の子は、東萊太守の劉景。劉景の子は、明經の劉洽。劉洽の子は、博士の劉弘。劉弘の子は、琅邪都尉の劉悝。
劉悝の子は、曹魏で定襄太守だった劉某。劉某の子は、邪城令の劉亮。
劉亮の子は、西晋で北平太守だった劉膺。劉膺の子は、相國掾の劉熙。劉熙の子は、開封令の劉旭孫。劉旭孫の子は、劉混。
劉混のとき、東晋に伴って長江を渡った。劉混は、晉陵郡の丹徒県の京口里にいて、武原令まで昇った。
劉混の子は、東安太守の劉靖。劉靖の子は、郡功曹の劉翹。これが劉裕の父である。

気分が晴れるかと思ったから、系図にしてみる。

劉交(劉邦の弟)-劉富-劉辟強-劉德-劉安民-劉慶忌-劉岑-劉平-劉某-劉洽-劉弘-劉悝-劉某-劉亮-劉膺-劉熙-劉旭孫-劉混-劉靖-劉翹-劉裕。

よけいに、モヤッとしたのは、ぼくだけではないはず。

劉裕は、東晋哀帝の興寧元年、3月壬寅の夜に生まれた。
現代人ですら、誕生日は分かっても、生まれた時刻までは、親が覚えていない人がいる。劉裕は貧しい家の生まれだ。どうせアトヅケなんだ。この時代の人は、誕生年を明らかにするのが精一杯だろ。
身長は7尺6寸。後漢と同じで1寸を23センチとすれば、175センチ。べつに普通である。
「風骨は奇特だった」
らしいが、誤差の範囲の特徴である。べつに皇帝じゃなくても、もっと何かを感じさせる容貌に描かれる人は多い。
家は貧しかったが、志は大きかった。とても疲れる思春期を過ごすタイプだ。継母によく仕えた。本紀には書いてないが、実母は劉裕を生んだせいで死んだ。間引かれそうになった。親類の母乳をもらって育った。だから、「寄奴」と呼ばれた。

孫恩の乱で活躍

はじめ、冠軍の孫無終の司馬になった。
399年11月、会稽で孫恩が叛乱した。東晋の前将軍・劉牢之が、孫恩の征伐に向う。劉牢之は、劉裕を招いた。まあ『宋書』は招かれたようなニュアンスだが、募兵に応じたというのが本当でしょう。生涯を決める上司との出会いは、孫恩のおかげである。
劉裕は数十人を与えられて、数千人に挑んだ。劉裕は長刀を振り回して、1000人以上を斬獲した。小説にするなら、最初から見せ場を作ってくれる、とても作家思いの人物である(笑)

400年、孫恩が再挙兵して、東晋の衛将軍・謝琰を殺した。劉裕は、ふたたび少数で平定した。孫恩を討伐する軍は、もう東晋への帰属意識が薄い。東晋を助けるだけでは、功名心が満たされないらしく、出陣先で略奪をした。どちらが盗賊だか、分からん。だが劉裕の軍だけは、
「 法令明整」
であり、万民の信頼を得た。職業軍人として、自我が確立していたのか。本紀が提示したがっている劉裕像を指摘するなら、
大きな志があったので、目の前の小さな利益には、目もくれなかった。万民に慕われて、人徳を積んだ。だから皇帝になれた」
となるだろう。ちょっと結末からたぐり寄せ過ぎの感があるが。

401年、しきりに孫恩は句章を攻めた。劉裕が破った。孫恩は海に逃げた。劉裕は、数百人の決死軍を組んだ。兵が少なくても、連戦連勝だった。
個人的武勇に裏打ちされた、強い指揮官。分かりやすいカリスマ性である。『三国志』の初期の英雄たちも、まずは個人的武勇が、活躍のテコだった。乱世の始まりは、腕っ節の強い人から活躍を始める。
ある夜のこと。
劉裕は軍旗を隠した。敵軍は、劉裕が逃げたと思って、攻めてきた。敵は、油断しまくりである。劉裕は大いに打ち破った。『演義』っぽく名づけるなら、逆空城の計である。
もう1つ。
現地のお役人が、呉郡の兵1000人を率いて、先鋒にしてくれと言い出した。すでに孫恩は、劉裕に負けどおしである。劉裕ばかりに手柄を与えるのが、お役人的には面白くなかったのだろう。だが劉裕は断った。
「孫恩の兵は、数が多い。もし先鋒が負ければ、一気に私たちは負ける。あなたが連れてきた呉郡の兵は、戦さに慣れていない。だから先鋒に置けない。後方で、私の軍に声援を送ってくれればよい
お役人は、ますます面白くない。強引に先鋒になった。万が一に備えて、劉裕は伏兵した。夜に敵の襲撃があった。お役人は、敵に殺された。劉裕が伏兵を起たせた。四方から、旗を上げて、太鼓を鳴らした。
敵は撤退を始めた。
しかし敵は、いちどお役人に勝っているから、勢いが強い。劉裕は、敵が攻めると、わざと停止し、まだ伏兵を残している振りをした。劉裕は、
「気色甚猛」
で、連戦して勝った。孫恩が、首都の建康を狙うと、都人は震撼した。劉裕は倍速で駆けつけて、東晋を救った。
劉裕は、建武將軍、下邳太守となり、孫恩を海に追い立てた。

劉備と劉裕は重ならないか

孫恩は、五斗米道である。黄巾党も五斗米道も、道教である。この繋がりも手伝い、まるで『演義』で、初期の劉備集団 の活躍を読んでいるような気になる。劉備のデビューは、黄巾の乱である。
生活に窮して叛乱する農民、弱くて志の低い、官軍の小役人。貧しい生まれだが、大志があり、強くてカッコいい劉氏。図式は同じだ。
『宋書』は、南朝の梁代の完成だ。『三国演義』の成立よりずっと前だが、この時点では裴松之の注が完成し、『世説新語』だって完成している。劉備物語が、じわじわ浸透していたはず。

劉備との共通を指摘しましたが、ぼくのコジツケの可能性も、充分に知っています。
中国で王朝末期には、宗教結社が立ち上がって、叛乱する。同じパタンである。また、職業軍人が活躍する方向性は、何通りもあるわけではない。英雄神話を作れば、誰だって似た感じになる。『宋書』が劉備を意識していなくても、記述はこうなるだろう、と。
その通りです。でも、前半の劉氏の系図といい、劉備によく似ている。『宋書』が劉備を完全に連想からたたき出して書かれたとも、思えないのです。