3)皇帝を貴ばない単細胞
前回、劉裕と劉備との類似性を、『宋書』が載せた見てきたような英雄譚に見出しました。
上官・劉牢之の自殺
東晋の執政は、皇族の司馬元顕である。
402年、驃騎將軍の司馬元顯は、荊州刺史の桓玄を攻めた。劉裕の上官・劉牢之は、司馬元顕の配下である。劉裕も従軍した。
「劉牢之さま。東晋を仕切る司馬元顕さまの言うとおり、桓玄を討ちましょう」
「まあ待て」
劉牢之は、桓玄と「和睦」してしまった。桓玄は西府のトップで、劉牢之は北府のトップである。この2人が手を組んでしまえば、東晋の皇族・司馬氏は、勝ち目がない。
司馬氏は、強い軍閥のバランスを取って、王朝を存続させてきた。劉牢之が桓玄に迎合したから、バランスも何も、あったものではない。
桓玄は、司馬元顕を殺した。桓玄は、東晋を簒奪するために、確実に敵を片付けている。
桓玄は劉牢之を、会稽内史にした。会稽は東南だから、北府の指揮権はチャラになってしまう。劉裕は、上司の劉牢之に言った。
「桓玄は、私たち北府の兵を奪うつもりです。これ以上の禍いはありません。私たちの本拠・広陵で、桓玄に対して挙兵すべきです。やりましょう」
劉牢之は答えた。
「桓玄は新たに志を得た。桓玄の威は、天下を震わせている。兵たちの心は、すでに東晋から去った。私が広陵に戻っても、拠点として使えない。劉裕よ、京口に戻りなさい」
劉牢之は、自ら首を括った。
あっけない。
死ぬ前の言動で分かるが、劉牢之は最初から最後まで、東晋の将軍でした。いくら北府が力を持って建康の皇帝を凌いだとは言え、北府の指揮権は、東晋から与えられる官位が根拠なのです。その東晋が危うくなってしまえば、自らに生き場はありません。
・・・だったら初めから劉牢之は、桓玄に降るなよ!
とツッコミが入りそうだが、劉牢之には酷でしょう。
劉牢之が頭上に頂いている東晋とは、少なくとも華南を、節度を持って治める王朝だ。いちおうの理想像が、頭の中にある。だが現状の東晋は、司馬道子と司馬元顕の父子が、建康とその周りだけを治め、出来損ないのミニ軍閥みたいになっている。
劉牢之は、東晋の将軍として、東晋に愛想を尽かした。桓玄が引導を渡しにきたというなら、任せよう。無用の戦さで、人口を減らしてはいけない。だが東晋を裏切るのではない。東晋に殉じるのだ・・・と。
劉牢之は、ストレス耐性もヴィジョンもない、惰弱な人に見える。彼の部下で生き残り、次の王朝を開いた劉裕と比べると、ショボさが際立つ。
だが、劉牢之は無能ではない。単なる軍閥の大小という打算ではなく、漢魏以来の「あるべき王朝の姿」を胸中に持っているから、こういう不可解を行なったんだと思う。ぼくは、こういう自縄自縛が好きです。
劉裕は王朝に仕えない
上官・劉牢之が死んだ。だが
劉裕が憂うのは、東晋皇帝の行く末ではない。自分の所属集団のミッションである。
漢魏の文化は衰退した。露骨な闘争が、世間に容認されている環境だ。変な大義名分を抱えずに、軍人として職務を全うできる。列伝にありがちな「若くして経書を暗記した」みたいな人生と、劉裕は無縁である。
北府の同僚である何無忌は、
「おい、これからどうするよ」
と劉裕に聞いた。劉裕は答えた。
「劉牢之さまの言いつけに従い、京口に戻ろう。もし桓玄が、国の北の境界線を完璧に守れるなら、私は桓玄に従う。もし桓玄がダメなら、一緒に桓玄を倒そう。桓玄は、味方を増やすことに躍起になっている。必ず私たちは、桓玄に使ってもらえるだろう」
劉裕は強靭です。劉牢之は「東晋の北府」に仕えていた。対して劉裕は、「北方の五胡諸国に対する防衛」という仕事に仕えていた。劉裕は、根っからの軍人である。桓玄が正統かなどという、1ミリのお腹が膨れない議論には、興味がない。
・・・と、
恥ずかしいことに「桓玄必能守節北面」を読み間違えて、誤訳に基づいた解釈を一度しました。吉川忠夫『劉裕-江南の英雄宋の武帝-』を読みまして、「北面」が東晋への臣従を表すことに気づきました。日本史ですら「北面の武士」がいるのにさあ、なんで気づかなかったかな。情けないので、セルフ訂正しておきます。
ただ、正しい読み方で解釈をし直しても、ぼくは同じ劉裕を読み取ります。いちおう桓玄の東晋への仕え方を観察しようと言っているが、こんなのはレトリックだ。
「ともあれ、まずは様子を見よう」
程度のことである。劉牢之に比べれば、リアリストである。状況をつかんだ上で、動こうとしている。
桓玄の従兄の桓修が、撫軍として丹徒に出鎮していた。劉裕は、桓修の中兵參軍となった。だが北府で率いた軍と、支配している郡は、もとのままキープした。第二新卒ではなく、役職採用である。
前回お騒がせした孫恩は、生け捕りにされるのを懼れて、海に飛び込んで死んだ。残党は、孫恩の妹の夫・盧循が継いだ。桓玄は、盧循に官位を与えて懐柔しようとしたが、失敗。
桓玄は劉裕に、盧循を討てと命じた。
403年、劉裕は盧循を討った。劉裕は、命令に忠実である。桓玄は、東晋皇帝の敵であり、元上官の劉牢之の敵である。だが劉裕は、逆賊&仇敵の桓玄にも、せっせと従っている。
「誰に仕えるかではなく、私が何をするかだ」
を突き詰める人である。現実逃避したくて、転職を考えている現代人は、劉裕を見習うべきなのかも知れない。
あくまで武人である
劉裕を褒めちゃってるが、彼の性格には限界もあるだろう。
大義名分を掲げるわけじゃなく、目の前の草を抜いていくだけの人だ。優れた現場の管理者になれるかも知れないが、それより上に昇るのは、難しいんじゃないか。
軍人としては良い意味で、頭がカラッポの劉裕。いかに皇帝らしい皇帝に化けられるか、展開に注目ですね。
劉裕のようなタイプの成功者が本を出すなら、過去の武勇伝の紹介に終始するだろう。出来事を並べて、自慢するだけである。そこから、よく練られた哲学を語ることはないだろう。ぼくは、そういう本が、あまり好きではない。あまりに現実から遊離して、説教臭くなるのも御免だが(笑)
ネタバレすると、劉裕は死ぬまで武人だった。皇帝になった途端に、室内の生活にストレスをためて、すぐに死ぬ。あるべき皇帝像に縛られない武人として出世したが、自ら皇帝になってみると、漢魏からの蓄積に押しつぶされた感じである。
前出の吉川忠夫氏の指摘によれば、劉裕は劉邦に似ているそうだ。儒者の冠に小便をした、無学な奔放さが、共通するのだとか。たしかに前漢は、儒教であるべき論が固められるまでは、自由闊達な盗賊の王朝であった(笑)
さっき思いついたけど、
劉邦、劉秀、劉備、劉裕の比較論をやったら、けっこう面白いかも?