表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第一「武帝紀」を読む/劉裕の伝記

7)毒牙をむき出した劉裕

ここから本紀の「中」です。
長くなってきた・・・ゆっくりやり過ぎかも。
いちども言ってませんでしたが、『宋書』の武帝紀は、上中下の3巻から構成されています。まあ、下巻は分量が少ないので、編纂者の苦しさを感じ取れるのだが。1年間のやっつけ仕事だしね(笑)

劉毅と諸葛長民の排除

劉裕は、盧循を平定した。武帝紀は、べつにこのタイミングで言わなくてもいいのに、
「東晋の治世はゆるくて、権門が並び立ち、強弱が凌ぎあい、百姓が流離した。だが劉裕が助けたから、東晋の治世はうまく機能した」
と言っている。人生のひとつの到達点、RPGならセーブポイントである。

◆劉毅を殺す
劉裕は、自称ライバルの劉毅を滅ぼした。
吉川氏の本では、劉毅が死ぬまでのプロセスが、イキイキと描かれている。このサイトに「劉毅伝」を立て、ぼくも劉毅を描いてみたい。劉毅の死後、荊州を分割して湘州を作り、劉裕が管理することになった。

◆成都王を攻める
益州に独立し、後秦に結びついてた成都王・譙縦を討った。『三国志』で語るなら、呉が蜀を併呑したに等しい。東晋の中期、桓温は成漢を滅ぼしたが、同じ功績である。
譙縦は、現地の名族らしい。陳寿の先生で、『仇国論』を書いた譙周の一族だろうか。いま劉裕に滅ぼされたのは、ショウショウである。三国時代のいたのは、ショウシュウである。間違って、姓を「シュウ」と読んでしまうと、もう泥沼である。正解にたどり着けない。シュウシュウ(収拾)がつかん。ごシュウショウ(愁傷)さまであることだ。
覚えにくいから、ファンが付かないのだ(笑)

◆諸葛長民を殺す
諸葛長民が、413年に叛乱を企んだ。
彭越は塩漬けにされ、韓信は殺された。禍いは私に及ぶだろう」
いきなり何の昔話を始めたかと、びっくりしますが。。
前漢の劉邦は、建国を支えた有力者が、天下統一後に脅威となり、片付けた。 劉毅が彭越に例えられ、諸葛長民は、自らを韓信に例えた。
劉裕は、実質の東晋のトップになった。
すると、かつて一緒に桓玄らを討った仲間は、邪魔になる。強力な協力者ほど、脅威とされる。皮肉である。儒教文化に裏打ちされていれば、建国を助けた人は、栄華が約束される。だが劉裕は、劉邦と同じく、儒教から自由である。本能的に闘争するから、貢献者を排除するだろう。

どうでもいいが、東晋皇帝じゃなくて、劉裕を、神話化すらされた皇帝・劉邦に例えるのは、不敬罪じゃないのか。諸葛長民は、劉裕が宋公になっているし、禅譲は必然だと思っていたのだろうか。
生物学的な血筋が怪しくても、劉裕が漢室の劉氏と同姓であることは、意識されずには済まなかったんだろう。『三国志』の世界は生きている。

諸葛長民は、挙兵を考えたのだが、騙し討たれた。諸葛長民の死に様も、とても良い。吉川氏曰く、
「かつての同志の生命が、あまりに安価に評価されすぎはしなかったか。権力の妄執にとりつかれたために、容易に他人を信用できなくなった人間の孤独を、劉裕はそろそろ感じはじめていなかったであろうか」
と。南燕と益州を滅ぼしたことが、劉裕の人付き合いに転機をもたらしたことは、間違いない。

南に縛り付ける土断法

劉裕は、いわゆる土断をやった。
「桓温の政治はろくでもなかったですが、庚戌の土断だけは、良かった。しかし不徹底である。生まれた土地で死ぬのが幸せであるが、東晋になってから100年が経ち、父母の墓も華南にある。土断しちゃおう」
ぼくの浅い理解で解説すると、華北の本籍ではなくて、いま華南で実際に住んでいる土地に戸籍を移し、東晋に納税させようという政策です。

吉川氏の本で補えば、この土断は、来るべき次の北伐のための、元手づくりだそうで。北を取り戻すために、南の政権としての根を深める。なんか矛盾して見えるけれど、筋は通ってる。
吉川氏の描く劉裕の北伐は、華南の王朝で権力を持つための、デモンストレイションだ。もし華北を占領できても、華北を保てるとは思っていない。100年以上もかけて、華南で築き上げた漢民族の国は、今後も華南にあるべきだと考えている。
ネタバレすると、のちに劉裕は後秦を滅ぼして、長安を占領する。だが、幼い子を残して、華南に帰ってきてしまう。洛陽遷都を唱えるが、反対してもらうことが前提だったりする。

このあたりが、ちょうど価値観の転換点だと思うんだけど、、西晋はいちどは全土統一した。東晋は、西晋を継いでいる。だから華北を取り戻すことは、東晋で大手柄である。だが、理屈ではそうなっても、現実の華北は漢族が住める土地ではない。べつに華北に戻りたいとも思わない。
国是と民意が違う。
この矛盾が解消できれば、漢族のストレスは大幅に軽減されるでしょう。劉裕に期待されたのは、これである。
だから、
大々的に北伐をして、洛陽と長安を取り戻し、アッサリ放棄する、という手続きが必要になった。 東晋において、押しも押されもせぬ地位を獲得して、返す刀で東晋を否定する。もう華北は要らないよ、を国是とする。
「中原で天下を一統する皇帝」
という漢魏からの思い込みを払拭するには、避けて通れないプロセスなのかなあ。ムダに見えても、意味があることって、あるのです。
永嘉の乱で洛陽が物理的に陥落したけれど、心理的な洛陽離れが出来ていない。それをやったのが、劉裕の歴史的役割なのかな、と。皆が中原を目指した『三国志』を終わらせた人なのかな、と。
気持ち悪くなって吐くことを前提に、酒を飲みまくる。無意味な手続きであるが、大人たちがやってしまうことだ。例えが野卑だけど、なんか似たものを感じる・・・

皇族・司馬氏の告発

平西將軍・荊州刺史の司馬休之は、皇室の重鎮である。劉裕は、司馬休之に「異志」があるのを疑った。
司馬休之の兄の子・譙王・司馬文思は、京師で兵を集めて、叛乱を企んだ。劉裕と言えど、皇族をカンタンには殺せない。劉裕は、司馬文思を捕えて、司馬休之に送り返した。司馬休之は、
「甥が不届きなことをやりまして。劉裕さん、ごめんなさい」
と謝った。

いま『宋書』に従って書いたけど、どうも主客がおかしくないか。「異志」が疑われたのは、むしろ劉裕だ。司馬休之は、東晋を保存するために、劉裕を討とうとしたのではないか。劉裕は、失脚の危機を感じただろう。だが、あんまり露骨に皇族と敵対するのは、劉裕にとっても、好ましくない。だから、甥を送り返すにとどめた。
劉裕には、大きな志があるから、軽々しく司馬文思を殺さなかった。皇族としての司馬氏全体にとっては、さっさと殺してくれた方が良かったくらい。劉裕から正義が去り、東晋は生命を取り戻す。もちろん身内が可愛いから、司馬の家でも、個人レベルで「殺してほしい」わけはないのだが。
司馬休之の身内が、つぎつぎ獄死させられた。劉裕のせいである。司馬休之は、上表した。
「天運は常に一ならず。治と乱はくり返すと聞いています。東晋は10代も続き、安定しています。劉裕が、盧循を討ち、南燕を討ったおかげです。しかし劉裕は調子に乗り、人臣の礼を欠いています」
司馬休之は、劉裕への批判を始めました。

「劉裕は偉ぶっているのに、皇帝の食事や皇后の医薬は、必要量の10%も行き届いていません。司馬元顕の五男・司馬法興は、桓玄が東晋を乱したとき、遠方に逃げました。司馬法興は明敏な人なので、彼が帰ってきたとき、喜ばない人はいませんでした。しかし劉裕は、政敵になるのを懼れて、彼を殺しました」
劉裕から見れば、非常に当たり前の話である。せっかく弱らせた東晋の皇族が、盛り返されたら邪魔である。極めて分かりやすい、敵対勢力の排除をやったのだなあ。
劉毅、劉藩、諸葛長民、謝混その他の人も、東晋の社稷輔弼の臣であるのに、劉裕に無罪なのに殺されました。劉裕は、残忍な男なのです」

司馬休之による劉裕告発は、まだ続く。
『宋書』にこんなこと載せていいのかな?と心配になるが、載っているのだから、ぼくは抄訳せずにはいられない。
「皇族の司馬氏は弱ったので、劉裕を頼りました。私の兄の子の司馬文思は、不良と付き合ったので、素行が良くありませんでした。劉裕に見咎められたから、私はちゃんと謝った。だが劉裕は、私を攻めてくるという。司馬文思への処罰が生ぬるい、というのが口実だそうで。劉裕は言いがかりをつけて、私を殺す気だ。私を殺してから、東晋を滅ぼす気なんだ!

だんだん露骨になる劉裕。もし王朝を始めなければ、単なる逆臣の振る舞いとして、歴史に非難されただろう。
司馬と劉氏の実質の最終対決。どうなるのでしょう。