表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第一「武帝紀」を読む/劉裕の伝記

5)大晋の臣という名分

劉裕から見ると、桓玄は平和ボケしたバカである。
だが桓玄の実態は、漢魏の伝統をきっちり踏襲した、皇帝らしい皇帝である。前時代の真理が、今も通用するかは別の話ですけれど。

桓玄を討たない

これより前、会稽で盧循を討っていたとき、同僚の何無忌が、劉裕に言った。
「桓玄を討たないか」
劉裕は、何無忌を止めた。
「まだ早い。桓玄は、今のところ皇帝を名乗っていない。それに、ここ会稽は建康から遠い。失敗するだろう。桓玄が簒逆して、野心が明らかになるのを待ってから、討とう
このセリフを見ると、劉裕は東晋皇帝の尊さを、知識として理解している。劉裕その人は、東晋皇帝に少しも恐れ入っていない。だが世論は、いまだに正統というフィクションに動かされることを、知っている。
もちろん劉裕は軍人らしく、遠方の会稽からダラダラ進軍するより、近い京口で一気に挙兵したほうが、成功率が高いことも指摘しているが。

さっきの桓玄の答えの『宋書』の原文は、「俟其簒逆事著」である。歴史書の体裁としては、こんな表現をせざるを得ないから、上では原文のニュアンスを踏まえて訳しました。読解もしました。
でも、劉裕の本心を聞くなら、
「桓玄の治国の腕前が判明してから支持・不支持を決めても、遅くはない」
と読み替えてもいいかも知れない。
もしかしたら桓玄は、華南を安定させるかも知れない。王朝を交代させるのは、難事業である。数十年に1人しか、着手できない。いま桓玄がやろうとしているんだから、敢えて潰さず、様子を見てみよう、と。

桓玄を討つ

前頁で見たように、やがて桓玄の底が知れた。 劉裕は、何無忌とともに決起した。桓玄を攻めた。
404年、劉裕は27人と同謀し、建康の宮殿に乗り込んだ。宮殿の制圧過程が、27人の姓名とともに書かれていますが、人が多くて感情移入しきれないので、今日は省略します。
劉裕は登城して言った。
「江州刺史の郭昶之は、すでに東晋皇帝を奉じて、尋陽に戻った。私たちは、東晋皇帝の密詔を受け、桓玄たちを討つために集まった。諸君は、大晉の臣であろう。何を実現したくて、宮殿に乗り込んできたのだ(東晋を助けるためだよな。がんばろう)」
味方は劉裕に勇気づけられ、桓玄派を追い詰めた。 のちに劉裕が東晋から禅譲を受けるわけですが、、、よく言ったものです。
かつて、
「桓玄が立派な人物ならば、東晋を見限ろう」
と思っていたかも知れない劉裕です。
「打倒桓玄!我らは大晋の臣だろ!」
と鼓舞する言葉には、真心よりは戦略を感じます。劉裕は、漢魏以来、皇帝という存在がどれだけ人の心に重たいか、理解している。劉裕その人は、皇帝の尊さを信仰してないけれど。
――深入りせず、分かったふりをして、尊重しておく。
異教徒に対する付き合い方を、よく分かっているんだ。
桓玄の楚は、3ヶ月の天命でした。

『宋書』は、桓玄の武将を順に撃破していく様子が書かれてします。でも戦争の過程にあまり興味がないので、飛ばします。劉裕は、使持節、都督揚徐兗豫青冀幽並八州諸軍事、領軍將軍、徐州刺史となりました。吉川氏が分かりやすく解説して下さったことには、劉裕の官名は長いけれども、平たく言えば、北府の長官だって。簡潔!

桓玄が滅びた理由は、
「乱れたと言えども、東晋に対する支持は根強い。桓玄が力づくで簒奪しても、従う人はいなかった」
と『宋書』にまとめられてます。劉裕が王朝を建てるにしても、内側から力づくではダメであるという伏線です。劉裕は、桓玄とは明らかに違う何かをやらないと、宋は東晋の遺臣に倒されるでしょう。
劉裕は、武陵王の司馬遵を大將軍として、承制させた。 益州督護の馮遷は、桓玄の首を切って、京師に送った。

宋公の出現

東晋皇帝は、広陵で詔した。
「古代、大なるものは天地だという。次に大きいものは、君臣だという。臣は、君が危うくなったら助けてくれるものだ。夏王朝や周王朝が傾いたとき、靡氏や申氏が立て直した(誰だっけ)。王莽や司馬倫も、簒逆に失敗した。私が弱いせいで、桓玄に乗っ取られた。だが東晋は滅びずにすんだ。劉裕はとくに活躍した。ありがとう」
たしかに東晋は滅びなかったが、、
「あなたは数年後に、恩人と仰ぐ劉裕に殺されるんだよ」
と警告してやりたい。
劉裕は、録尚書事を辞退して、国許に帰りたいと言った。だが東晋皇帝は、劉裕に位を与えたい。都督荊、司、梁、益、寧、雍、涼七州を追加されて、合計で16州の諸軍事を管轄することになった。

盧循や駱冰が叛乱した。桓玄の残党も叛乱した。劉裕は、東晋のために鎮圧をした。
「劉裕を宋公とする。長く皇晋を助けよ」
というわけで、劉裕は公となった。
ちなみに曹操が魏公となったのは213年で、馬超を潼関で破った2年後、張魯を漢中で吸収する2年前です。司馬昭が晋公となったのは264年で、劉禅の降伏のときです。先例に照らせば、東晋の中で劉裕がどれくらい強いのか、イメージしやすいと思います。

次から、五胡との関わりが始まります。簒奪を成功させるために、桓玄になくて、劉裕にあるもの。それは北伐の功績なのです。