表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第一「武帝紀」を読む/劉裕の伝記

4)ベールを被った楚王朝

とりあえず桓玄に臣従した劉裕です。
桓玄へのクーデターが、劉裕の人生を大前進させるのですが、その過程を見て行きます。

桓玄を本心から支持したか?

桓玄が楚王となり、皇帝になろうとした。桓玄の従兄が、劉裕に聞きに来た。
「劉裕将軍よ。桓玄さまが皇帝になることを、どう思うかね」
史書曰く、
「このとき劉裕は、桓玄を図ろうと思っていた」と。
ん?
どうも意味が分からん。原文では「高祖既志欲圖玄」です。
解釈が難しい。劉裕が桓玄を助けようと考えてたようであり、桓玄を倒そうと思ってたようでもあり。どっちだ。
これはぼくの推測ですが、『宋書』は、劉裕が最初から桓玄と敵対する気持ちがあったと描きたいが、史実はそうではないらしい。都合が悪いから、表現を曖昧にしたのかな。
劉裕はへり下って、
「晋室は微弱です。桓玄さまが禅譲を受けることに、なんの不都合がありますか」
と答えた。桓玄の従兄は喜んだ。

劉裕は、桓玄を失敗させるために、簒逆に賛成したのではあるまい。劉裕その人がすでにナンバーツーなら、桓玄を早計で踊らせ、失敗させることに意味がある。だが劉裕は、この時点では誰から見ても(自分から見ても)一将軍に過ぎない。桓玄が失敗しても、劉裕の時代は来ない。
劉裕は、
「とりあえず時代を前に進ませ、状況を見てみよう」
と冷静に歴史を眺めていたのではないか。東晋に天命はなさそうだ。国政は安定しない。現状がダメなら、やり方を変えてみるのが吉である。司馬氏の長い歴史にドライだから、劉裕の判断は極めて当たり前である。
この時代、劉裕のドライさが珍しいのであるが。
状況からぼくが判断するに、劉裕は素直に桓玄を支持した。禅譲を勧める言葉に、変なウラはない。『宋書』は、劉裕が桓玄に加担したことが「黒歴史」になりかねないから、この辺りはとても分かりにくくしてある?

皇帝・桓玄を評価する難しさ

当時の劉裕が、桓玄をどう評価したか。とても見えにくい。っていうか、桓玄がどういう人物であったか、歴史書を読んでも、よく分からんように出来ている。まれに見る難問かも。
桓玄は、『晋書』では逆臣だし、『宋書』でも敵対者である。だから、どちらも悪く書かれている。桓玄の素顔を知ることは、とても難しいのです。『宋書』では、王莽の失敗ぶりを投影して、人物像が描かれた印象がある。桓玄がどうだったかではなく、王莽がどうダメだったかが、『漢書』と重複して語られているだけだ。桓玄を知る材料にならん。

先日は『宋書』で桓玄の列伝を読み、王莽と似ているなあ、と慨嘆したのだが・・・あの読み方は間違っていた。『宋書』の筆に惑わされた。

桓玄の欠点は、要検討。ともあれ、劉裕の認識はこの時点では、桓玄に対してニュートラル。もしくは、小さくプラス評価だ。

桓玄が皇帝になった。劉裕は謁見した。
「劉裕は人傑だなあ。褒美をたくさん与えよ」
桓玄は、劉裕を頼もしく思った。劉裕は、桓玄の有頂天に反して、ますます桓玄を憎んだ。ある人が、桓玄に言った。
「劉裕は、人の下に収まる人ではありません。警戒して下さい」
「いやいや。私は中原を平定したいと思っている。劉裕の武力は、利用価値が高い。もし関中を平定したら、その後で劉裕の処分を考えればよい」
桓玄は、劉裕は思い通りになるコマだと、油断しただろう。だって行動だけ見れば、バカである。世話になった劉牢之に殉じるわけでもなく、桓玄に仕えているんだから。桓玄は、劉裕の本質を知らない。
桓玄は命じた。
「劉裕は、孫恩と盧循の征伐で、手柄があった。もっと恩賞を与えよ」

ぼくはこのサイト内で、北魏の正史『魏書』にて、桓玄の列伝を読みました。北伐するための舟に、美術品を積みすぎて、兵糧の輸送に支障を来たすような人らしい。
このダメぶりも、敵国をバカにするための「小説」かも知れない。前出の吉川氏は、劉裕が桓玄を見切った理由を説明するために、『魏書』を(『魏書』とは言わずに)引用してた。慎重になるべきだと思う。

桓玄は何者なんだろう?

ぼくが捉えられる範囲で述べるなら、
桓玄は、発想が漢魏の人である。皇帝にさえなれば、それだけで自明に尊いと思っている。皇帝の人格が問われることはない、と思っている。皇帝が恩賞をやれば、誰でも忠誠が増すと思っている。
劉裕のようなドライな新人類が、桓玄の職務遂行能力を値踏みしているなど、思いつきもしない。

桓玄がまるで気づかないうちに、劉裕は少しも素振りを見せずに、桓玄を見切ったんだろう。自分の目で桓玄を見て、桓玄の評価を定めた。
『宋書』には苦しさがある。
劉裕が、東晋を正統だと信じる義心から、桓玄に反発したことには出来ない。だって劉裕その人が、東晋を終わらせてしまうのだからね。これまでの本紀の記述で、劉裕が王朝の正統に対して、とてもドライに描かれてきた。背後には、こういう大人の事情も手伝っているのでしょう。
まあこの点を差し引いても、劉裕は正統の観念とは別のところで、軍人の棟梁として、桓玄を器量不足と判断した。
「軍に君臨する男としては、不足である」
劉裕がクーデターを決意するには、これだけで充分だった。