表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

後1年、王莽が安漢公となる

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

後1年春正月、王莽が安漢公を5回ことわる

孝哀皇帝下元始元年(辛酉,公元一年)
春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、黑雉二。莽白太后 下詔,以白雉薦宗廟。於是群臣盛陳莽功德,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周, 莽宜賜號曰安漢公,益戶疇爵邑。

後1年春正月、王莽は益州にウソを言わせた。国外の蛮夷が、越裳氏を名のり、なんども翻訳して、白キジ1羽と、黒キジ2羽を献上してきたと。

胡三省はいう。越裳氏の注釈は、すでに『資治通鑑』二十八巻の前漢元帝、初元二年にある。越裳氏の土地は、益州の塞外にない。王莽は幼い平帝を助ける。王莽の功徳を、遠方の人がほめたことにするため、ウソをついた。周公をマネた。
顔師古はいう。「訳」とは、伝えて言うこと。道路が絶え、風俗が違うから、なんども翻訳が必要だった。本文にある「風」は「諷」におなじ。

王莽は王太后に、白キジを宗廟に供えさせた。郡臣は、言った。「周の成公は白キジをもらったから、周公を名のった。王莽を、安漢公として、食邑を子孫まで保たせるべきです」と。

胡三省はいう。聖王の法によれば、臣下に大功があれば、美しい号をあたえる。だから周公の故事を、郡臣が持ち出したのだ。
張晏はいう。前漢のルールでは、食邑を子孫がつぐとき、代ごとに20%ずつ減らす。「疇」は、等しいこと。ふたたび減らさないことをいう。
賢はいう。「疇」は、等しいこと。功臣の子孫が、先代とおなじ食邑をつぐことを指す。つまり王莽が安漢公に進んだら、王莽の子孫は、永久に食邑をキープできる。


太后詔尚書具其事。莽上書言:「臣與孔光、王舜、 甄豐、甄邯共定策;今願獨條光等功賞,寢置臣莽,勿隨輩列。」甄邯白太后下詔曰: 「『無偏無黨,王道蕩蕩。』君有安宗廟之功,不可以骨肉故蔽隱不揚,君其勿辭!」 莽復上書固讓數四,稱疾不起。左右白太后,「宜勿奪莽意,但條孔光等,莽乃肯起。」

王太后は、安漢公について、尚書に検討させた。王莽は上書した。「孔光、王舜、甄豐、甄邯は、平帝即位に尽力しました。彼らを功賞すべきです。私(王莽)に、功賞はいりません」と。甄邯は言った。「王莽が王太后と親族だからといって、王莽を褒めないのでは、偏りがでる。王莽を安漢公にしなさい」と。王莽は、4回ことわった。

ぼくは思う。これが、王莽の真骨頂。本気か演技か、史家の曲筆か。

王莽は病気と称して、立てない。左右の人は、王太后に言う。「王莽の気持ちを、尊重しなさい。孔光らのみ、褒めましょう」と。王莽は「それでいい」と言い、立ち上がった。

後1年2月、莽が天下に恩沢をバラまく

二月,丙辰,太后下詔;「以太傅、博山侯光為太師,車騎將軍、安陽侯舜為太保,皆 益封萬戶。左將軍、光祿勳豐為少傅,封廣陽侯。皆授四輔之職。侍中、奉車都尉邯封 承陽侯。」

後1年2月丙辰、王太后は詔した。「太傅・博山侯の孔光を太師、車騎將軍とする。安陽侯・王舜を太保とする。どちらも1万戸を封じる。

『考異』はいう。平帝紀では、これを2月でなく正月とする。王子侯表、公卿表では、2月丙辰とする。司馬光は、本紀でなく表に従った。
胡三省はいう。『考異』がいう表で、2月丙辰に封じられたのは、宣帝の耳孫・劉信らだ。孔光たちの記事ではない。『考異』も、おかしい。

左將軍・光祿勳の甄豊を、少傅・廣陽侯とする。みな四輔の職を授かった。侍中・奉車都尉の邯封は、承陽侯となった」

胡三省はいう。恩沢侯表によれば、広陽侯は、南陽に国がある。
ぼくは思う。王舜がもらった南陽は、王莽の新都とちかい。さすが従弟だ。そして、のちに光武帝が起兵するのが、南陽郡。王舜は、光武帝にボコられるんだっけ。忘れちゃった。伏線を楽しみにしよう。


四人既受賞,莽尚未起。群臣復上言:「莽雖克讓,朝所宜章,以時加賞, 明重元功,無使百僚元元失望!」太后乃下詔:「以大司馬、新都侯莽為太傅,干四輔 之事,號曰安漢公,益封二萬八千戶。」
於是莽為惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公 號,讓還益封事,雲:「願須百姓家給,然後加賞。」

4人が賞を受けたが、王莽は立たない。
郡臣は、王莽が賞を受けないことが、納得できない。「功績ある王莽が、賞されなければ、百僚は失望する」と。王太后は、詔した。「大司馬・新都侯の王莽を、太傅とする。四輔をさせる。王莽を安漢公とし、2万8千戸を増やす」と。
詔を聞いた王莽は、恐れて立てない。太傅と安漢公を、返上した。「天下の万民に、物資が行き渡ってから、その後、私は賞を受けとります」と。

【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「詔を聞いた王莽は、恐れて立てない。太傅と安漢公を、返上した。「天下の万民に、物資が行き渡ってから、その後、私は賞を受けとります」と。
「於是莽為惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公號,讓還益封事,云:「願須百姓家給,然後加賞。」ですので、太傅・安漢公は受けてます。返上したのは「益封事」つまり領地加増だけ。官位・称号は受けたということです。(引用おわり)


群臣復爭,太后詔曰:「公自期 百姓家給,是以聽之,其令公奉賜皆倍故。百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」莽 復讓不受,而建言褒賞宗室群臣。立故東平王雲太子開明為王;又以故東平思王孫成都 為中山王,奉孝王后;封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯;太僕王惲等二十五人皆賜爵 關內侯。又令諸侯王公、列侯、關內侯無子而有孫若同產子者,皆得以為嗣;宗室屬未 盡而以罪絕者,復其屬;天下令比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其 身。下及庶民鰥寡,恩澤之政,無所不施。

郡臣は納得しない。太后は詔した。「もし王莽が万民を、気にかけるなら。王莽への奉賜を、さらに増やさねばなりません。万民への気づかいは、大司徒と大司空にも、聞かせましょう」

胡三省はいう。「奉」は、食むところの給与。「賜」は、1年ごとの賞与。
顔師古はいう。倍故とは、数がおおくと、掛け算すること。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「公自期百姓家給,是以聽之,」は「安漢公王莽は民の生活を考えて加増を返上したので、返上許しました」だろうか。
「其令公奉賜皆倍故。」の「其」は漢代の行政用語で、皇帝(皇太后)の詔勅における命令文の文頭の発語。これ以降が詔勅の本文である命令。「王莽の俸給等を倍増しなさい」という皇太后の命令。
「百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」は「民の生活が困窮せず足りているかどうかについては、大司徒・大司空が調べて私に報告しなさい」というところか。「以聞」は「皇帝に申し上げる」。「王莽が気にかけている民の生活もフォローする」ということだろう。
この部分は漢書王莽伝でもかなり省略された大略しか載っていないようで、どういう話が展開されたかわからないところもあるけれど・・・。(引用おわり)

王莽は安漢公を受けず、宗室や郡臣を、褒賞しろと言った。前漢の皇族36人を、列侯にした。

固有名詞は、見れば分かるので、はぶく。
『考異』はいう。この記事の時期について。平帝紀は、元始元年とする。王莽伝は、元始五年とする。王莽伝が誤りである。王子侯表では、元始元年2月丙辰、15人の侯が記される。平帝紀と、メンバーがちがう。

郡臣25人が、関内侯になった。諸侯王公や列侯、関内侯で、子がなければ孫に嗣がせた。同母兄弟にも嗣がせた。罪で戸籍をはずれた人は、みな戻された。比二千石より高位の老人は、所得の3分の1の年金をもらった。王莽は、役人から庶民まで、すべて恩沢をほどこした。

王莽は、謙譲の美徳に見せかけて。前漢のサイフをつかって、自分の恩沢をバラまいた。王莽が、安漢公のつくか否かは、二の次である。何度ことわっても、いつでも就ける。うまいなあ。という具合に、王莽を悪者にすることは、可能です。


後1年2月、王莽が前漢の人事権をにぎる

莽既媚說吏民,又欲專斷,知太后老,厭政,乃風公卿奏言:「往者吏以功次遷至 二千石,及州部所舉茂材異等吏,率多不稱,宜皆見安漢公。又,太后春秋高,不宜親 省小事。」令太后下詔曰:「自今以來,唯封爵乃以聞,他事安漢公、四輔平決。州牧、 二千石及茂材吏初除奏事者,輒引入,至近署對安漢公,考故官,問新職,以知其稱 否。」於是莽人人延問,密致恩意,厚加贈送,其不合指,顯奏免之,權與人主侔矣。
置羲和官,秩二千石。

王莽は、役人や庶民にこびた。専断したいからだ。王太后は老いて、政治にあきた。王莽はこれを知り、公卿に言わせた。「太守と刺史に、人材を挙げさせよ。採用のとき、みな王莽と面接せよ。また王太后は高齢だから、小さな政治を見させてはダメだ」と。王太后は、王莽の言うなりに詔した。

胡三省はいう。前職のある人は、王莽がその労績をチェックした。新卒ならば、なぜ職務に適任なのか、王莽が質問した。
ぼくは思う。人事権のある人が、つよい。古今、おなじだなあ。笑

王莽の気に入った人は、採用された。王莽が気に入らなければ、不採用だ。王莽の権限は、皇帝と同じだ。
羲和の官をおいた。秩禄は2千石。

胡三省はいう。羲和は、初めて置かれた。王莽はすでに、前漢の職制を奪った。大司農を改めて、羲和とした。


後1年夏、平帝の外戚を、中山国に押し込める

夏,五月,丁巳朔,日有食之。大赦天下。公卿以下舉敦厚能直言者各一人。
王莽恐帝外家衛氏奪其權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,橈亂 國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗為成帝后,宜明一統之義,以戒前事,為後代 法。」六月,遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衛姬為中山孝王后。賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內 侯。賜帝女弟三人號曰君,皆留中山,不得至京師。

後1年5月丁巳ついたち、日食した。大赦した。公卿より以下に、敦厚で直言できる人を、1人ずつ挙げさせた。
王莽は、外戚の衛氏に、政権を奪われることを恐れた。

胡三省はいう。いまの平帝は、中山国の衛姫が母親である。

王莽は、衛氏の親族を高い爵位を与えたが、中山国に留めた。衛氏は、長安に来ることができない。

扶風功曹申屠剛以直言對策曰:「臣聞成王幼少,周公攝政,聽言下賢,均權布寵, 動順天地,舉措不失;然近則召公不說,遠則四國流言。今聖主始免襁褓,即位以來, 至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚,親疏相錯,杜塞 間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。宜亟遣使者征中山太后,置之別宮,令時朝見,又召 馮、衛二族,裁與冗職,使得執戟親奉宿衛,以抑患禍之端。上安社稷,下全保傅。」 莽令太后下詔曰:「剛所言僻經妄說,違背大義。」罷歸田裡。

扶風の功曹・申屠剛は、王莽に直言した。 「平帝は幼い。前漢のルールでは、皇帝の血縁(衛氏)が、政治を助ける。いくら賢者でも、他人(王莽)は補佐に回るべきだ。中山国から、衛氏を招くように」と。
王莽は太后をとおして、詔した。「申屠剛は、頭がおかしい」と。

丙午,封魯頃公之八世孫公子寬為褒魯侯,奉周公祀;封褒成君孔霸曾孫均為褒成 侯,奉孔子祀。 詔:「天下女徒已論,歸家,出雇山錢,月三百。復貞婦,鄉一人。大司農部丞十 三人,人部一州,勸農桑。」

5月丙午、魯公の子孫に、周公を祭らせた。孔子の子孫に、孔子を祭った。
女性の罪人を、家に返した。

胡三省の注釈も多いですが。政策の内容と影響は、東晋次『王莽/儒家の理想に憑かれた男』白帝社2003に書いてあるので、いま、はぶきます。

大司農部丞の13人が、1人で1州を担当し、農桑を勧めた。

胡三省はいう。武帝のとき、桑弘羊は、大司農部丞を、数十人おいた。郡国を担当した。塩鉄を等輸する仕事をした。いま13人にしぼり、州を担当させた。


後1年秋、天下の罪人をゆるす

秋,九月,赦天下徒。

後1年秋9月、天下の罪人をゆるした。101123

後1年は、秋冬がこの1行のみ。王莽は、けっきょく、いつ安漢公を受けたのだろう。司馬光は、年月日を、ちゃんと書いていない。つぎの月の記事で、王莽は「安漢公」と呼ばれ、ふつうに応答していた。なぜ間接的に暗示したのか?
【追記】T_S氏のご指摘により、王莽は安漢公を受けていたと判明しました。