後1年、王莽が安漢公となる
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
後1年春正月、王莽が安漢公を5回ことわる
春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、黑雉二。莽白太后 下詔,以白雉薦宗廟。於是群臣盛陳莽功德,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周, 莽宜賜號曰安漢公,益戶疇爵邑。
後1年春正月、王莽は益州にウソを言わせた。国外の蛮夷が、越裳氏を名のり、なんども翻訳して、白キジ1羽と、黒キジ2羽を献上してきたと。
顔師古はいう。「訳」とは、伝えて言うこと。道路が絶え、風俗が違うから、なんども翻訳が必要だった。本文にある「風」は「諷」におなじ。
王莽は王太后に、白キジを宗廟に供えさせた。郡臣は、言った。「周の成公は白キジをもらったから、周公を名のった。王莽を、安漢公として、食邑を子孫まで保たせるべきです」と。
張晏はいう。前漢のルールでは、食邑を子孫がつぐとき、代ごとに20%ずつ減らす。「疇」は、等しいこと。ふたたび減らさないことをいう。
賢はいう。「疇」は、等しいこと。功臣の子孫が、先代とおなじ食邑をつぐことを指す。つまり王莽が安漢公に進んだら、王莽の子孫は、永久に食邑をキープできる。
王太后は、安漢公について、尚書に検討させた。王莽は上書した。「孔光、王舜、甄豐、甄邯は、平帝即位に尽力しました。彼らを功賞すべきです。私(王莽)に、功賞はいりません」と。甄邯は言った。「王莽が王太后と親族だからといって、王莽を褒めないのでは、偏りがでる。王莽を安漢公にしなさい」と。王莽は、4回ことわった。
王莽は病気と称して、立てない。左右の人は、王太后に言う。「王莽の気持ちを、尊重しなさい。孔光らのみ、褒めましょう」と。王莽は「それでいい」と言い、立ち上がった。
後1年2月、莽が天下に恩沢をバラまく
後1年2月丙辰、王太后は詔した。「太傅・博山侯の孔光を太師、車騎將軍とする。安陽侯・王舜を太保とする。どちらも1万戸を封じる。
胡三省はいう。『考異』がいう表で、2月丙辰に封じられたのは、宣帝の耳孫・劉信らだ。孔光たちの記事ではない。『考異』も、おかしい。
左將軍・光祿勳の甄豊を、少傅・廣陽侯とする。みな四輔の職を授かった。侍中・奉車都尉の邯封は、承陽侯となった」
ぼくは思う。王舜がもらった南陽は、王莽の新都とちかい。さすが従弟だ。そして、のちに光武帝が起兵するのが、南陽郡。王舜は、光武帝にボコられるんだっけ。忘れちゃった。伏線を楽しみにしよう。
於是莽為惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公 號,讓還益封事,雲:「願須百姓家給,然後加賞。」
4人が賞を受けたが、王莽は立たない。
郡臣は、王莽が賞を受けないことが、納得できない。「功績ある王莽が、賞されなければ、百僚は失望する」と。王太后は、詔した。「大司馬・新都侯の王莽を、太傅とする。四輔をさせる。王莽を安漢公とし、2万8千戸を増やす」と。
詔を聞いた王莽は、恐れて立てない。太傅と安漢公を、返上した。「天下の万民に、物資が行き渡ってから、その後、私は賞を受けとります」と。
「詔を聞いた王莽は、恐れて立てない。太傅と安漢公を、返上した。「天下の万民に、物資が行き渡ってから、その後、私は賞を受けとります」と。
「於是莽為惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公號,讓還益封事,云:「願須百姓家給,然後加賞。」ですので、太傅・安漢公は受けてます。返上したのは「益封事」つまり領地加増だけ。官位・称号は受けたということです。(引用おわり)
郡臣は納得しない。太后は詔した。「もし王莽が万民を、気にかけるなら。王莽への奉賜を、さらに増やさねばなりません。万民への気づかいは、大司徒と大司空にも、聞かせましょう」
顔師古はいう。倍故とは、数がおおくと、掛け算すること。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「公自期百姓家給,是以聽之,」は「安漢公王莽は民の生活を考えて加増を返上したので、返上許しました」だろうか。
「其令公奉賜皆倍故。」の「其」は漢代の行政用語で、皇帝(皇太后)の詔勅における命令文の文頭の発語。これ以降が詔勅の本文である命令。「王莽の俸給等を倍増しなさい」という皇太后の命令。
「百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」は「民の生活が困窮せず足りているかどうかについては、大司徒・大司空が調べて私に報告しなさい」というところか。「以聞」は「皇帝に申し上げる」。「王莽が気にかけている民の生活もフォローする」ということだろう。
この部分は漢書王莽伝でもかなり省略された大略しか載っていないようで、どういう話が展開されたかわからないところもあるけれど・・・。(引用おわり)
王莽は安漢公を受けず、宗室や郡臣を、褒賞しろと言った。前漢の皇族36人を、列侯にした。
『考異』はいう。この記事の時期について。平帝紀は、元始元年とする。王莽伝は、元始五年とする。王莽伝が誤りである。王子侯表では、元始元年2月丙辰、15人の侯が記される。平帝紀と、メンバーがちがう。
郡臣25人が、関内侯になった。諸侯王公や列侯、関内侯で、子がなければ孫に嗣がせた。同母兄弟にも嗣がせた。罪で戸籍をはずれた人は、みな戻された。比二千石より高位の老人は、所得の3分の1の年金をもらった。王莽は、役人から庶民まで、すべて恩沢をほどこした。
後1年2月、王莽が前漢の人事権をにぎる
置羲和官,秩二千石。
王莽は、役人や庶民にこびた。専断したいからだ。王太后は老いて、政治にあきた。王莽はこれを知り、公卿に言わせた。「太守と刺史に、人材を挙げさせよ。採用のとき、みな王莽と面接せよ。また王太后は高齢だから、小さな政治を見させてはダメだ」と。王太后は、王莽の言うなりに詔した。
ぼくは思う。人事権のある人が、つよい。古今、おなじだなあ。笑
王莽の気に入った人は、採用された。王莽が気に入らなければ、不採用だ。王莽の権限は、皇帝と同じだ。
羲和の官をおいた。秩禄は2千石。
後1年夏、平帝の外戚を、中山国に押し込める
王莽恐帝外家衛氏奪其權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,橈亂 國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗為成帝后,宜明一統之義,以戒前事,為後代 法。」六月,遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衛姬為中山孝王后。賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內 侯。賜帝女弟三人號曰君,皆留中山,不得至京師。
後1年5月丁巳ついたち、日食した。大赦した。公卿より以下に、敦厚で直言できる人を、1人ずつ挙げさせた。
王莽は、外戚の衛氏に、政権を奪われることを恐れた。
王莽は、衛氏の親族を高い爵位を与えたが、中山国に留めた。衛氏は、長安に来ることができない。
扶風の功曹・申屠剛は、王莽に直言した。
「平帝は幼い。前漢のルールでは、皇帝の血縁(衛氏)が、政治を助ける。いくら賢者でも、他人(王莽)は補佐に回るべきだ。中山国から、衛氏を招くように」と。
王莽は太后をとおして、詔した。「申屠剛は、頭がおかしい」と。
5月丙午、魯公の子孫に、周公を祭らせた。孔子の子孫に、孔子を祭った。
女性の罪人を、家に返した。
大司農部丞の13人が、1人で1州を担当し、農桑を勧めた。
後1年秋、天下の罪人をゆるす
後1年秋9月、天下の罪人をゆるした。101123
【追記】T_S氏のご指摘により、王莽は安漢公を受けていたと判明しました。