124年、皇太子・劉保が廃される
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
124年春2月、樊豐が楊震に、鴆毒を飲ます
春,正月,班勇至樓蘭,以鄯善歸附,特加三綬,而龜茲王白英猶自疑未下。勇開 以恩信,白英乃率姑墨、溫宿,自縛詣勇,因發其兵步騎萬餘人到車師前王庭,擊走匈 奴伊蠡王於伊和谷,收得前部五千餘人,於是前部始復開通。還,屯田柳中。 二月,丙子,車駕東巡。辛卯,幸泰山。三月,戊戌,幸魯,還,幸東平,至東郡, 歷魏郡、河內而還。
124年春正月、班勇は樓蘭にゆき、北匈奴を破り、前部王と開通した。班勇は、柳中にもどる。
124年2月丙子、安帝の車駕は東巡した。2月辛卯、泰山にゆく。3月戊戌、魯郡、東平、東郡、魏郡、河內をとおって、京師にかえる。
はじめ安帝は、楊震を無視した。だから、樊豐、周廣、謝惲らは、詔書を偽造して、司農にある金銭や穀物、大匠にある材木をつかい、私物を建造した。楊震が、安帝を諌めた。「国家の財産が、浪費されている」と。
安帝が楊震を気にとめると、樊豐らは楊震を憤怨した。だが楊震が名儒だから、楊震に危害を加えられない。
たまたま河間の男子・趙騰が、上書で得失をのべた。安帝は怒り、下獄したい。楊震が、趙騰を弁護した。「古代の名君は、どんな小人の発言でも聞いた」と。安帝は楊震を聞かず、趙騰を殺した。
安帝が東巡すると、樊豐らは輿に乗り、第宅を競った。太尉部掾の高舒は、大匠令史を調べた。樊豐らが偽造した詔書を見つけた。樊豐は、偽造の発覚を恐れ、楊震をそしった。「趙騰(1段上を参照)が死に、楊震は安帝に怒る。また楊震は、鄧氏の故吏だから、安帝を恨む」と。
124年2月壬戌、安帝の車駕は、京師にもどる。楊震から、太尉の印綬を取りあげた。楊震は閉門した。樊豐は、大鴻臚の耿寶に上奏させた。「楊震は大臣のくせに、罪に服さない」と。安帝は、楊震を故郷に帰した。
楊震は、鴆毒を飲んで死んだ。
弘農太守の移良は、樊豐の意思をうけ、楊震の棺を暴かせた。道路の人は、みな隕涕した。
太僕・征羌(汝南)侯の來歷は言う。「耿寶は、外戚だ。耿寶は、忠良な楊震を傷害した。天禍が、耿寶にいたるだろう」と。来歴は、来歙の曾孫だ。
124年夏、度遼將軍の耿夔が、降人を逃がす
124年夏4月乙丑、安帝の車駕は入宮した。
4月戊辰、光祿勳の馮石を太尉とした。
南單于が死に、弟が立つ。度遼將軍の耿夔は、新たに降った種族から、きびしく徴発したから、逃げられた。中郎將の馬翼が、追撃した。
日南の徼外にいる蠻夷が、內屬した。
6月、鮮卑が玄菟を寇した。
6月庚午、閬中山が崩れた。
124年秋、江京、樊豐が、皇太子を廃す
王聖、江京、樊豐等譖太子乳母王男、廚監邴吉等,殺之,家屬徙比景;太子思男、 吉,數為歎息。京、豐懼有後害,乃與閻後妄造虛無,構讒太子及東宮官屬。帝怒,召 公卿以下,議廢太子。耿寶等承旨,皆以為當廢。九月,丁酉,廢皇太子保 為濟陰王,居於德陽殿西鐘下。
124年秋8月辛巳、大鴻臚の耿寶を大將軍とした。
王聖、江京、樊豐らは、太子の乳母・王男と、廚監の邴吉らを殺した。家屬を比景にうつす。太子(劉保)は、王男と邴吉をしたい、歎息した。江京、樊豐は、太子に復讐されるのを懼れ、閻皇后とともに、太子とその官属を構讒した。耿寶は、太子を廃せと言った。
太僕の來歷と、太常の桓焉と、廷尉する犍為の張皓は、議した。「『書経』はいう。15歳未満なら、本人に責任がないと。忠良な保傅をつけて、太子を養育せよ」と。安帝は従わず。桓焉は、桓郁の子だ。
張皓は退き、ふたたび上書した。安帝は、省みず。
124年9月丁酉、皇太子の劉保を廃して、濟陰王とした。德陽殿の西鐘下におく。
124年秋、章帝の孫・来歴が、皇太子を弁護
來歷は、光祿勳の[示殳]諷、宗正の劉瑋、將作大匠の薛皓、
侍中の閭丘弘、陳光、趙代、施延、太中大夫する九江の硃倀ら10余人と、鴻都門にゆき、太子の無実を証明した。安帝は、ウザいと思った。安帝は中常侍に命じ、群臣を脅した。「來歷や[示殳]諷らは、外見は忠直だが、太子に恩を売って、內に後福を望む。朝廷の決定に逆らったら、罰する」と。諫者は、顔色を失った。
薛皓は安帝に怖気づいたが、来歴は意見を変えない。安帝は怒り、尚書令の陳忠と、諸尚書に、来歴らを劾奏させた。安帝は、来歴の兄弟の官職を免じ、國租を削った。来歴を、来歴の母・武安公主と会えなくした。
隴西郡が、はじめて狄道にもどる。
燒當羌の麻奴が死に、弟が立つ。9月庚申みそか、日食した。124年冬10月、安帝は長安にゆく。11月乙丑、雒陽にかえる。この124年、京師および諸郡國23で、地震あり。郡国36で、大水、雨雹あり。101230