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『晋書』列34、武帝と元帝の子
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3)元帝、孫権の二の舞
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元帝の子たちです。
元帝六男:宮人荀氏生明帝及琅邪孝王裒。石婕妤生東海哀王沖。王才人生武陵威王晞。鄭夫人生琅邪悼王煥及簡文帝。
元帝(司馬睿)には六男がいた。
宮人荀氏は、明帝と琅邪孝王裒を生んだ。
石婕妤は、東海哀王沖を生んだ。
王才人は、武陵威王晞を生んだ。
鄭夫人生は、琅邪悼王煥と簡文帝を生んだ。
司馬裒
琅邪孝王裒字道成,母荀氏,以微賤入宮,元帝命虞妃養之。裒初繼叔父長樂亭侯渾,後徙封宣城郡公,拜後將軍。及帝為晉王,有司奏立太子,帝以裒有成人之量,過於明帝,從容謂王導曰:「立子以德不以年。」導曰:「世子、宣城俱有朗雋之目,固當以年。」於是太子位遂定。更封裒琅邪,嗣恭王后,改食會稽、宣城邑五萬二千戶,拜散騎常侍、使持節、都督青徐兗三州諸軍事、車騎將軍,征還京師。建武元年薨,年十八,贈車騎大將軍,加侍中。及妃山氏薨,祔葬,穆帝更贈裒太保。子哀王安國立,未逾年薨。
琅邪孝王裒は、あざなを道成という。母は荀氏で、微賤な身分だったが入宮した。元帝は、虞妃に命じて荀氏を養わせた。
司馬裒ははじめ、叔父で長樂亭侯の司馬渾を継いだ。のちに移されて宣城郡公となり、後將軍を拝した。
元帝が晉王になると、有司は立太子をせよと上奏した。元帝は、司馬裒が成人之量があり、明帝より優れているから、皇太子にしたいと思った。元帝は、王導に従容として言った。
「皇太子は、年齢ではなく徳を基準に決めよう」
〈訳注〉揚州には孫権の呪いがかかっており、後継者を迷うのだ(笑)
王導はこれを受けて、言った。
「世子(のちの明帝)も宣城(司馬裒)も、どちらも朗雋之目があります。(才能が拮抗しているなら)年齢で決めるべきです」
〈訳注〉「成人之量」は一人前の度量で、「朗雋之目」は明朗として優れていることか。うまく訳せないが、同じ意味を王導が言い換えた。
王導の意見によって、皇太子が(明帝に)決定した。
皇太子になれなかったから、司馬裒は琅邪王に封じられ、恭王の後嗣となった。
〈訳注〉瑯邪王は、元帝がもと就いていた。だけど恭王って誰?
會稽郡と宣城郡に邑五萬二千戸を新たにもらった。散騎常侍を拝し、使持節、都督青徐兗三州諸軍事、車騎將軍となった。京師(建康)に戻った。
建武元年に薨じた。18歳だった。車騎大將軍を贈られ、侍中を加えられた。王妃の山氏が薨じると、セットで埋葬された。穆帝は、司馬裒に太保を追贈した。子で哀王の司馬安が国を建てたが、数年せず死んだ。
司馬沖
東海哀王沖,字道讓。元帝以東海王越世子毗沒于石勒,不知存亡,乃以沖繼毗後,稱東海世子,以毗陵郡增本封邑萬戶,又改食下邳、蘭陵,以越妃裴氏為太妃,拜長水校尉。高選僚佐,以沛國劉耽為司馬,潁川庾懌為功曹,吳郡顧和為主簿。永昌初,遷中軍將軍,加散騎常侍。及東海太妃薨,因發毗喪。沖即王位,以滎陽益東海國,轉車騎將軍,徙驃騎將軍。咸康七年薨,年三十一,贈侍中、驃騎大將軍、儀同三司,無子。
東海哀王沖は、あざなを道讓という。東海王越の世子である司馬毗が石勒に攻められて、存亡が分からなくなったので、元帝は司馬沖に司馬毗を継がせて、「東海世子」と称させた。毗陵郡を追加して、食邑を萬戸とし、さらに下邳、蘭陵に改封した。司馬越の妃である裴氏を太妃とし、長水校尉を拝した。
〈訳注〉司馬越は、八王の乱の実質の勝者。その勝者の後釜を、司馬沖が食ったことになる。元帝は司馬越の下に付いて八王の乱を過ごしたが、甘んじなかった。
有能な人物を選出して輔佐させた。沛國の劉耽を司馬とし、潁川の庾懌を功曹とし、吳郡の顧和を主簿とした。永昌初、中軍將軍に遷り、散騎常侍を加えられた。東海太妃(裴氏)が薨ずると、司馬毗(司馬越の子)の喪を発した。
〈訳注〉母が死んだので、遠慮なく、行方不明の子の死を断定した。
司馬沖は王位につき、滎陽郡を東海國に編入した。車騎將軍に転じ、驃騎將軍に移った。咸康七年、薨じた。31歳だった。侍中を贈られ、驃騎大將軍、儀同三司。子はなかった。
成帝臨崩,詔曰:「哀王無嗣,國統將絕,朕所哀怛。其以小晚生奕繼哀王為東海王。」以道遠,罷滎陽,更以臨川郡益東海。及哀帝以琅邪王即尊位,徙奕為琅邪王,東海國闕,無嗣。奕後入纂大業,桓溫廢之,複為東海王,既而貶為海西公,東海國又闕嗣。隆安三年,安帝詔以會稽忠王次子彥璋為東海王,繼哀王為曾孫,改食吳興郡。為桓玄所害,國除。
東晋3代の成帝が死に際に詔した。
「哀王(司馬沖)は後嗣がないから、東海國の血統は絶えようとしている。朕はそれを哀怛している。小晚生の司馬奕に、哀王を継がせて、東海王とせよ」
(建康から)道が遠いから、滎陽郡を廃止して、臨川郡を東海国に編入した。哀帝が琅邪王から皇帝になると、司馬奕を琅邪王に補充したから、東海國は王位が欠けた。司馬奕が後に哀帝の位を奪うと、桓温は司馬奕を廃し、また東海王に戻した。司馬奕が貶められて海西公になると、また東海國は王嗣が欠けた。
隆安三年、安帝は詔して、會稽忠王の次子である司馬彦璋を東海王とした。司馬彦璋は、哀王の曾孫となり、呉興郡を食邑とした。司馬彦璋が桓玄に殺害されると、東海国は除かれた。
〈訳注〉司馬越を基点とする東海王は、東晋の正統性と裏付ける大切な王位だったようです。東晋の皇帝を輩出したり、政争のど真ん中にあったりしました。
司馬晞
武陵威王晞,字道叔,出繼武陵王喆後,太興元年受封。咸和初,拜散騎常侍。後以湘東增武陵國,除左將軍,遷鎮軍將軍,加散騎常侍。康帝即位,加侍中、特進。建元初,領秘書監。 穆帝即位,轉鎮軍大將軍,遷太宰。太和初,加羽葆鼓吹,入朝不趨,贊拜不名,劍履上殿。固讓。
武陵威王晞は、あざなを道叔という。家を出て、武陵王の司馬喆を継いだ。太興元年、受封した。咸和初、散騎常侍を拝した。後に湘東を武陵國に編入した。左將軍に除せられ、鎮軍將軍に遷り、散騎常侍を加えられた。 康帝が即位すると、侍中を加えられ、特進。
建元初、秘書監を領ねた。
穆帝が即位すると、鎮軍大將軍に轉じ、太宰に遷った。太和初、羽葆鼓吹を加えられ、入朝不趨、贊拜不名、劍履上殿の特権を許されたが、固辞した。
晞無學術而有武幹,為桓溫所忌。及簡文帝即位,溫乃表晞曰:「晞體自皇極,故寵靈光世,不能率由王度,修己慎行,而聚納輕剽,苞藏亡命。又息綜矜忍,虐加於人。袁真叛逆,事相連染。頃自猜懼,將成亂階。請免晞官,以王歸籓,免其世子綜官,解子逢散騎常侍。」逢以梁王隨晞,晞既見黜,送馬八十五匹、三百人杖以歸溫。溫又逼新蔡王晁使自誣與晞、綜及著作郎殷涓、太宰長史庾倩、掾曹秀、舍人劉彊等謀逆,遂收付廷尉,請誅之。簡文帝不許,溫於是奏徙新安郡,家屬悉從之,而族誅殷涓等,廢晃徙沖陽郡。
司馬晞は、學術がなくて、武幹だったから(筋肉バカ)、桓温に忌み嫌われた。簡文帝が即位したとき、桓温は司馬晞について上表した。
「司馬晞は皇族だから、祖先の加護は素晴らしいのに、節度がなくて慎まず、剣技ばかり磨いている。司馬晞の子である司馬綜は、プライドが高くて残忍で、人を虐待している。袁真が叛逆したとき、司馬綜は同調した。動きが怪しく、叛乱でも起こしそうである。
司馬晞を免官にして、武陵国に帰らせ、世子の司馬綜もクビにすべきだ。子の司馬□逢も、散騎常侍を解任すべきだ」
司馬□逢は梁王で、父の司馬晞に従っていた。だが父がクビになると、馬八十五匹、三百人杖を送って、桓温の派閥に加わった。桓温はまた新蔡王の司馬晁に迫って、
「司馬晞と司馬綜および著作郎の殷涓、太宰長史の庾倩、掾の曹秀、舍人の劉彊らが謀逆しています。捕らえて廷尉につき出し、殺して下さい」
と誣告させた。
簡文帝は許さなった。結果を受けて桓温は、新安郡に流罪にするように上奏した。司馬晞は一族郎党ともに、新安郡へ移住した。殷涓らは族誅され、司馬晃は王位を廃されて沖陽郡に移った。
〈訳注〉東晋の歴史を知りませんが、桓温が司馬晞と司馬晁の潰しあいを演出した?ひとり勝ち?
太元六年,晞卒于新安,時年六十六。孝武帝三日臨於西堂,詔曰:「感惟摧慟,便奉迎靈柩,並改移妃應氏及故世子梁王諸喪,家屬悉還。」複下詔曰:「故前武陵王體自皇極,克己思愆。仰惟先朝仁宥之旨,豈可情禮靡寄!其追封新甯郡王,邑千戶。」晞三子:綜、逢、遵。以遵嗣。追贈綜給事中,逢散騎郎。十二年,追複晞武陵國,綜、逢各複先官,逢還繼梁國。
太元六年、司馬晞は新安郡で卒した。
〈訳注〉死を意味する動詞が「卒」なのは、流罪中だったからか。
66歳だった。孝武帝は3日間、西堂に臨んで詔した。
「惟だ摧慟を感ず、便ち靈柩を奉迎すべし。司馬晞の妃である應氏と、もとの世子梁王(司馬□逢)らの罪を許して呼び戻してやれ」
また詔を下した。
「なき前武陵王(司馬晞)は、血筋は貴いのに、好き勝手をやった。甘やかしてはいかん。新甯郡王を追贈して、邑千戸を与えよ」
〈訳注〉郡王だから、ランクが下なのです。
司馬晞には三子がいた。司馬綜、司馬□逢、司馬遵である。司馬遵が、司馬晞を嗣いだ。司馬綜には給事中を追贈し、司馬□逢には散騎郎を追贈した。 孝武帝の十二年、また司馬晞の位を(新甯郡王から)武陵国王に戻して、司馬綜、司馬□逢をもとの官位に戻して、司馬□逢は梁國を継ぎ直した(名誉を回復した)。
〈訳注〉元帝の子なのに、謀反・罪人の家柄になってしまった。
つぎは、司馬晞の子たちの列伝。このサイトは『三国志』がテーマなのに、どこに行くんだろう。。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列伝34、武帝と元帝の子
1)恵帝の兄弟
2)愍帝の父親は最劣
3)元帝、孫権の二の舞
4)東海国と瑯邪国
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