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『晋書』列34、武帝と元帝の子 2)愍帝の父親は最劣
司馬演
代哀王演,字宏度,太康十年受封。少有廢疾,不之國,演常止于宮中。薨,無子,以成都王穎子廓為嗣,改封中都王,後與穎俱死。
代哀王演は、あざなを宏度という。太康十年に、代王を受封した。幼くして廢疾があったから、代国に行かなかった。
〈訳注〉代とはまた、北の果てなので。。
司馬演はつねに洛陽の宮中にいた。薨じて、子がなかったから、成都王穎の子である司馬廓に、代王を嗣がせた。中都王に改封され、のちに父の司馬頴とともに死んだ。
〈訳注〉名が「演」とは、司馬懿より韜晦が上手そうなのに、残念!

司馬該
新都王該,字玄度,咸寧三年受封,太康四年薨,時年十二。無子,國除。
新都王該は、あざなを玄度という。咸寧三年に受封された。太康四年に薨じた。12歳だった。國は除かれた。

司馬遐
司馬遐と司馬覃の父子は、このサイト内で翻訳済なので、そちらをご覧下さい。司馬覃はたびたび皇太子になりながら、懐帝の即位を揺るぎなくするために、司馬越に14歳のときに殺された。
司馬覃の弟の列伝は、前回は訳してないので、やります。

籥初封新蔡王,覃薨,還封清河王。
銓初封上庸王,懷帝即位,更封豫章王。二年,立為皇太子。洛京傾覆,沒于劉聰。
端初封廣川王,銓之為皇太子也,轉封豫章,禮秩如皇子,拜散騎常侍、平南將軍、都督江州諸軍事、假節。當之國,會洛陽陷沒,端東奔苟晞于蒙。晞立為皇太子,七十日,為石勒所沒。

司馬籥は、はじめ新蔡王に封じられた。兄の司馬覃が薨じると、もとどおり清河王に封じられた。
司馬銓は、はじめ上庸王に封じられた。懷帝が即位すると、豫章王に改められた。二(308年)年、懐帝の皇太子に立てられた。洛京が傾覆して、劉聰に殺された。
司馬端は、はじめ廣川王に封じられた。兄の司馬銓が皇太子に成ると、後釜で豫章王となった。禮秩は皇子と同レベルで、散騎常侍を拝し、平南將軍、都督江州諸軍事、假節。豫章國に行こうとしたとき、洛陽が陷沒したから、司馬端は東奔して苟晞を頼った。荀晞は司馬端を皇太子にしたが、70日後に石勒に殺された。
〈訳注〉司馬覃は皇太子だったが、その弟たちも皇太子になってる。司馬遐は、皇帝未遂の血筋です。
司馬謨
汝陰哀王謨,字令度,太康七年薨,時年十一。無後,國除。
汝陰哀王謨は、あざなを令度という。太康七年に薨じた。11歳だった。後継がおらず、國は除かれた。

司馬晏
吳敬王晏,字平度,太康十年受封,食丹陽、吳興並吳三郡,曆射聲校尉、後軍將軍。與兄淮南王允共攻趙王倫,允敗,收晏付廷尉,欲殺之。傅祗於朝堂正色而爭,於是群官並諫,倫乃貶為賓徒縣王。後徙封代王。倫誅,詔複晏本封,拜上軍大將軍、開府,加侍中。長沙王乂、成都王穎之相攻也,乂以晏為前鋒都督,數交戰。永嘉中,為太尉、太將軍。晏為人恭願,才不及中人,于武帝諸子中最劣。又少有風疾,視瞻不端,後轉增劇,不堪朝覲。及洛京傾覆,晏亦遇害,時年三十一。湣帝即位,追贈太保。五子,長子不顯名,與晏同沒。餘四子:祥、鄴、固、衍。祥嗣淮南王允。鄴即湣帝。固初封漢王,改封濟南。衍初封新都王,改封濟陰,為散騎常侍。皆沒於賊。

吳敬王晏は、あざなを平度という。太康十年に受封された。丹陽郡、呉興郡、呉郡の3郡を食邑とした。射聲校尉、後軍將軍を歴任した。
(母が同じ)兄の淮南王允とともに、趙王倫を攻めた。司馬允が敗れると、司馬倫は司馬晏を捕らえ、廷尉に引き渡して殺そうとした。傅祗(担当官たち)は朝堂で激しく論争をして、司馬晏を殺せと主張した。だが群官たちが諫めたから、司馬倫を貶めて賓徒とし、縣王に下げた。のちに代王に移して封じられた。
〈訳注〉反逆者が任じられる「代王」に、罪もなく封じられた人たちが可哀想だ。
司馬倫が誅されると、詔して司馬晏をもとの封地(呉王)に戻した。上軍大將軍を拝し、開府、侍中を加えられた。
長沙王乂と成都王穎が交戦状態になると、司馬乂は、司馬晏を前鋒都督にした。司馬晏は司馬乂の将軍として、しばしば司馬頴と戦った。
永嘉中(307-313)、太尉、太將軍となった。
司馬晏の人となりは恭願で、才能は中人(平均的な人)に及ばず、武帝の諸子の中で最劣であった。
〈訳注〉恵帝よりひどいのか。司馬倫に見逃され、司馬頴に見逃され、司馬越に受け入れられたんだから、よほど邪魔にならなかったんだろう。
また幼いときから風疾があり、視瞻不端(目が悪く)、のちにますます悪化し、朝廷の職務に堪えなかった。洛京が傾覆すると、司馬晏もまた殺害された。31歳だった。湣帝が即位すると、太保を追贈された。
〈訳注〉愍帝の父だからだ。
五子がいた。長子は名前が不明で、司馬晏と同じときに没した。残りの四子は、祥、鄴、固、衍である。次男の司馬祥は、淮南王允を継いだ。三男の司馬鄴は湣帝である。
〈訳注〉長安政権だった愍帝は、最もダメな司馬晏の子だったのか。ダメな父だからこそ、八王の乱を生き残ったと言えるだが。
四男の司馬固は、はじめ漢王に封じられ、濟南王に改められた。五男の司馬衍は、はじめ新都王に封じられ、濟陰王に改められた。散騎常侍となった。みな賊(趙漢ら)に殺された。

司馬恢
渤海殤王恢は、あざなを思度という。太康五年に薨じた。2歳だった。死後に渤海を追贈された。
〈訳注〉これで武帝の子は終わりです。あざなは成人するときに付けるはずだが、「○度」というパタンが決まっていたからか、夭折してもあざながありました。
次からは、元帝の子供たちです。恵帝・懐帝・愍帝は、こうやって列伝を立てるほどに子孫が広がらなかったのだ。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列伝34、武帝と元帝の子
1)恵帝の兄弟
2)愍帝の父親は最劣
3)元帝は孫権の二の舞?
4)東海国と瑯邪国