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『晋書』列34、武帝と元帝の子 4)東海国と瑯邪国
司馬晞の子たちです。

司馬□逢
梁王逢,字賢明,出繼梁王翹,官至永安太僕,與父晞俱廢。薨,子和嗣。太元中複國。薨,子珍之嗣。桓玄篡位,國人孔樸奉珍之奔于壽陽。桓玄敗,珍之歸朝廷。太將軍武陵王令曰:「梁王珍之理悟貞立,蒙險違難,撫義懷順,載奔闕庭。值壽陽擾亂,在危克固,且可通直散騎郎。」累遷遊擊將軍、左衛、太常。劉裕伐姚泓,請為諮議參軍。裕將弱王室,誣其罪害之。

梁王□逢は、あざなを賢明という。家を出て、梁王の司馬翹を継いだ。
官位は、永安年間に太僕となっていたが、父の司馬晞とともにクビになった。
梁王□逢が薨じると、子の司馬和が嗣いだ。太元中に、梁國が戻された。司馬和が薨じると、子の司馬珍之が嗣いだ。桓玄が簒位すると、梁國の人である孔樸が、司馬珍之を奉戴して壽陽に逃げた。桓玄が敗れると、司馬珍之は朝廷に帰った。
太將軍の武陵王が令した。
「梁王の司馬珍之は、道理と貞操を知っている。東晋が簒奪されたとき、うまく災難を避けた。直散騎郎に任命すると良いでしょう」
かさねて遊擊將軍に遷り、左衛、太常となった。劉裕が姚泓を討伐したとき、劉裕に請われて諮議參軍となった。劉裕は東晋の王室が弱体化したから、司馬珍之の罪をでっちあげて殺害した。
司馬遵
忠敬王遵,字茂遠。初襲封新甯,時年十二,受拜流涕,哀感左右。右將軍桓伊嘗詣遵,遵曰:「門何為通桓氏?」左右曰:「伊與桓溫疏宗,相見無嫌。」遵曰:「我聞人姓木邊,便欲殺之,況諸桓乎!」由是少稱聰慧。及晞追複封武陵王,以遵嗣,曆位散騎常侍、秘書監、太常、中領軍。桓玄用事,拜金紫光祿大夫。玄篡,貶為彭澤侯,遣之國。行次石頭,夜濤水入淮,船破,未得發。會義旗興,複還國第。朝廷稱受密詔,使遵總攝萬機,加侍中、大將軍,移入東宮,內外畢敬。遷轉百官,稱制書;又教稱令書。安帝反正,更拜太保,加班劍二十人。義熙四年薨,時年三十五,詔賜東園溫明神器,朝服一具,衣一襲,錢百萬,布千匹,策贈太傳,葬加殊禮。子定王季度立,拜散騎侍郎。薨,子球之立。宋興,國除。

忠敬王遵は、あざなを茂遠という。はじめ新甯国を継いだ。12歳で受拜したとき流涕したから、左右の人を哀感させた。
〈訳注〉国王になれて嬉しかったのか?
右將軍の桓伊は、かつて司馬遵に面会した。
司馬遵は聞いた。
「なぜ桓氏に門を通らせたのか?」
左右の人は答えた。
「桓伊は(東晋の最有力者で恐ろしい)桓温の宗族ですが、桓温と親しくありません。そんなに面会を嫌がることはないでしょう」
司馬遵は言い返した。
「聞くところによると、人の姓は、木のように幹が枝分かれしたものだ。桓温は司馬氏を殺そうとした。同族である桓伊は、桓温と根が同じなのだから、心を許せるものか」と。
〈訳注〉訳がダラダラ解説めいてますが、ご容赦ください。
このエピソードにより、司馬遵は幼くして聰慧と称えられた。

なき父の司馬晞が名誉を回復され、武陵王に戻されると、司馬遵が嗣いだ。散騎常侍、秘書監、太常、中領軍を歴任した。桓玄に仕えて、金紫光祿大夫を拝した。
桓玄が簒奪すると、司馬遵は彭澤侯に貶められ、任国に行くことになった。道を次いで石頭城を通り、夜に濤水から淮水に入ったが、船が大破したので、出発できなかった。足止を食っているとき、東晋を復興する義挙があり、建康の宮廷に戻れた。
〈訳注〉桓氏の簒奪にビクビクするのが、東晋皇族のみなに課せられた仕事だったようで(笑)
朝廷から密詔を受け、司馬遵は政治の全般を助けることになった。侍中を加えられ、大將軍。東宮に移った。内外の全員から敬われた。百官の人事を担当し、命令書を発行した。安帝が復位すると、さらに太保を拝し、班劍二十人を加えられた。
義熙四年に薨じた。35歳だった。詔にて東園温明の神器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹を賜わった。太傳が追贈され、殊禮をプラスして葬られた。
子で定王の司馬季度が立ち、散騎侍郎を拝した。司馬季度が薨ずると、子の司馬球之が立った。宋が興ると、武陵國は除かれた。
司馬晞の系統を見てきましたが、再び元帝の子に戻ります。

司馬煥
琅邪悼王煥,字耀祖。母有寵,元帝特所鍾愛。初繼帝弟長樂亭侯渾,後封顯義亭侯。尚書令刁協奏:「昔魏臨淄侯以邢顒為家丞,劉楨為庶子。今侯幼弱,宜選明德。」帝令曰:「臨淄萬戶封,又植少有美才,能同游田蘇者。今晚生蒙弱,何論於此!間封此兒,不以寵稚子也。亡弟當應繼嗣,不獲已耳。家丞、庶子,足以攝祠祭而已,豈宜屈賢才以受無用乎!」及煥疾篤,帝為之撤膳,乃下詔封為琅邪王,嗣恭王后,俄而薨,年二歲。


琅邪悼王煥は、あざなを耀祖という。母は元帝から特別な寵愛を受けた。はじめ、元帝の弟で長樂亭侯の司馬渾を継いだ。のちに顯義亭侯に封じられた。
尚書令の刁協が上奏した。
「むかし魏の臨淄侯(曹植)は、邢顒を家丞にして、劉楨を庶子にしました。いま侯(司馬煥)は幼弱ですから、明德な人物を付けて教育してもらいましょう」
元帝は応えた。
「曹植は、臨淄で萬戸に封じられた。曹植は、幼いときから美才があり、田蘇の人に混じって遊んだ。しかしわが子の司馬煥は蒙弱だから、曹植と同列に論じてはいかんよ。司馬煥を封じたのは、この稚子が可愛いからではなく、ただ弟の後継者を穴埋めするためだけだ。司馬煥に付ける家丞と庶子は、祠祭をやっていれば良く、徳のある教育までしなくて良い。どうして賢才に頼んで、退屈で無用のポストに就いてもらう必要があろうか」
〈訳注〉司馬煥がバカモノで、父親の元帝に見捨てられて不憫に見える。だがそうではなく、この時点でまだ司馬煥は数えで2歳未満だ。喋れないだろう。刁協が先走りすぎなんだ(笑)
司馬煥は疾病が篤くなった。元帝は司馬煥のために食事制限をした。詔を下して司馬煥を琅邪王に封じ、恭王を継がせた。にわかに司馬煥は薨じた。二歳だった。

帝悼念無已,將葬,以煥既封列國,加以成人之禮,詔立凶門柏曆,備吉凶儀服,營起陵園,功役甚眾。
琅邪國右常侍會稽孫霄上疏諫曰:(中略)
表寢不報。
永昌元年,立煥母弟昱為琅邪王,即簡文帝也。咸和二年,徙封會稽,以康帝為琅邪王。康帝即位,哀帝為琅邪王。哀帝即位,廢帝為琅邪王。廢帝即位,又以簡文帝攝行琅邪王國祀。簡文登阼,國遂無嗣。帝臨崩,封少子道子為琅邪王。太元十七年,道子為會稽王,更以恭帝為琅邪王。恭帝即位,於是琅邪國除。


元帝は死を悼む心が已まなかった。埋葬するとき、司馬煥がすでに列國に封じられているから、成人之禮を加えた。詔して凶門柏曆を立て、吉凶儀服を備え、陵園を營起した。元帝が命じた功役に従事する人は、とても多かった。
〈訳注〉どんな葬儀をやってるか分からないが、とにかく嬰児にはあるまじき盛大な弔い方を、元帝の親心がやらせたのだ。
琅邪國の右常侍を務める、會稽郡出身の孫霄が、上疏して諫めた。
(長いので省略)
上表は無視された。
永昌元年、司馬煥の同母弟の司馬昱を、琅邪王とした。これが簡文帝である。咸和二年、司馬昱は會稽に移された。康帝が、琅邪王となった。康帝が即位すると、哀帝が琅邪王となった。哀帝が即位すると、廢帝が琅邪王となった。廢帝が即位すると、また簡文帝が、琅邪王國の祭祀を代理で行なった。簡文が登阼(再即位?)すると、瑯邪國は嗣ぐ人がいない。帝が死にかけると、少子の司馬道子を琅邪王とした。
〈訳注〉東晋後半の皇帝は、まず瑯邪王になるようだ。
太元十七年、司馬道子が會稽王となると、恭帝が琅邪王となった。恭帝が即位すると、琅邪國は除かれた。090425
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このコンテンツの目次
>『晋書』列伝34、武帝と元帝の子
1)恵帝の兄弟
2)愍帝の父親は最劣
3)元帝は孫権の二の舞?
4)東海国と瑯邪国