表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝85「島夷桓玄」を翻訳/北魏目線の簒逆

1)荊州に割拠するまで

『晋書』では扱いのカラい桓玄ですが、『魏書』では、東晋と同格で列伝が立てられています。読んでみます。
興味が続いたら、『晋書』の列伝と比べてみたいところ。

父・桓温の遺産を清算

島夷桓玄,字敬道,本譙國龍亢楚也。僭晉大司馬溫之子,溫愛之,臨終命以為後。年七歲,襲封南郡公。登國五年,為司馬昌明太子洗馬。玄志氣不倫,欲以雄豪自許。朝議以溫有陵虐之跡,故抑玄兄弟,出為義興太守,不得志。少時去職。

島夷の桓玄は、あざなを敬道という。本貫は、譙國の龍亢楚である。僭晉の大司馬・桓温の子である。桓温は、桓玄を愛して、死ぬときに後継に指名した。桓玄は7歳のとき、南郡公に封じられた。登國五年、

北魏の年号です。西暦との比定は、『晋書』で追ったほうがラクなので省略。

為 桓玄は、司馬昌明の太子洗馬となった。桓玄の志氣は倫理に欠けて、自分を雄雄しい豪傑だと思っていた。
東晋の朝議は、桓温が皇帝を取り換え、権力を握りすぎて迷惑したので、桓玄の兄弟を抑えこんだ。桓玄は、義興太守として地方に出された。桓玄は志を得ず、若くして職を去った。

桓温のやったことは「陵虐之跡」だそうで。廃立のことでいいのか?


皇始初,司馬德宗立,其會稽王道子擅權,信任尚書僕射王國寶,為時所疾。玄說荊州刺史殷仲堪,令推德宗兗州刺史王恭為盟主,以討國寶,仲堪從之。會恭使亦上,相逢于中路,約同大舉,並抗表起兵。尋平王國寶等。天興初,德宗以玄為使持節、督交廣二州諸軍事、建威將軍、一越中郎將、廣州刺史。

皇始の初め、司馬德宗が皇帝となり、

東晋の最後から2人目の皇帝、安帝である。

會稽王の司馬道子が擅權した。司馬道子は、尚書僕射の王國寶を信任した。王國寶は、国家の弊害となった。
桓玄は、荊州刺史の殷仲堪に説いて、兗州刺史の王恭を盟主に推戴し、王國寶を討とうと持ちかけた。殷仲堪は、桓玄の誘いに乗った。王恭に建業へ攻めあがらせ、桓玄は中路で合流した。同盟を誓い、建業に大挙した。桓玄は東晋に上表して、王國寶の討伐を主張した。桓玄は勝ち、王國寶らを平定した。
天興初、桓玄は東晋で、使持節、督交廣二州諸軍事、建威將軍、一越中郎將、廣州刺史となった。

父・桓温のせいで、高位に昇れなかった桓玄。王國寶を滅ぼして、権力を得ました。「平」の一文字で終わってるが、たしか王國寶は、状況がヤバいと判断した、味方のはずの司馬道子に殺された。

建業の司馬氏との戦い

後王恭複與德宗豫州刺史庾楷共起兵,以討其江州刺史王愉、司馬尚之兄弟。玄及龍驤將軍揚佺期、荊州刺史殷仲堪等率軍應恭。玄等造於石頭。于時德宗征虜將軍司馬元顯一軍仍守石頭,列舟艦斷淮口。道子出軍,將屯中堂,忽有馬驚,軍中擾亂,人馬赴江者甚眾,良久乃定。玄等不知建業危弱,且王恭尋敗,玄甚惶懼,乃回軍于蔡洲,王恭司馬劉軍之率北府軍來次新亭,於是德宗以桓修為荊州,仲堪為廣州,玄為江州,佺期為雍州,刺史郗恢為尚書。

のちに王恭は、ふたたび豫州刺史の庾楷とともに起兵した。王恭は、江州刺史の王愉と、司馬尚之の兄弟を討伐した。桓玄と、龍驤將軍の揚佺期と、荊州刺史の殷仲堪らは、軍を率いて王恭に応じた。

王恭は、『晋書』列伝54で、東晋末の軍閥の1人として、列伝が立てられている。桓玄の親分のようなので、詳しく知りたい。

桓玄らは、石頭に造営した。征虜將軍の司馬元顯が、石頭を守り、舟艦で淮水の河口を塞いでいた。

司馬元顯は、司馬道子の子である。桓玄vs司馬元顯。

司馬道子が出軍し、建業の中堂に集結しようとした。馬がパニックを起こして、軍中を擾亂した。訳も分からず長江に走った人馬は、とても多かった。静まるのに、長い時間がかかった。
桓玄らは、建業が危弱だと知らず、かつ王恭が敗れたので、ひどく惶懼した。桓玄は、軍を反転させて、蔡洲に戻った。王恭の司馬である劉軍之は、北府の軍を率いて、新亭に入った。
ここにおいて東晋は、桓修に荊州を任せ、殷仲堪に廣州を任せ、桓玄に江州を任せ、楊佺期に雍州を任せた。刺史の郗恢は、尚書となった。

仲堪回師南旋,乃使人徇于玄等軍曰:「若不各散歸,大軍至江陵,當悉戮餘口。」仲堪偏將劉系先領兵二千隸於佺期,輒率眾而歸,玄等大懼,乃狼狽而走。庾楷亦棄眾奔于南軍。玄並趣輕舟追仲堪,至尋陽,而推率為盟主,鎮于夏口。德宗加玄都督荊州四郡,以玄兄西昌公偉為輔國將軍、南蠻校尉。寵玄兄弟,欲以侵削荊雍。

殷仲堪は、軍を南に戻した。殷仲堪は、人を送って桓玄の軍に従わせ、伝言した。
「もし王恭に従った各軍が散歸しなければ、司馬氏の大軍が江陵に来て、生き残った人は皆殺しにされるだろう」

曹操と、馬超や韓遂ら「関中十部」と同じだ。潼関に固まったから、まとめて撃破された。もし散っていれば、夏侯淵が、平定に何年かかったのやら。

殷仲堪の偏將・劉系は、兵2000を連れて、楊佺期に従った。味方がそれぞれ帰ってしまったから、桓玄は大いに懼れて、狼狽して逃げた。
庾楷は、兵を捨てて南軍に逃げ込んだ。
桓玄は、水軍を併せて、殷仲堪を追い、尋陽に到った。だが桓玄は盟主に推されたので、夏口に鎮した。

旧王恭派は、自主的に散らばったのか。それとも司馬氏が、連携を削ぐために、わざわざ各州を任せたのか。ここだけじゃ、分からん。

東晋は、桓玄に都督荊州四郡を加えた。桓玄の兄・西昌公の桓偉を、輔國將軍、南蠻校尉とした。桓玄の兄弟は権力を握り、荊州や雍州を、東晋から侵削したいと考えた。

雍州といっても、長安のあたりではない。東晋が設置した雍州は後退していて、せいぜい後漢の荊州最北部だと思えばいい。襄陽附近だ。